真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書三・十一)と主に感謝し、賛美せずにはいられません。
 私が信仰の道に至るまでの長い道程をお話しする時、それは私の人生の歩みのような気がします。
 私は昭和二十一年に生まれました。その時、敗戦と貧困のショックで内外の日本人だれもが茫然自失としていた状態でした。私の父は、住友の精錬工場に日本から派遣され、朝鮮の文川(ブンピョウ)という所に勤務しておりました。父がまだ朝鮮におりました時に終戦を迎え、その時からそこはソ連の支配下になりました。それで日本人は国境である三十八度線を越えて、アメリカ軍の支配下まで引き揚げなければなりませんでした。父はクリスチャンであったため主に祈り、また若くして日本人会会長を任命され、すべての人々の安全を考え、皆を先に日本に帰して、最後に十家族足らずの人々と引き揚げなければなりませんでした。その時、私はまだ首のすわらない二カ月の赤ん坊でした。(日本人の中には、その時、自分の子供を日本に連れて帰ることができないと考え、現地の方々に預ける人、また本当に子供を愛しているがゆえに、自分の手で子供を殺した人、またそれとは逆に、自己中心的な生き方ゆえに子供を捨てた人もいたそうです。)やはり私の両親にとっても、私を連れて帰ることには大変な決断が必要だったと思います。特に父は、リュックを背負ってその上に幼い姉をのせ、私を胸に抱き母の手を引いて、日本に帰ってまいりました時は、父のリュックの中身は私のおしめだけという状態だったそうです。しかし、父がすべてを主にゆだねた時、主は本当に私達を豊かに祝福してくださったばかりか、幼い私の命さえも守ってくださり、家族そろって日本に帰ることができました。
 このように、私は生まれた時から、主に祝福され、幼年期はきれいなカードを集めることとか、クリスマスの劇の楽しみなど、遊びのつもりで日曜学校に通 っておりました。中学・高校時代は受験などに追われて、ときおり教会に行くといった程度の信仰でしたが、もっと本当に真剣に神様のことをよく知りたいと思い、ミッション・スクールに進みました。そこでは、毎日チャペルアワーがあり、聖歌隊にも入って、毎日祈りの後のレスポンスをしておりました。
 すばらしいクリスチャンの教師や友人、そして花の日礼拝、クリスマス会、天地創造・メサイヤなどの賛美礼拝、色々な修養会、聖書研究会などの機会に恵まれて、主を心の中に受け入れていながら、若さゆえの潔癖な考えから、はっきりと説明のつけられない「神の奥義」という説明に疑問を感じ、また未熟さゆえに自分の物差しでしか人々を計ることができないため、彼らの不完全さを許すことができず、クリスチャンの偽善的な行為を許せないと感じたりしていましたため、主はまだ私に本当の「救い」をお与えになってはくださいませんでした。

 そして聖歌隊の先輩であった主人と結婚し、子供も授かりましたけれど、企業戦士としての主人は毎日深夜の帰宅で、独りぼっちの子育てにも、とても不安を感じておりました。そのような時、姉がエホバの証人と交わるようになり、私の所にも姉妹が来てくださるようになりました。「家庭にいながら聖書が学べる」というお話にうれしくなり、すぐ研究をOKしました。その教理は以前に私が学んだことと何か違うなとは思いましたけれど、その姉妹との研究が楽しくて、姉妹の来てくださる日を待つようになりました。しかし、その研究の真の目的は、約六カ月後に私が「エホバの証人」として行動を起こすかどうかを決定させられるものでした。私はエホバの証人の様々な教えに悩んでおりました。ちょうどその時期に、主人の転勤で東京に引っ越すことが決まり、内心「ああ、よかった!」と思ったのですが、組織の連絡網は徹底していて、私に与えられた次の研究司会者は会衆を治める長老の奥様で、とても積極的な方で、グズグズしている私もどんどん引っ張られて行かれるという感じの方でした。まるで「生きた聖書字引」のように聖書をすべて暗記していて、私の疑問もすべて聖書から説明されました。人間的にもすばらしい方でしたので、私もこの方のように聖書に精通 したい、そして自分を聖書の基準に合わせて神に祝福されるような人間へと人格を進歩させていきたいと願うようになり、必死で聖書の個人研究を始め、喜びで満たされておりました。そして、「宣べ伝えるわざ」にも用いられ、研究生も与えられたことを聖霊の導きと思って、感謝いたしておりました。そして主を受け入れ、水のバプテスマを受けました。

 その時、神様は肉体的に苦しい大きな試練を通して私を打ち砕かれ、私にその組織を冷静に見直す機会をお与えになり、その組織から離れるきっかけを与えてくださいました。
 しかしスッカリ洗脳されておりましたので、救いを求めて教会に行っても、その中で余計、疎外感を感じるだけで、心は満たされることはなく、毎日毎日泣いて暮らしていました。
 そのうち「こんな暗い生活をしていてもしようがない。どうせ私は滅びの側なのだから、もう神様のことを考えないで、この世のことに楽しく生きよう」と考えるようになりましたが、真理を知りながら神様に目を向けないで生活していくことは、私にとって逆に大きな努力が必要でした。けれども、日常の生活に忙しく追われて、年月が流れていきました。しかし、私の信仰を再び呼び起こすきっかけとなったのは悲しくも、三年前、お医者様から「お父さんの命はあと、半年!」と宣告された時でした。とても耐えられない思いがいたしました。主人と子供とはまだまだ一緒に人生を楽しむことができるけれども、父とはこの地上での残された時間があまりないと思い、主人にお願いして家を空けさせてもらい、三カ月の看病をすることができました。その時、父のクリスチャンとして人生、私の人生について深く考えさせられました。

 そしてお葬式の時、イエスの一粒の麦のたとえを牧師は話してくださり、私の心の中の神に対する思いを再びよみがえらせてくださいました。もう一度、神様の御元に立ち返ろうと、何か素直な気持ちにさせられ、その時、神様は私を許して豊かに祝福してくださり、またすばらしい姉妹と交わる備えをしてくださいました。ある集会に集った時、聖歌の四〇四番『イエスはなれをよびたもう』の「♪かえれや~かえれやと主はいまよびたもう」の歌の調べに涙が止まりませんでした。「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ二・八~九)と述べられているように、あわれみ豊かな神の大いなる愛と、恵みに感謝いたしました。

 そのような時、福音センターのHさんより立川駅前教会を紹介され、またゴスペル九〇に集まった時、私の大好きな賛美歌五二〇番の歌が賛美され、主に感謝の気持ちで涙が溢れました。
 そして毎週のリーズナー先生のすばらしいメッセージを通して、毎回主が私に働きかけておられるのをひしひしと感じ、胸の高鳴る喜びを押さえることができません。
 何年もの間、霊的に不安で、教会においても常に何かしらの疎外感を感じており、まるでサマリアの女のように日陰の女のような気持ちで集会に集っていました。自分の心の中では神様を受け入れていても、公にはクリスチャンとして認められていませんでした。
 しかし、神様はとるにたらない私のような者をも顧みてくださり、いつも共に歩んでくださり、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」(ヨハネ三・十六)と、イエス・キリストの十字架のあがないによって私を救いの中に導いてくださり、バプテスマを受けることができましたことを心から感謝し、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と賛美いたします。