真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 私は、カルト問題に取り組むようになって、今年で28年になります。最初のきっかけは、エホバの証人の訪問です。一人のエホバの証人が私に伝道するために、訪ねて来たのです。エホバの証人と直接、話をするのは初めてでしたが、ヨハネの福音書三章三節の聖句を引用しながら、「あなたは新しく生まれた経験がありますか」と質問してみました。相手は新米の伝道者だったようで、当惑した様子で、「調べてきます」という言葉を残して帰っていきました。玄関での10分ほどの立ち話でしたが、婦人は次の週、ベテランの伝道者を連れて、再び我が家を訪れました。明らかに、前回とは雰囲気が違います。初めから話の主導権をしっかりと握って、中年のエホバの証人は朗々とものみの塔の教理について語り続けます。こちらから何を質問をしても、自信をもって組織の出版物から答えます。新米の伝道者はと言うと、黙って隣で話を聞いているだけです。ところが、途中で、若い婦人も、ベテランが話をしている間、小さな声で何かを言っています。最初は聞き取れませんでしたが、よく耳を澄ますと、なんとベテランの伝道者と同時に、同じ言葉を発しているのです。この奇妙な経験を通して、私は一つのことに気付き始めました。つまり、エホバの証人は聖書を用いながら、神との個人的な関係を築いておらず、完全に組織にコントロールされている人々であるということです。またその時、「可哀想だ」という気持ちになったと同時に、「どうしても、この人たちに本当の福音を伝えなければならない」という聖霊の迫りを感じたのです。同じ時期に、東京都内で、モルモン教の宣教師との出会いもありました。「私たちもクリスチャンです」とにこやかに話す彼らの言葉に耳を傾けてみることにしました。ところが、そこで聞かされたのは、「ジョセフ・スミスによる教会の回復」、「神殿での永遠の結婚式や死人のための身代わりバプテスマ」、「人間も神になれる」という奇妙な教理。「これがキリスト教として日本で紹介されたら、えらいことになる」と思いました。危機感を抱きつつ、日本人に正しい情報を提供できるように、アメリカから百冊以上の本を取り寄せて、本格的な異端研究を開始しました。そのうちに、自分の研究したことを本にまとめてはどうだろうか、と考え始めました。1983年の夏、『エホバの証人とキリストの証人』が出版されて、国内のキリスト教書店で販売されることになります。本が発売されて、数カ月たつと、「あなたの本を読んで、エホバの証人をやめました」という連絡が定期的に入るようになりました。「異端セミナーをやってください」という教会からの依頼もありました。また、「相談に乗ってほしい」という家族からも、手紙や電話が来ました。段々とカルト問題のために多くの時間を費やすようになった中で、やがて、一つの決断を迫られました。このまま牧師を続けるか、いよいよフルタイムでカルト問題に取り組むべきか。6カ月間、祈った結果、自分が異端の中で苦しんでいる魂の救いのために日本に召されたという結論にたどり着きました。そこで、1988年の4月に、真理のみことば伝道協会を発足しました。その後、更に何冊かの本を書いたり、ロシアやインドや中国などでセミナーを開いたり、多くのエホバの証人の救出カウンセリングを行ったりして、本当に主の驚くべきみわざを拝見させていただきました。また少しずつ、カルトの脱会者のフォローアップの重要性を認識するようになったのです。1998年頃から、『カルト研究リハビリ・センター』のビジョンを掲げました。カルトから救われた方々を受け入れて、リハビリ・カウンセリングをするための施設です。多くの方々の祈りと支援によって、2001年の12月にセンターができました。言うまでもなく、主にエホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会の元信者が利用されると思っていましたが、蓋を開けてみたら、カルト化したキリスト教会の中で傷ついたクリスチャンからの相談が圧倒的に多くなったのです。教会のカルト化問題は、私たちが数年前から感じていたことで、2002年の暮れに『教会がカルト化するとき』という本を出しましたが、正直なところ、こんなに深刻な問題だとは予測していませんでした。幸いなことに、傷ついた方々が少しずつ、元気を取り戻しています。その癒しのプロセスを早めるために、去年の2月に、『健全な信仰、カルト化した信仰』という本をいのちのことば社から出版していただきました。一部の牧師たちから、「日本の教会を混乱させている」と批判されたこともありますが、この問題が明らかにされて、教会が清められることは、日本のリバイバルのためには不可欠なステップだと信じています。
 さて、この第2の講義の中で、「セカンド・チャンス論と正統的教理との整合性」というテーマが与えられています。具体的に、正統的教理とセカンド・チャンス論は噛み合うのかどうか、歴史上に現れてきた異端と違うものなのかどうかということを、一緒に検証していきたいと思いますが、エホバの証人の出版物である『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の中に、次のような個所があります。
「例えば、過去幾世紀もの間に、字の読めない人々や、聖書を見たこともない人々が多数死んでいます。その人々はシェオル、またはハデスからよみがえらされます。それからパラダイスの地で神のご意志を教えられ、神のご意志を行なうことによって神を本当に愛することを証明する機会を持つのです。」
エホバの証人も、セカンド・チャンスを支持しています。また、モルモン教の『信仰箇条の研究』という本には、こう書かれています。
「刑罰の期間については、それが罪の如何によって程度が違うものであるとはっきり言うことができ、また悪事に対するあらゆる刑の宣告が無限に永いという考えは誤っているとはっきり言える。来世に及ぼすこの世の行為の結果はまことに大きなものであり、また悔い改めの機会を失った責任は必ず負わねばならぬのであるが、神は墓を越えて死後までも罪を赦す力を保有したもう。」
末日聖徒イエス・キリスト教会にも、セカンド・チャンスの支持者がいました。勿論、エホバの証人の教理やモルモンの教理の中にセカンド・チャンス論的な考えがあるからと言って、必ずしも、間違っているとか、聖書から逸脱しているということになる訳ではありません。あくまでも、セカンド・チャンス論を聖書と比較することが肝心です。先程から、セカンド・チャンスの聖書的根拠が極めて薄いということをお話ししていますが、はっきりとセカンド・チャンスを否定する聖句はあるのでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:16-18)。

この聖句の中の「信じなかった」という表現は決定的です。それは、既にキリストを信じないと決めてしまった、だから今も信じていない、そしてこれからも信じないという意味です。「すでにさばかれている」も決定的です。それも、既に裁きが決められてしまっているということを意味しています。「私には救い主など必要ない」、「私はキリストを信じない」と決めている人間は、生きている間から既に裁かれることが決定されており、やがてその裁きが執行されるのです。ですから、裁きが決定されるのは、最後の審判においてではありません。人が生きている間に、キリストを信じない、あるいは求めないと決心した時に、その人の永遠の運命が決定されるのです。『聖書的セカンドチャンス論』の中で、久保氏は、最後の審判に関して、別の考えを述べています。
「裁判というものは、有罪か無罪かを決定するためのものであり、無罪になることもあるのです。世の終わりに開かれる神の『最後の審判』の法廷もそうです」(66頁)。
確かに、この世の法廷において、無罪判決が出ることがあります。何も悪いことをしていないのに、無実の罪を着せられることがあるのですが、天の法廷においては、「あなたは無罪です。あなたは何も悪いことをしていません」と言われることはあり得ません。なぜなら、「すべての人は罪を犯した」と聖書に明記されているからです。勿論、イエス様を信じる者は、主の贖いのゆえに罪が赦され、罪の刑罰も免除されます。だからこそ、「さばきに会うことがない」と書かれているのです。つまり、信仰によって義と認められた者は、天の法廷に出頭する必要などないのです。
一つの実例で説明してみましょう。私が車で高速道路を走っている時にスピードを出し過ぎて、パトカーに止められたとしましょう。200キロも出ていたので、10万円の罰金チケットを切られてしまいます。私はその罰金チケットを持って、警察署に出向きます。「では、10万円の罰金を払ってください」と言われます。しかし、私にはそんな大金はありません。「では、刑務所に入ってもらうしかないから、その服役の期間を決めるために、法廷が開かれます」と言われるのです。「困ったな~」と思っていると、知り合いの牧師がやって来て、「私があなたの代りにその罰金を払ってあげましょう」と言ってくれたとしましょう。その場合、知り合いの一方的な好意によって、罰を受けずに済むということになる訳ですが、知り合いの行為を拒んだ場合、どうなるのでしょうか。法廷に出頭せざるを得なくなります。そして、必ず、刑罰を言い渡されるのです。悪いことをしている訳ですから、間違いなく、有罪判決を受けるのです。
これと同じように、人類は一人の例外もなく、神の律法を破っています。もう既に、神の前で有罪なのです。しかし、自分の罪を認めて、キリストが私の罪の代価を支払ってくださったということを信じるなら、罪の刑罰が帳消しにされて、裁きに会う必要がなくなります。ですから、黙示録の20章に登場する人々は、天の法廷に出ること自体が、彼らに希望がないことを証明しています。彼らは、キリストにある救いを求めなかった訳ですから、自分の行いに応じて裁かれることになり、間違いなく、極刑を受けるのです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)。

人が御子を信じるのはいつでしょうか。勿論、生きている間です。御子に聞き従わないのは、いつのことでしょうか。勿論、人が地上で生きている間のことです。その人は「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」のです。では、人が救われるのは、いつのことでしょうか。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」という、この表現も決定的です。その人は生きている間に、死ぬ前に主を受け入れ、また信じたのです。ここで、「人の意欲によってでもなく」という言葉にご注目ください。この言葉は、人がハデスに行った後に、救いを経験することも、救われたいという願望を持つことも不可能であるということを示しています。つまり、新生の体験、あるいは救いの体験は、聖霊のみわざであって、聖霊の助けがなければ、人の救いはあり得ません。では、どうでしょうか。聖霊なる神が今、ハデスにご臨在されて、キリストを信じなかった人々のうちに働いておられる、というふうに考えられるのでしょうか。意見が分かれる問題だと思いますが、私は違和感を覚えます。それは、聖書が地上における聖霊のみわざについて詳細に述べていても、ハデスでの働きに関しては、全く沈黙しているからです。聖書が沈黙していることに対して、希望を持ったり、期待を抱いたりすることは、極めて危険なことだと私は考えます。人が救われる、救われないは、生きている間に決定されます。

「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:29)。

この聖句が語っている「善を行なった」、また「悪を行なった」とは何を意味しているのでしょうか。5章23-24節を見てください。
「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
すなわち、イエス様のみことばを聞いて、御子を遣わされた父なる神を信じることが、御父と御子を敬うことであり、それが善です。また、御父を信じないことが、御父と御子を敬わないことであり、それが悪なのです。

「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです』」(6章29節)。

同じことの繰り返しになりますが、主イエス様を信じることが神のみわざを行なうことであり、それが善であり、その善を行なった者はよみがえって命を受けます。一方、信じないことが悪であり、その悪を行なった者は「よみがえってさばきを受ける」と主は宣言されました。主は昇天される前に、弟子たちに大宣教命令を託されました。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコ16:15-16)。

「信じない者」とは、生きている間に信じない者のことです。「罪に定められる」とは、有罪判決を受けることであり、信じないことが罪なのです。つまり、信じなかった罪のために裁かれるのです。
セカンド・チャンスの問題を検証する時に、もう一つ、注意深く見ておかなければならない聖句があります。ルカの福音書16章にある「ラザロと金持の話」です(19-31節)。キリストの復活の前は、ハデスは慰めの場所と苦しみの場所に分かれていたようです。神を信じる者は慰めの場所に入り、信じない者は苦しみの所に入った訳ですが、主が甦られた後、旧約聖書の聖徒たちは主と共に、天に昇って行きました。そして今は、クリスチャンは地上の生涯を終えた時に、すぐに主のもとに、つまり天の御国に入るのですが、このルカの福音書のみことばは、ハデスにいる人々の状態を明らかにしています。まず、彼らは苦しんでいます。次に、彼らは少しでも、その苦しみから解放されることを願っていますが、その願いが叶えられることはありません。よく見ていただきたいのですが、金持の嘆願もアブラハムによって退けられています。3番目に、ハデスにいる魂は、後悔することがあっても、罪を悔い改めることはありません。金持ちは、「あわれんでください」と叫んでいますが、「私は大変な罪を犯しました。赦してください」とは言っていないのです。彼は聖霊の働いておられる領域から出てしまっているので、悔い改めることができないのです。久保氏は、ハデスの苦しみは、人を悔い改めさせるための懲らしめ的苦しみだと言っています。つまり、「金持ちはハデスで心が砕かれ、悔い改めた。だからこそ、自分のことを考えずに、兄弟たちのために執り成しをしている。その無私な愛のゆえに、キリストに覚えられ、救われたはずだ」ということですが、私はこの解釈に首を傾げずにはいられません。彼の罪の告白は、どこにあるのでしょうか。もし、金持が本当に砕かれて悔い改めたのであれば、アブラハムが彼の悔い改めに全く応答していないのは、なぜでしょうか。更に、『聖書にみる死後の世界』の中で、久保氏は、ラザロについて、次のように解説しています。
「慰めの場所に行ったラザロは、特に旧約の聖徒と呼ばれるほどの人物ではありませんでした。ラザロはむしろ単に、不幸な境遇にありながらも善良に生きた、という人物なのです」(61頁)。
これは極めて、重要な発言です。ラザロは不幸な境遇の中にあったけれども、善良に生きたから、慰めの場所に入った、というのです。また、「彼のような人物は、今の時代にも大勢います」と書いています。つまり、クリスチャンではなかったから天国には行けませんが、神の御前に善良な生活をしようと努力した彼らは、ハデスの慰めの場所にいる、ということです。そのグループの中には、例えば、マハトマ・ガンジーなどのような偉大な人物が入っているそうです。ローマ書のみことばを受け入れることができないのでしょうか。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(3章10―11節)。

みことばは、はっきりと述べています。神の目から見て、善良な人間はいません。どんなに立派に見える人であっても、救われなければならない罪人なのです。これが、福音の原点なのです。これを否定すれば、もはや正統的なキリスト教ではありません。
先日、アフガニスタンでNGO活動に参加していた伊藤和也さんという31歳の青年がタリバンの手によって誘拐されて、殺害されてしまいました。アフガニスタンの復興のために自分をささげていた伊藤さんが殺されたというニュースを聞いて、私はショックを受けると同時に、タリバンに対する深い憤りを覚えました。どうして、あんな立派な青年が殺されなければならないのかと思いましたが、伊藤さんは、農業の支援をすると共に、イスラム教の神学校の建設をも手伝っていたようですから、クリスチャンではなかったでしょう。そこで、もし、久保氏に対して、「彼は死んだ後、どうなるんですか」と聞いたら、間違いないなく、このような答えが返ってくるでしょう。「勿論、ハデスで慰めを受けて、福音を聞き、やがて天国に入るでしょう。善良な青年だったからです。」恐らく、日本人の99.999%はこの答えに納得すると思います。「当然だ」と言うでしょう。しかし、これが聖書的な答えなのでしょうか。確かに、私たちの目から見れば、伊藤さんは立派な青年でしたけれども、聖書は「義人はいない。善を行なう人はいない。神からの栄誉を受ける人はいない」と述べているのです。また、聖書は、「立派な人が救われる」と言っているのではなく、「イエス・キリストを信じる者が救われる」と書いてあるのです。もし、善良な人が救われるのであれば、私たちは善良な人間になるように努力しなければなりません。「信じる者が救われる」というメッセージを捨てるべきです。しかし、ヨハネの福音書3章16-18節にあるみことばをそのまま受け入れて、その福音に堅く立つのであれば、「善良な人も神に顧みられるはずだ」という正反対の発想を否定しなければならないのです。「罪人を救ってくださるイエス様」と、「善良な人を省みてくださるイエス様」を混同してはならないのです。
久保氏の著書の中に、更に気になる個所があります。少し長いのですが、読ませていただきます。
「キリストの十字架が私たち人間の罪の贖いのためであった、と信じるだけでは、まだ回心ではありません。サタンや悪霊たちさえも、そのことを知って、認めているのです。回心とは、単に神の存在や、キリストが救い主であると認めること以上のものです。それは、神と共に歩み始めることなのです。信仰とは、神を愛し、御子キリストを愛することです。また自分の救いについてキリストに全面的に信頼し、彼に従うことです。そうすれば救われる――それが福音なのです。信仰の本質は、神の御教えと心を一つにすることにあります。回心の本質は、神とキリストに従うことにあります。回心とは、神の御前に忠実な者となることです。この点で『よみ』の人々は、福音を聞いて回心するかどうかを問われた時、心の純粋性が極めて厳しく試されたことでしょう。たとえば、『よみの苦しみから逃れるために信じる』とか、『最後の審判が怖いから、それから逃れるために信じる』というような気持ちで信仰を表明したとしても、それは回心とは認められないのです。彼らは、神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われたことでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われたことでしょう」(124-125頁)。
この言葉によると、救いは、厳しいテストに合格した者にだけ与えられるようです。純粋であるかどうか、忠実であるかどうか、従順であるかどうかが厳しく問われるというのです。皆さん、ここではっきりと申し上げましょう。これは福音の曲解です。忠実云々というのは、救われた後の課題であって、救われるための条件ではないのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1-3)。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」とあります。一つ、皆さんにお尋ねしたいと思います。死人に何か、できることがありますか。ここに、どなたかの亡骸があったとしましょう。声をかけても、反応がありません。「この重い荷物を運ぶのを手伝ってくれ」と頼んでも、手を貸してくれません。死んでいるからです。では、どうでしょう。私たち人間が霊的に死んでいるとすれば、その死んだ状態で神に従うことができますか。神のみこころを行なうことができますか。まず、神の命によって生かされなければなりません。それが救われるということなのです。救いに預かって、心が新しく造り変えられるなら、神を愛することも、神に従うことも、忠実に仕えることもできるようになるのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(8-10節)。

ここにあるように、救いは信じる者に与えられる賜物です。私には3人の子供がいます。3人とも、もう、成人していますが、小さい頃、海外の奉仕から帰って来た時など、プレゼントをしたことがあります。そのプレゼントを、鞄から出した時の子供の反応を、今でもはっきり覚えています。子供は何も遠慮せずに、「ありがとう」と言って、手を伸ばし、プレゼントを受け取るのです。しかし、もし、子供が緊張した顔をして、「お父さん、ずっと良い子でした。宿題も頑張ったし、お母さんの言うことも全部聞いたし、お手伝いもしました。だから、お父さんのプレゼントをもらう資格があると思うのですが、どうでしょうか」と言ったら、どうでしょう。「一体、どうしたんだろう」と考え込むと思います。とても心配になると思います。賜物は、人の一方的な好意によるものです。人が誰かにプレゼントをする時に、純粋かどうか、忠実かどうか、あるいは、従順な態度かどうかなどということを厳しくチェックしたりしません。感謝して受取ってもらえれば、それで良いのです。
久保氏の説く福音は、恵みの福音ではありません。非常に厳しい、戒律主義です。どうしようもない罪人が救われる福音ではありません。立派な者、忠実な者、テストに合格した者が救われる福音なのです。ちなみに、エホバの証人の福音もそうです。最後の最後まで忠実さを保って、自分が神の国にふさわしい者であることを証明すれば、神の楽園に入れてもらえるというものです。ですから、救いの確信を持っているエホバの証人はいません。どれくらい忠実であれば合格点がもらえるのか、どれだけ従順であれば神に認められるのか、分からないのです。彼らは常に、不安と緊張の中で生きています。久保氏の福音を信じる者も同じです。
しばらく前のことですが、福島県に住む、ある主婦から電話がかかってきました。その主婦は7年間ものみの塔とかかわっているけれども、途中から疲れてきたと話しました。初めの5年位、彼女は模範的なエホバの証人になろうと努力しました。ところが、頑張れば頑張るほど、自分が罪深い、滅んでも当然な者であるということがはっきりと分かってきたのです。神は遠い存在となり、自分は出口のないトンネルに入り込んでいるような感じがした、ということです。そこで、彼女は「聖書の本当のメッセージとは何なのだろうか」と、真剣に考え始めて、近くのキリスト教書店に行き、30冊もの本を買ったそうです。その中の一冊が、私の本でした。一番最後に私の本を読んだようですが、読んでいくうちにすべての疑問が解けて、エホバの証人から脱退する決心をすることができたそうです。私に電話をくださったのは、救われるためにどうしたら良いのかということを聞くためでした。私はすぐに手元の聖書を開いて、エペソ書2章8-9節を読みました。この聖句にあるとおり、救いは神の無償の賜物であり、私たちはただ信仰によって受け取れば良いということ、また、救われるに値する者になろうと努力するのではなく、ありのままの姿で神の胸に飛び込んでいけばいいのだ、ということを説明しました。すると、相手の女性は貴重な宝石を発見したかのように、本当に喜んでくれました。最後に、「イエス・キリストを信じ受け入れます。」と言って、電話を切ったのですが、その直後に洗礼を受けて、早速、エホバの証人に対する伝道を開始して、10人以上の人を導いたそうです。
恵みの福音に立っている者は、自分が救われたこと、神の子供とされたこと、永遠の命を持っていること、死んだのち神の国に入れることに対して、絶対的な確信が持てます。その確信はどこから来るのでしょうか。自分の行いがしっかりしているから確信を持っているのでしょうか。一生懸命に、忠実に神に従っているから、大丈夫だと思っているのでしょうか。いいえ、違います。「イエス・キリストは十字架の上で、私の罪の代価を完全に支払ってくださった。だから、私は救われて、神の永遠の愛の中で、守られている」という信仰です。自分の行いではなく、キリストの十字架の功績に信頼しているのです。救いは信仰によるのであって、行いによるのではないとエペソ書に書かれています。勿論、行いによるのではないからといって、行いの重要性を軽視してはなりません。行ないも大切です。しかし、それは、救いを得るための手段として大切なのではなく、救われた証として重要なのです。救われた者は、救われた結果として、必ず、良い行ないに歩むようになります。主を愛し、主に従い、忠実に主に仕えるようになるのです。
久保氏は、ハデスで福音を聞かされた人々は、「神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われることでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われることでしょう」と言っていますが、このように、救いのハードルを高くしているのには、それなりの理由があります。つまり、さんざん、ハデスで苦しい思いをした人が、「イエス・キリストを信じれば天国に行けますよ」と言われれば、当然、全員、信じるに決まっているのではないかという疑問が生まれるでしょう。聖書には、滅びる人もいると明白に書かれているのですから、久保氏は、「すべての人は救われる」とメッセージを語る訳にはいかなくなります。それで、「信じるだけで救われる」という教えを否定して、救われるための条件を難しくするしかない、ということになる訳です。
 では、最後に、セカンド・チャンス論はカルトであると、断言できるかどうかについて考えてみましょう。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端を密に持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(2ペテロ2:1)。

異端」という言葉は、ギリシヤ語では、「ハイレシス」(“Heresy”)と言いますが、新約聖書の中で9回ほど使われています。そして、「分派」とか、「一派」とか、「宗派」と訳されることが多いのですが、この聖句で異端のおもだった特徴を見ることができます。まず、異端はにせ教師による福音の曲解です。福音の基本的なメッセージが変えられてしまうのです。その一つの具体例として、ガラテヤの異端を挙げることができると思います。にせ教師たちによって、律法主義的な福音が誕生しました。「キリストを信じるだけでは救われない。律法の行いも必要だ」という教えです。次に、異端は主を否定します。具体的に言うと、キリストの神性を否定するとか、十字架の完全性を否定することです。エホバの証人は、イエス・キリストはエホバによって最初に造られた御使いであると教えています。主の神たることを否定しているので、異端です。異端の3番目の特徴は、滅びをもたらすことです。これらの特徴を踏まえたうえで、私は異端を次のように定義づけています。
「自分達こそが真のキリスト教会であると主張していながら、イエス・キリストを否定するか、救いにかかわる聖書の最も基本的な教えを曲解するグループです。」
では、「セカンド・チャンス」はどうでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。まず、これを支持すると、「セカンド・チャンス」の教えによって、キリストを信じる決心を後回しにして、結局、生きている間にイエス様を信じない人々が出て来るということになります。「セカンド・チャンス」というのは、「死後でも間に合う」というメッセージになります。そうです。最終的に行き着くところは、「今、イエス・キリストを救い主として受け入れなくても、滅びることが決定する訳ではない」ということです。こうして、「セカンド・チャンス」は、人々を信仰の決心から遠ざけてしまう恐れがあります。「後でも間に合うなら、今はクリスチャンにならないで、この世での生活を楽しもう」と考える人間が、必ず、出て来るでしょう。そして、「セカンド・チャンス」が実際になかったとしたら、この教理は人々を滅びに追いやるものとなってしまうのです。
もう一つ、救われるための条件が変えられているということ、信じるだけでは不十分であるということになります。忠実さ、純粋さ、従順も求められています。これは、聖書的福音の曲解です。
『セカンド・チャンスは本当にあるのか』の原稿を書かせていただいた時、はっきりと、「セカンド・チャンスは異端である」という言葉を入れました。しかし、編集の段階で、いのちのことば社のハサミによって、そこがカットされてしまいました。「セカンド・チャンスの支持者を刺激しすぎると、読んでもらえなくなる」という方針のもとで行われたことですが、時々、「それで良かったのかな」と考えたりします。ですから、今ここに、いのちのことば社の方もいらっしゃらないようですので、断言したいと思います。今述べた二つの点から、セカンド・チャンスは異端だと、私は判断しています。その判断を受け入れるかどうかは、皆さんの自由です。