真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 初めに、アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー集中講座の講師として、私のような者をお招きくださり、心から感謝いたします。与えられたテーマは、「セカンド・チャンスを検証する:未信者の死後の救いはあるのか」ということですが、ご承知のように、これはかなり前から、日本のキリスト教会の中で議論されてきた問題です。私がこの議論に引き込まれたのは、2006年の1月です。出所不明の小包が我が家に届きました。実は、それ以前にも差出人の名前も住所も書かれていない郵便物を受け取ることはしばしばありました。「おまえとおまえの家族を殺す」という脅迫状だったり、「『異端だ』、『カルトだ』と人を裁くあなたは何様だ。悔い改めよ」という内容のものであったりすることが多いので、今度は何だろうと思いつつ、小包を開けてみました。すると、本が1冊だけ入っていました。久保有政氏が書かれた『聖書的セカンド・チャンス論』という本でした。未だに、どなたが、どのような意図で送ってくださったか、分かりません。私は以前、久保氏が発行しておられる『レムナント』誌の記事を読んで、その教理のことを知ってはいましたが、詳しい内容の本を見るのは初めてでした。正直なところ、挑戦状を叩きつけられたような思いがしました。この本を読み終えた後、この教えにかける久保氏の並々ならぬ執念を痛烈に感じました。何とか、一人でも多くの日本人をキリストへ導こうとする熱意も伝わってきました。しかし、それと同時に、「セカンド・チャンス」の聖書的根拠への大きな疑問を抱かずにはいられませんでした。その数ヵ月後、私の所属する「ニューライフ・ミニストリーズ」の役員会で、その懸念を打ち明けました。すると、役員の一人である中川健一先生が、「セカンド・チャンスに反論する本を書きなさい」と言われました。その時、内心、「また、日本の牧師たちに嫌われるようなことはしたくない」と思いました。2003年に『教会がカルト化する』という本を出して、相当、恨まれるようになりました。また、セカンド・チャンスを支持する牧師がかなりおられるということを知っていたし、その中に私が20年前から親しくさせていただいている有名な牧師もいました。ですから、「ノータッチ」という立場を貫きたかったのですが、中川先生に「本を書きなさい」と言われたら、なかなか断る訳にはいきません。「先生、本が売れなかったら、どう責任を取ってくれるのですか」と聞いたら、「その時、またチャンスを上げます」と言われました。この本が出来上がるまでには、1年以上をかけて、その間3回も原稿を書き直すように、いのちのことば社の編集者から要求されました。途中で、完全に行き詰って、その作業を投げ出すこともありました。「もう、どうでも良い」と思ったのです。しかし、ある朝、祈っていると、聖霊が知恵を与えてくださいました。そこで、9か月ぶりにワープロの前に座って、原稿を書き上げることができたのです。
本論に入る前に、申し上げておきたいのですが、私は「セカンド・チャンス」という言葉が好きなのです。私自身、今までの歩みの中で、神の恵みによって何度もセカンド・チャンスが与えられています。30年以上も前の話になりますが、私が新米の宣教師として、大阪の豊中にある開拓教会で奉仕をしたことがあります。奉仕と言っても、片言の日本語しか話せなかったために、できることがとても限られていましたが、日本語でメッセージをする日がやって来るのを夢見ながら、芦屋にある日本語学校で、日本語の勉強に励んでいました。6か月ほどたった時点で、多少の自信がついたので、水曜日の祈り会で、初の説教にチャレンジすることにしました。自分としてはまずまず、よくできたほうではないかと思いました。ところが、集会の直後に、宣教団体の責任者の事務所に呼び出されて、次のような厳しいことを言われたのです。「聞くに耐えない、ひどい日本語だった。今後は、必ず、英語で話をして、誰かに日本語の通訳をしてもらいなさい。」私にとっては、たった一つのビジョンをぶち壊される、実にショッキングな言葉でした。しばらく、英語でメッセージをする屈辱的な日々が続きました。しかし、そんなある日、埼玉県で開拓伝道をしていた宣教師から、電話がかかって来ました。「一緒に働かないか」という誘いでした。「先生の教会には、英語を日本語に通訳できる方はいますか」と尋ねると、彼は「ノー」と答えました。「じゃ、行きます」と即答しました。その時以来、誰にも止められることなく、今日に至るまで日本語で聖書のメッセージを語り続けています。これはまさに、神の恵みによって与えられたセカンド・チャンスだったのです。
誰でも、人生の中で、このような経験をすると思います。しかし、未信者も死んだ後、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。生きている間に、イエス様を救い主として信じなくても、ハデスで悔い改める機会があるのでしょうか。その答えを知るためには、私たちは聖書を注意深く検証する必要があります。
 今日の第一セッションの中で、まず、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な聖句を、ご一緒に見ていきたいと思います。時間の関係で、3か所に絞らせていただきます。それでは、初めに、ペテロの第一の手紙3章18-20節を開いてみましょう。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
ご承知のように、この聖句に関して、幾つもの解釈が主張されます。一つは、「ノア宣教説」と呼ばれるもので、キリストが聖霊によって、かつてのノアの宣教の中におられ、ノアを通して、ノアの時代の人々に宣教をされたという解釈です。この解釈では、キリストがハデスに下られたことが否定されます。次に、「断罪説」という解釈があります。キリストはハデスにいる魂に福音を伝えたのではなく、ただ、断罪の言葉を述べられたに過ぎない、ということになります。この説を支持する人々の中には、「捕らわれの霊たち」を堕落した御使いたちと取る人もいます。3番目の解釈として、「勝利宣言説」があります。これによると、「捕らわれの霊たち」は、旧約聖書の聖徒たちのことであって、彼らは十字架による勝利の宣言を聞いてから、ハデスから解放されて、キリストと共に天に帰ったということです。最後の解釈は、「セカンド・チャンス説」です。つまり、ノアの時代の人々に福音が語られて、彼らに回心のチャンスが与えられたとする解釈です。
マルチン・ルッターは、「ペテロがここで何を言わんとしているか、さっぱり分からない」とつぶやいたそうですが、確かに難解な個所です。私自身の考えについて、後で述べることにして、まず、ここに「セカンド・チャンス」を支持するものがあるかどうか、注意深く見ていきましょう。「捕らわれの霊たち」とあります。この言葉は、誰のことを指しているのでしょうか。20節には、「ノアの時代に・・・・従わなかった霊たち」と書かれています。ギリシャ語の「プニューマ」は、人間の霊に対しても、また御使いに対しても用いられますが、一つのグループとして、「霊」とか、「霊たち」、あるいは「霊ども」という表現は通常、悪霊を指しています(マタイ8・16、12・28、マルコ1・27、3・11、1テモテ4・1)。この「捕らわれの霊たち」が悪霊を指しているということは、2ペテロ2章5節を見ても、明らかです。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
また、5節を見てください。
「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」
暗闇の穴の中に閉じ込められた御使いたちは、ノアの時代に神に逆らった「捕らわれの霊たち」なのです。4節の「地獄」は、「タルタールス」と言って、新約聖書のここにしか出てこない言葉ですが、ギリシヤ神話では、ハデスよりも下にある所と考えられていました。よく確認していただきたいのですが、ペテロは3章19節で、「ハデス」という言葉を使っていません。「捕らわれの霊たちのところ」と言っています。ですから、セカンド・チャンス説の釈義上の最初の問題は、無理矢理に、これを「ハデス」と読ませていることです。「ハデス」とは書かれていません。ユダも、その手紙の6節で、タルタールスに閉じ込められた御使いたちに言及しています。
「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
「永遠の束縛」という言葉に注目していただきたいと思います。「捕らわれの霊たち」と同じグループであることをご理解いただけるかと思います。また、7節に、ソドムとゴモラのことが書かれているので、この御使いたちが自分のおるべき所を捨てたのは、その前のノアの時代のことだと考えても差し支えないでしょう。創世記の記述も、この御使いたちについて言及していると思われます。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」(6章1-4節)。
ここも、神学者の意見が分かれる所ですが、まず、「神の子ら」はセツの系列で、「人の娘たち」はカインの系列だとする説があります。セツの子孫は主を恐れ、主と共に歩んでいましたが、不敬虔なカインの子孫と結ばれることによって、堕落してしまったということです。非常に分かりやすい解説ですが、ペテロとユダが語っている言葉の説明にはなりません。つまり、御使いたちが人類の堕落とどう関わっていたか、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」とは何を意味するのかということです。そこで、もう一つの解説として、「神の子ら」は御使いを指しており、「人の娘たち」は地上にいるすべての女性を指しているという解説が出てきました。つまり、御使いは人間と性交渉を持ったということになります。これを主張する聖書学者の中に、ケネス・ウィーストがいます。彼は、「神の子ら」は言語学的には天使的な存在以外の意味をなすということはあり得ないとしています。その根拠として、彼はヨブ記(38・7)やペテロの手紙の聖句を挙げています。勿論、この解釈に問題がない訳ではありません。一つは、御使いはどのように人間と性交渉が持てるのか、ということです。これは確かに、大きな謎ですが、ノアの時代に、御使いの許される行動範囲が今よりも広かったということが言えるかも知れません。いずれにしても、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」という言葉から分かるように、普段はあり得ないような、不自然なことが行われたということになるのではないでしょうか。
では、再び、ペテロの第一の手紙に戻りましょう。次に、「捕らわれの霊たち」に伝えられたメッセージの内容ですが、「みことばを語られた」とあるだけです。これはギリシヤ語の「ケーリュソー」が使われており、単に「告げ知らせる」という意味です。ちなみに、「喜びのおとずれを伝える」という場合は、「ユーアンゲリゾー」が用いられます。久保氏は、その著書(『聖書にみる死後の世界』)の中で、「『ケーリュソー』は、新約聖書に約50回出てきますが、いずれの場合も『福音を宣べ伝える』の意味で使われています」と述べています(113ページ)。しかし、実際には、そうではありません(使徒15・21、ローマ2・21、ガラテヤ5・11)。キリストは捕らわれの霊たちにみことばを語られました。残念ながら、そのメッセージの内容は不明ですが、仮に「十字架による贖いが成し遂げられた」というメッセージだとしましょう。そこで、まず疑問に思うのは、地上の誰もこの良きおとずれをまだ聞かないうちに、どうしてノアのメッセージを拒んだ人々にその特権が与えられるのか、ということです。不可解に思われませんか。もう一つの疑問は、キリストによって福音が語られていたとするなら、どうしてその結果、何が起こったかということが記されていないのか、という疑問です。つまり、福音が語られていたのなら、救いのみわざがなされたはずです。しかし、救われる魂が起こされたとは、どこにも書かれていないのです。よく、ご確認ください。久保氏は、ハデスにいる人々がたくさん救われたはずだと述べていますが、聖書はそのように述べている訳ではないのです。では、キリストは捕らわれの霊たちに一体、どんなメッセージを送られたのでしょうか。勿論、断定はできませんが、彼らに対する勝利宣言だったと考えることが最も自然ではないでしょうか。22節を見てください。
「キリストは天に上り、御使いたちも、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
「イエス・キリストはその十字架の死によって、サタンとその諸々の悪霊どもに完全に打ち勝ってくださった。そのことは、タルタールスにいる霊たちにも宣言されて、動かぬ事実として認められた。」ペテロが言わんとしていたのは、このことではないでしょうか。実際に、このメッセージこそ、迫害によって苦しめられているクリスチャンたちの慰めになるメッセージなのです。これがもし、「ノアの時代に、神に逆らった人々にセカンド・チャンスが与えられた」というメッセージだったら、果たして迫害に耐える力になったのでしょうか。
ここで、もう一度、セカンド・チャンスを支持する人々の主張をまとめてみましょう。「捕らわれの霊たち」とは、ノアの時代に神に逆らった人間のことである。「捕らわれの霊たちのところ」とは、ハデスのことである。「みことばを語られた」とは、福音を伝えたということで、それによって多くの人々が救われた、ということです。私に言わせていただけるなら、乱暴極まりない釈義ですが、この解釈には、まだ大きな問題が残っています。ノアの時代の人々に福音が伝えられたとしましょう。では、ノアの時代以降の人々は、どうなるのでしょうか。彼らにだけ、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。この問題に対して、久保氏は、黙示録11章3-11節を引用します。しかし、この個所は、あくまでも終末の時代に活躍する二人の預言者のことを述べているだけで、ノアの時代以降の未信者はどうなるのか、という問題にはふれていません。『聖書的セカンドチャンス論』から引用させていただきます。
「彼ら二人の預言者は、三年半にわたってエルサレムで宣教しますが、やがて横暴な独裁者によって殺されてしまいます。彼らの死体は大通りにさらされるのです。だが、彼らは三日半のうちによみがえるといいます。そして彼らはそののち昇天して天国に行くのです。彼らはその死んでいる『三日半』の間、一体どこに行くのでしょうか。聖書は、それを記していません。しかし天国ではないでしょう。なぜなら、彼らはそののち昇天して天国へ行くのですから、このときは天国に行く必要はありません。彼らは死んでいる三日間の間、陰府に下るでしょう。そして、かつてキリストが陰府で死者たちに福音を語られたように、彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません。つまりそのとき、ノアの大洪水以後の陰府の死者たちに、キリストの福音が語られるでしょう。」
皆さん、一つのパターンが見えてきたように感じませんか。聖書に書かれていないことについて、断言することが多すぎるのです。「彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません」と彼は言っていますが、二人の預言者による、ハデスでの福音宣教に関して、聖書は沈黙しているのです。ですから、100歩、譲って、ノアの時代の人々に福音が語られたと仮定しても、それ以外の時代の人々に対して、聖書は何の希望も提供していない、ということになります。セカンド・チャンスが与えられているのは、ノアの時代に神に逆らった人々だけです。
久保氏の解釈に対して、私はペテロの聖句を、このように理解しています。十字架の死によって贖いを成し遂げられたイエス様は、タルタールスに下り、堕落した御使いたちに対して勝利宣言、あるいは断罪の言葉を宣べられて、霊の世界においてすべての権威が与えられたことを明らかにされました。そこで、弟子たちに対して、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃってから、彼らを世界宣教に遣わされたのです。
 それでは、続いて、セカンド・チャンスの根拠とされている、もう一つの聖句を見ていきましょう。
 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした」(1ペテロ4・1-6)。
特に、この6節が議論の争点になりますが、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」とあります。言うまでもなく、久保氏は、この「死んだ人々」と3章19節の「捕らわれの霊たち」とを結びつけて、同じグループだと主張します。ご承知のように、この聖句は、3章19節と同じように、非常に難解なみことばとされており、種々の解釈があります。ある人は、「死んだ人々」とは、罪の中で霊的に死んだ人々のことであって、彼らはキリストを信じることによって新しい命を受ける、と理解します。また、「死んだ人々」はすべての死者を意味するとし、福音を受け入れずに死んだ人々にも死後に第2の機会が与えられると主張する学者もいます。その中の一人は、ウィリアム・バークレーという著名な聖書学者です。更に、「死んだ人々」は、今、この手紙が書かれている時には死んでいる人々、あるいは今は死んでいる人々であるが、生存中には福音を伝えられた人々のことだという立場もあります。この解釈は、『詳訳聖書に』よって支持されています。
「だから良い知らせ〈福音〉が死者にさえも〔彼らがまだ生存していた時に〕宣べ伝えられたのです。それは、彼らが肉のからだにおいては、人間がさばかれるようにさばきを受けるが、霊においては、神のように生きるためなのです。」
私が使っている”The Holman Christian Standard Bible”も同じように訳しています。
”For this reason the gospel was also preached to those who are now dead, so that, although they might be judged by men in the fleshly realm, they might live by God in the spiritual realm.”
私はこれを、次のように和訳してみました。
「こういう訳で、福音は既に死んでいる人々にも、宣べ伝えられました。それは、彼らが肉の領域において、人間によって裁かれても、例の領域において、神によって生きる者となるためです。」
ペテロの言わんとすることを、とても的確に表している訳だと思います。また、ペテロの手紙のテーマとも一致しています。先ほども申し上げましたが、ペテロの手紙を受け取ったクリスチャンたちは、激しい迫害を受けていました。彼らは命がけでキリストを告白し、伝道していました。既に、殉教の死を遂げた者も多数、いたことでしょう。私たちはこのテーマをしっかりと把握したうえで、ペテロの手紙を読まなければなりません(2:19-23、3:13-14、4:12-17)。有名な個所ですが、「さばきが神の家から始まる時が来ている」(4章17節)とは、当時のクリスチャンが未信者の手によって受けたさばきを指しています。つまり、信仰を持っているがゆえに受ける迫害であり、試練です。これは、罪に対する裁きのことではありません。後で、そのみことばを見ていきますが、クリスチャンは、罪の裁きを受けることはありません。しかし、未信者から不正な裁きを受けることはあるのです。
では、どの解釈がこのテーマに、より合っているのでしょうか。言い換えるなら、ペテロは当時の信者たちを慰めるためにペンを取っている訳ですから、どの解釈が迫害下にあるクリスチャンのより大きな慰めになるのでしょうか。セカンド・チャンス論にあるように、未信者は死後も救いのチャンスがある、というメッセージによって、当時のクリスチャンは、「よし、だからしっかり信仰に立って、殺されても福音を伝えよう」というふうに力づけられたのでしょうか。それとも、信仰のために命を落とした仲間は天に召され、今、主と共におり、神の御国で豊かな報いを受けているというメッセージのほうが、大きな力になったのでしょうか。『新共同訳聖書』から、4章6節をもう一度、読みます。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
 それでは、最後に、黙示録20章11-15節を見てみることにしましょう。
 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
これも、セカンド・チャンス論を支持する聖句とされています。久保氏は、最後の裁きの法廷に、「いのちの書」が提出されていることに注目し、それがハデスの死者に救われる者のいることを示していると主張します。つまり、ハデスの死者に回心者が一人もいなければ、なぜ回心者名簿である「いのちの書」が提出されるのか、というのです。
この個所で注目してみたいことが幾つかありますが、まず、ハデスの死者に回心者がいるとは、一言も書かれていないことです。久保氏の得意なパターンがまた、ここに現われています。「いのちの書」の提出は、必ずしも、ハデスのグループから人が救われることを保証していません。彼らを納得させるために、「いのちの書」に名前が書かれていないことを見せる、ということも十分に考えられます。もう一つ、注目すべき点は、「自分の行ないに応じてさばかれた」ということが2度も強調されていることです。神の裁きは本来、行いに応じて行われるものです。
「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ローマ2:6-8)。
忍耐をもって善を行ない、栄光とほまれと不滅のものを求める者は、報いとして、永遠の命を受けます。一方、真理に従わずに、不義を行なった者は、その報いとして神の怒りと憤りを受けるのです。ですから、永遠の命を受けたいと希望する者は、立派な人間になって、善行を積み上げていかなければならないということになりますが、使徒パウロは次の3章で、「義人はいない。ひとりもいない」と断言しています。
「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない』」(10-12節)。
また、イザヤ書のみことばも有名です。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(64:6)。
私たちの行いは、神の御前では、何の価値もない、賞味期限が過ぎた腐った食べ物のようです。ですから、行いに応じて裁かれる者は、間違いなく、不合格とされて、有罪判決を受け、火の池に投げ込まれます。裁きの時に、自分の行いを差し出して、その行いに応じて御国に入れていただけると期待する者は、必ず、神の前で幻滅させられるのです。では、誰が義と認められるのでしょうか。パウロは、3章19節からその答えを明確に述べています。
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(19-24節)。
ここにあるように、自分の行いに頼って、神の前に立つ者は、義と認められず、神の裁きに服さなければなりません。しかし、キリストを信じる者は、キリストの贖いのゆえに、義と認められるのです。こうして、神の前には、2種類の人間が存在します。自分の行いに応じて裁かれる者と、信仰によって神の裁きを免れる者です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。
信じる者が裁きに会わないのは、キリストが既に、彼らの身代わりとなって、罪の裁きを受けてくださったからです。ですから、行いに応じて裁かれる人々は、キリストに対する信仰のない人々なのです。信仰があれば、裁かれずにすむのです。そうです。そのことを踏まえたうえで、もう一度、黙示録の20章の聖句を見てみましょう。この人々は、行いに応じて裁かれると、2度も強調されています。彼らは自分の行いを差し出して、自分が神の国にふさわしい者であるかどうかを証明するチャンスが与えられますが、その結果は明らかです。自分の行いによって義と認められる人は、一人もいないからです。ちなみに、久保氏は、『聖書にみる死後の世界』の中で、イエス様を受け入れずに亡くなったご両親のことで悩んでいる読者に対して、こう答えています。
「あなたは世の終わりに開かれる最後の審判の御座において、主の御前に立つご両親の姿をそこで見ることになるでしょう。それは、ご両親の救いのために祈る最後の機会です。あなたは思いを尽くし、力を尽くして、主に向かって祈らなければなりません。」
久保氏は、その著書の中で、しばしば、死人のための執り成しを推奨しておられます。イスカリオテのユダの救いのために祈っておられるということですが、決して、聖書の中で勧められている行為ではないと思おいます。
 以上、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な3か所を見てきましたが、果たして、聖書的な教理だと言えるのでしょうか。私は大きな疑問を持っています。ある時、モンゴルで一人の日本人宣教師が外国人宣教師とモンゴル人のクリスチャンと同じ席で食事をしていました。モンゴル人がその外国人宣教師に、「キリストについて聞かずに死んだ人はどうなるのか」と質問しました。すると、その宣教師は、「聖書には、福音を聞かずに死んだ人が地獄に行くとは書かれていない」と答えました。日本人宣教師は驚いて、聖書を取り出し、テサロニケ人への第2の手紙1章8-9節を読みました。この聖句を読んでから、「私たちの主イエスの福音に従わない人々だけでなく、神を知らない人々も永遠の滅びの刑罰を受けると書かれているではないですか」と言い、またその外国人宣教師に質問しました。
「もしあなたの言ったことが正しいのなら、あなたはモンゴルに来て、非常に悪いことをしています。この人たちは福音を聞かなかったなら、地獄に行かずに済んだのです。それなのに、あなたは彼らに福音を伝えに来ました。残念ながら、多くの人は聞いても、キリストを拒んでいます。ということは、あなたはこの人たちを地獄に落としに来たことになります。」
その外国人宣教師は何も答えずに、黙ってしまったということです。とても考えさせられる話ですが、実は、私もエホバの証人に対して、同じような疑問を投げかけたことがあります。彼らは、この世で聖書のメッセージが聞けなかった人は、必ず、復活して、地上の楽園でみことばを学ぶ機会が与えられると言っていますが、エホバの証人の話を聞いても信じなかった人は、復活の見込みはないというのです。そこで、私は質問します。「今のこの世と、やがて来る地上の楽園と、どちらがより信じやすい環境だと思われますか。」彼らは、「ま、地上の楽園でしょうね」と答えます。私はまた、そこで質問します。「では、もしそうであるなら、今は極力、人々に伝道しないほうが親切ではないでしょうか。」
いずれにしても、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問は、伝道していくうえで、どうしても乗り越えなければならないハードルだと言えます。言うまでもなく、久保氏は、その著書の中で、この問題を取り上げています。また、この問題で悩む何人かの読者たちの質問を紹介しています。例えば、次のような質問がありました。
「私は両親を愛していましたが、両親は数年前、キリストを信じることなく亡くなりました。未信者のまま死んだ両親は、救われないのでしょうか。」
久保氏は、この方に対して、「救われるチャンスがある。ご両親のために祈りましょう」という希望のメッセージを送っている訳ですが、このように、「セカンド・チャンス」を説くことによって、伝道の大きな妨げを取り除くことができるということです。確かに、セカンド・チャンスは、人々に安心感とか慰めを与えるメッセージだと言えるでしょう。問題は、それが本当の慰めになるのかどうかということです。聖書に基づいた希望でなければ、それは偽物の慰めになってしまうのです。
では、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問に対する聖書的な答えは何でしょうか。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」(ローマ1:18-25)。
まず、確認すべき大切なことは、すべての人間に、自然界による霊的な光(自然啓示)が与えられているということです。また、これ以外にも、心に刻まれる律法、あるいは良心という光も与えられています(2章12-16節)。更に、伝道者の書に、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」という有名な聖句もありますが、問題は、与えられた光に応答するかどうかということです。光を受け入れて、創造者なる神を求めれば、必ず、更に多くの光が与えられます。主はどのような方法を用いても、ご自身を人に現すことがおできになります。聖書を手に入れることが不可能だった人には、幻か夢などによって、十字架による救いを啓示することがおできになるのです。また、逆に言うならば、救いについて詳しく知る機会のないまま死んでしまった人がいたと仮定した場合、それは、その人が与えられた光に応じずに、神を求めなかったからだということにもなるのです。厳しい言葉のようですが、パウロは、「彼らに弁解の余地はないのです」と断言しています。これが聖書の答えなのです。ですから、この問題で悩んでいる方々に対して、私はローマ書のみことばを引用しながら、「求めなさい。そうすれば与えられます」という霊的な原則を説明します。
「聖書のなかった時代のご先祖は、造り主なる神について知る機会が全くなかった訳ではありません。ちゃんと霊的な光が与えられていました。そして、もし、あなたの御先祖が心の中で神を求めたなら、きっと神から更に恵みを受けたことでしょう。息を引き取る直前であったかも知れません。心の中で、『私の造り主よ、私をあわれんでください』と叫んだかも知れません。結局、そのことは、天国に行ってからでないと、確認できないことですが、主に委ねましょう。」
このようにお話しをしてから、黙示録の15章3節を読みます。
「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って行った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』」
主は必ず、正しいことをしてくださる。そう信じて、委ねる。これが聖書的信仰なのです。人に受け入れやすいように、聖書のメッセージを変えることは何の解決にもならないのです。