真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

 「ミス青森」に選ばれた女性の話です。この女性は、青森県の女性の中で、最も美しい女性として、公に認められた訳ですから、自分の勤める会社や周りの人々から、脚光を浴びていました。

 ところが、そんなある日、同じ会社の女性が、彼女ばかりが注目の的になるのに嫉妬して、硫酸を手に入れ、彼女の顔にかけてしまったのです。言うまでもなく、美しい「ミス青森」が、火傷のために、とても醜い顔に変わりました。彼女はすっかり生きる気力を失い、自殺を考え、電車に飛び込むため、線路に行きました。ところが、自殺をしようとしたその時に、彼女はふと、幼い頃、教会の日曜学校に行った時のことを思い出しました。自殺はいつでもできると気を取り直して、教会を訪ね、牧師から福音を聞きました。先生の話を聞いているうちに、彼女は人生に対する価値観が変わり、神を求め始めたのです。彼女は、外面 を美しく装うことで、自分の存在価値を人に認めさせようとして、努力してきましたが、心の中は汚れていることに気付いたのです。彼女は、イエス・キリストが十字架にかけられている時の姿と、自分の姿とを比較してみたのです。キリストは十字架の上で血を流されました。あまりにも醜い姿でした。しかし、あの十字架の醜さは、私たちの心の罪の醜さを美しくするための身代わりだったのです。彼女は、外側の醜さよりも、心の醜さのほうが問題だということに気付いたのです。神の前に自分の醜い罪を告白し、イエス様を信じました。

 そんなある日のことでした。彼女は偶然、町で硫酸をかけた女性に出会ったのです。その女性は逃げる訳にもいきません。罵声を浴びせられても仕方がない、と覚悟したのでしょう。黙って下を向いてしまいました。ところが何と、その女性の思いとは違って、ミス青森は、女性の両手を取り、笑顔で「ありがとう」と言ったのです。

 「えっ、なんですって?」

 女性は驚いて、一瞬、自分の耳を疑ってしまいました。ミス青森は説明しました。

 「あなたが、私の顔をめちゃめちゃにしなかったら、私はいつまでも、外側の美しさだけを誇りながら、生きようとしていたことでしょう。顔は醜くなりました。でも、心の中は、雪よりも白くされたのです。だから、『ありがとう』、と言ったのです。」

 女性は思ってもいなかった彼女の言葉にびっくりして、彼女に心から謝りました。そして、彼女の優しい言葉によって、罪責感から解放されて、平安を得ることができたのです。

 私たちも、自分の存在価値を人に認めさせるために、外見を美しく飾ろうとしたり、大きな財産を築こうとしたり、職場や学校で立派な実績を作ろうとしたりしていませんか。しかし、神の前で最も大切なのは、私たちの心です。

 「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面 的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(第一ペテロ三章三~四節)。

 あなたの心は、どんな状態でしょうか。

真の希望

2012年2月16日(木)

パピニというイタリアの詩人が、こんな言葉を書いています。

 「人間の生活に絶対必要なものが三つある。食物と健康と、それに希望である。」

 確かに、そのとおりだと思います。しかし、今の世の中で、希望を見付けることは、とても難しいのではないでしょうか。テレビや新聞を見ても、暗いニュースばかりです。人類の将来や、自分の人生に希望が持てる話など、どこにもないのです。ある人口動態調査によると、日本の自殺者数は、三十五パーセントも増えて、三万人となったそうです。また、離婚件数も九・二パーセント増えて、二十四万組だったということです。どちらも過去最高の記録だそうです。

 このように、多くの現代人は、希望をなくしていますが、イエス・キリストを信じる者には、素晴らしい望みが与えられているのです。

 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ十一章二十五節)。

 先日、ベレッタ・クラムリーというアメリカ人女性の証しを読みました。旧約聖書のヨブを思わせる試練を経験した方です。長男のダニエルは、2歳の時に、白血病で亡くなっています。初めは、「どうしてですか」と神に抗議の祈りをしましたが、その大きな苦しみの中で、人間にとって最も大切なことは、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる」と言われたお方を知ることだと、確信させられたと言います。

 夫のヘンリーさんが癌だと分かったのは、その2年後でした。次男のリヨンに続いて長女のローリーが生まれていました。ヘンリーさんは、海外宣教に神の召命を感じていました。そこで彼は、残りの日々を、海外宣教のために使おうと、決意しました。病気を押して夫婦は南米、ギリシャ、インド、日本、韓国、台湾へと宣教の旅にでました。帰国して1週間後、ヘンリーさんは天に召されました。葬儀の午後のことを、ベレッタさんは、こう語っています。

 「突然、私の心の目に夫のビジョンが現れ、彼のよみがえった体は勝利を得て、もう二度と苦しまず、早く主のもとに急いで昇って行きたいように見えました。両腕を伸ばしたイエス様がヘンリーに呼びかけて『良い忠実な僕よ、よくやった』と言ってくださると確信しました。」

 三度目の試練は、突然でした。17歳になったリヨンと妹のローリーが乗っていた車が事故に遭ったのです。二人の死を告げる警察官の言葉にベレッタさんは、「突然高い崖から荒れている海に突き落とされたような気がした」そうです。しかし次に瞬間、聖霊によって強く包まれ、優しく、安全な、天のお父様の温かい臨在を感じたと言います。そして警察官に向かって、落ち着いた声で言いました。

 「うちの子供は天国の神様のところに行きましたのね。」  ベレッタさんはその後、宣教師として台湾で奉仕し、多くの人々をキリストに導いている、ということです。

人間のクズでも大丈夫だ

2012年2月15日(水)

 一人の青年が、大工として働きたいと願い、ある工務店で面 談を受けることにしました。「定職がないので、親から『人間のクズだ』と言われる」と、青年は小さな声でこぼしました。すると、大工さんが間をおいてから、次のように話しました。

 「お前な、クズやカスは大丈夫だ。ゴミは駄目だが、クズやカスは再生がきくんだよ。紙クズ、鉄クズを見ろ。立派な資源だ。ガラスのクズは新しいガラスを作る時に必要なんだ。酒カスで甘酒を作る。カス漬けなんか、うめいだろう。おれも学校も出てねえし、若い時はクズだった。親不孝もしたよ。」

 大工の話が青年の胸を打ち、心を開かせ、やる気を起こさせました。彼は今や、立派な大工さんに成長しつつあるということです。

 聖書の中にも、再生品として立ち直った人物が出て来ます。例えば、ザアカイという取税人です。取税人というのは、イスラエル人でありながら、ローマ帝国に協力して、同胞から税を取り立てた人のことです。多くの場合、必要以上のお金を取り立て、ローマ人に渡す以外のお金を自分たちで着服し、金持ちになっていました。このようにして、取税人はその不正直さと、ローマ帝国に協力しているという理由で、イスラエル人から嫌われていました。まさに、「人間のクズだ」というレッテルを張られていたのですが、ザアカイは「取税人のかしらだった」と書かれています。ですから、イスラエル人の目には、「クズの中のクズ」というふうに映っていました。

 しかし、ある日、ザアカイはイエス・キリストに出会いました。自分をありのままで受け入れるキリストの愛に触れて、ザアカイの心が変わりました。聖書は、その変化について、次のように述べています。

 「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた。』と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します』」(ルカによる福音書十九章六~八節)。

 何という驚くべき変化でしょうか。不正直だったザアカイは、正直な人間に生まれ変わりました。それまでお金に執着し、自己中心的な生活を送っていたのに、社会問題に対して関心を持ち始め、自分の財産の半分を貧しい人々に施すと約束したのです。ザアカイはまさに、キリストによって再生された人間です。

 あなたも、周りの人間から、「お前はクズだ」と言われて、傷つけられたことがあるかも知れません。しかし、失望することはありません。例えクズであっても、あなたはゴミではありません。クズであったとしても、いつでも再生がききます。人生のやり直しができるのです。再生品には、新品以上の強さがあります。希望を捨てずに、人生にチャレンジし続けてはいかがでしょうか。

1.私は今、どのような信仰を持っているか
私はエホバの証人が偽りの宗教であるという確信を持ちました。また、イエス・キリストが救い主であり、私の神であると信じることができました。しかし、既に多くの元証人が実感しているように、まず信じるということは、比較的に簡単なのです。でも、この信仰を持続し、実践していくということが難しいのです。心で受け取る信仰は易しくても、実践していく信仰は難しいのです。
例えば、私は救われましたが、今でも疑い易く、問題や試練によって気力を失うことがあります。失敗したり、つまずいたりすることもあり、時には怠慢になることもあります。また、熱心になろうとし、いつの間にか律法主義に陥っている場合も多々あります。ですから私たちは、時々自分がよく分からなくなるのです。私には本当に信仰があるのか無いのか。どうすれば健全な信仰を得ることができるのか。また、どのように信仰生活を実践していけばよいのか。あなたはどのように考えますか。

2.信仰が弱くなったのか
ある元証人の方は、救われた後に、自分の信仰が弱くなったと言われます。証人の時には、もっと燃えていたし、もっと信仰が強かったのに、今は段々と無気力になっていく自分に不安を感じているし、どうすればよいか分からない、ということでした。恐らく、同じような疑問を持つ元証人は多いと思います。この問題を考えるに当たり、私たちは、もう一度、原点に帰り、「信仰とは何か」というところから深く考えてみる必要があると思うのです。  例えば、熱心に伝道すれば、地上の楽園で永遠に生きられるというのは信仰なのか。また、神を信じれば、富が与えられ、名誉が与えられ、病が癒されるというのは信仰なのか。あるいは、一生懸命、神に従順することによって、神からの見返りを期待するというのは信仰なのか、という問題です。勿論、心で信じているならば、信仰と言えるかも知れませんが、自分の願いを実現させるために神を信じる、というところに問題があるのです。  このような信仰は普通、教会に通い始めたばかりの人によく見られる初歩的な段階の信仰です。そのうち、少しずつ成長するようになれば、自分中心の信仰から、神中心の信仰へと変えられていきます。これが信仰の成長です。ところが、自分中心の信仰から始め、終始一貫譲らず、あくまで自分中心的な信仰の人もいます。そのような信仰は、いつか砕いて十字架に付けてしまわなければなりません。まず、健全なキリスト者が確かに信じなければならないことは、「私が罪人である」ということです。自分では到底、神の前に立つことができない罪人であるという確固たる事実です。これが信仰の第一段階であり、基礎となるべきです。  以前の私たち(証人の頃)には、それが分かりませんでした。本当に分からなかったのです。「私は罪人である」と口では告白しながら、実際には、何も分かっていませんでした。その頃は、自分の行いによって、自分の義をもって神に認められるように努力していました。また、認められると考えていました。これは無知であり、妄想です。この無知は、自分の義を立てることに熱心であり、誰の話も聞かず、とうとう高慢になります。自分の義を立てながら、賢いと思っている人には教育も無用になるのです。

3.エホバの証人の信仰の実態
使徒パウロは、このような熱心を自分のための熱心であり、世俗的であり、また情欲的熱心であると非難しているのです(ローマ十・三、ピリピ三・十八~十九)。これがエホバの証人の信仰なのです。このような誤った信仰を持っている以上、聖書的な正しい信仰を得ることはできないのです。  一つの例を考えてみましょう。暴君アンティオコス・エピファネスがイスラエルを占領した時のことです。彼はイスラエル人が豚肉を食べないのを知り、それを迫害に利用しました。人々の面 前に長老たちを引きずり出し、豚肉を強制的に食べるよう命じたのです。食べれば生かすし、食べなければ続けてむちを打ちました。ある長老は血まみれになって倒れながらも食べなかったので、それを見ていた一人の軍人が、この長老を哀れみ、牛肉を持って来て、静かに言いました。
「これは牛肉ですので、食べてください。」
この長老は言いました。
「あなたがくれたこの肉が牛肉であることを、私は知っています。でも、他の人々はこれを豚肉だと思い込んでいるので、食べられません。」
この長老は続けてむち打たれ、死ぬ間際に、「私はイスラエルの律法のために死ぬ !」と叫んで息を引き取ったのです。

4.歪んだ信仰を脱ぎ捨てる
さて、問題はここにあります。私たちは、この死を美化してよいのか、この死が果 たして聖なる殉教だと言えるのか、という問題です。輸血をすれば生きることができると知りながら、自らそれを拒否すること、あるいは、自分の子供や他の信者にそれを強要すること、また神意に逆らいながらも、「神に喜ばれる道だ」と自分が信じていれば、それが信仰と言えるのか、という問題です。これは妄想です。悲劇です。
言うまでもなく、エホバの証人の信仰は、神から与えられた信仰ではありません。それどころか、神の恵みを覆い隠そうとするサタンの働きです。私たちは、エホバの証人の信仰がどれほど歪んだ信仰であり、また、どれほど聖書から逸脱した教えであるかということをまず認め、今後とも、エホバの証人的な信仰からは、完全に決別 することを主の御前に宣言しなければなりません。

5.自分の力に頼りがち
私があえてこのことを述べるのは、救われた後にも証人的な信仰から抜け切れていない元証人が多いからです。自分の行いによって神に認められようとする信仰、自分の努力で義になろうとする信仰、それがどれほど醜く、また、どれほど無謀であるかということをはっきりと知るべきなのです。そしてキリスト者はまず、自分の罪を認めるのです。

6.資格がない自分
人は本来、自分の罪を深く悟ると、自分が義とされることも、義と思う心さえも持つことができなくなると言われています。しかし、それを悟る瞬間には真実になれるし、初めて主の恵みの大きさが分かるようになるのです。取るに足りない存在であるにもかかわらず、私はこのように生きているし、赦され、そして救いの約束を得たのです。本当に感動するようになります。まるでメフィボシェテと同じです。メフィボシェテはある時、ダビデ王の招待を受けました。彼は足なえであり、サウル王の孫なのですが、ダビデから驚くほど、多くの恵みを受けます。
「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」(サムエル九・七)。
メフィボシェテは足なえで体が不自由な人でした。そして、ダビデにとっては、敵の孫です。ただ一人残されたサウルの孫でした。資格うんぬ んと言われれば、何の価値もないのです。ですから、彼は「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」(同九・八)と、痛みいっているのです。この態度は本当に大切です。もし彼が「私はしかくがある」とか、「ここにいる私は本来、王の孫であるから」という考えがあれば困ることです。問題は自分の愚かさ、自分の罪悪によっては到底ダビデの前に立つことができない、(主の御前に立つことができない、そんな)身分であることをはっきり知ることが重要なのです。それを知る時に、恵みを悟るようになるのです。完全に無資格であり、救済不可能な存在であることを悟る瞬間があるからこそ、恵みが恵みになるのです。
そのことを最も深く知ったのは、パウロでした。彼は平凡にキリストを信じたのではなく、迫害者でした。ステパノを殺害し、キリスト者が非難して行ったダマスコにまで彼らを捕らえようと、公文書を持って追いかけて行った人でした。こんな極悪な人がキリストを信じるようになりました。よく考えてみれば、パウロは雷に打たれて死んでも、文句を言えない立場でしたが、救われて使徒になりました。それ故、すべての人の中で一番大きな恵みを受けたのです。誰も考えられない程の大きな恵みを受けたというのが使徒パウロの心です。

7.本当の謙遜
聖フランシスコにも、よく似た話があります。ある日のこと、聖フランシスコの弟子が夢を見ました。そこには、いと高い御座がありましたが、空席になっていたのです。それで、ここには誰が座るのか、と御使いに聞くと、世で一番謙遜なフランシスコが座る場所だと言いました。弟子でありましたが、自分の先生がとても偉くなるという話に嫉妬しました。彼は夢から目覚めると、自分の先生を試したくなりました。それで聞いてみました。「先生、あなたは自分をどんな人間だと思っていますか。」彼は、「私はこの世で一番悪い人間だと思っている」と答えました。弟子は、「先生、それは嘘です。それは偽善者です。すべての人があなたを聖者と呼んでいます。世の中には強盗も多く、罪人があふれているのに、あなたがこの世で一番悪いというのは、話になりません。偽りです!」と反発しました。その時、聖フランシスコは、「君、それは知らないで言うことだ。私が神から受けた恵みがどれ程多いか知っているのか。私に下さった恵みを他の人にも下さったならば、その人達は私よりももっと良い人になったはずだ」と言いました。この言葉に弟子は何も言えませんでした。本当に謙遜な人でした。

8.恵みに寄り頼む
神の恵みの大きさ、広さ、深さを知るには、罪に対する敏感な意識がまずあるべきなのです。私にまだ可能性があって、自分で正しくなれると思っている間は、神の恵みが分かりません。極端に言えば、正しくなろうとする努力さえも放棄すべきです。私たちに正しくなろうとする努力があれば、それも恵みです。事実、恵みとして正しくなろうとする努力が与えられることであって、自分自らは正しくなろうとする心さえも持つことができない存在であることを完全に是認すべきです。「私」が完全に倒れ、はって行き着く所まで行った時に、本当に謙遜な心でキリストを迎えるようになります。ただ、ここまで来るのは勇気のいることであり、また難しいのです。

9.自分の問題の自覚
イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と語られましたが(マルコ二・一七)、これは、正しい人と罪人が別 にいるという話ではありません。人間はすべて罪人ですが、「私は罪人だ」と告白する罪人と、「私は正しい」と言い張る罪人がいるだけなのです。言い換えれば、人が病気であることに気付くまでは医者を訪ねることがないように、罪人であることをはっきり知るまでは、キリストを信じないということです。また、自分の病気を自分で治すことができると思っている人は医者を訪ねないように、自分で正しくなれると思っている人はキリストを信じないということです。こんな人は高慢という、もう一つの罪を犯しながら生きている人々です。 アウグスチヌスは、「正しくなろうとしたそれさえも罪だ」と告白しました。すなわち、私が正しくなろうと思うことが、既に大きな罪におぼれるということです。私がもっと正しく生きようとしたことは、とりもなおさず、深い罪におぼれていたのであって、「私が自分で正しくなろうとすることまでもが無効だということを悟った」と告白しています。事実です。私たちの経験から見ても、少し良くなれば、すぐ高慢になります。醜いほど自分をよく見せようとします。他人より少し知識があり、良い行いがあるようなら、もう肩に力が入ります。私は何時間伝道したとか、何人の研究生を持っているとか、『ものみの塔』誌を何冊配布したとか、色々言うようになります。教会は伝道していない、聖書に従っていない、一致していない、世的であるなどと言いたくなるのです。これは、キリスト者であっても、同じような過ちを犯すことがあるのです。そして、段々と他人を見下げるようになるのです。残念ですが、人は罪を犯して泣いている間が一番真実なのです。ここからスタートすべきです。キリスト者の信仰はエホバの証人のように、私の行い、私の義をもて、私を神に見せようとすることではありません。

10神の正しさ
キリスト者の信仰は、まず第一に、神の正しさを告白することです。あなたが証人として歩んできた、過ぎ去りし日々の中で、神に対するこんな恨み、あんな恨みなど、解けない問題があったとしても、結局、今ここまで来て考えてみると、すべて神が正しかったのです。私が自ら罪の道を歩んでいました。私が悪かったのです。自分の過去を正当化しようと、また、弁明しようと、私がいらない意地を張ったり、いらない精力を使い過ぎました。今はそのことを素直に認めるのです。また、私が現在、教会生活に満足が得られないとしても、あるいは病に落ちても、健康であっても、死んでも生きても、神は正しいお方であると信じることです。神のなさることのすべてが正しいと言って、続けて認めていくことが信仰の道であり、悔い改めというのは、神の正しさの前に私が罪人であることをはっきり認めることです。

11.罪の告白
イエス様が十字架につけられている時、隣の一人の強盗は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ二三・三九)と主を罵りました。でも、もう一人の強盗は彼をたしなめ、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(四〇~四一節)と言いました。どれほど貴重な心でしょうか。私が受けているこの十字架の死が、私にとって当然だという告白です。
私たちは神の前で時々、恨みを言いますが、これは他でもなく私の正しさを主張させるからなのです。私の罪に対しては、絶対に言い訳をしてはいけません。知らなかったとか、一生懸命だったのだからとか、勝手に自分の基準を設けてはいけません。また、私の罪を社会や環境のせいにしてはいけません。両親や周囲の人々のせいでもありません。ただ私の罪があるだけです。これを肯定すべきです。これを認めて主の前に告白すべきです。

12.神の義が十字架に
第二に、キリスト者の信仰は、神の義を受け取ることです。人の義は当てになりません。ローマ書一章一七節には、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」とあります。宗教改革者マルチン・ルターは、このみことばを解説する時、神の義の怒りが十字架上に一遍にドカン!と落ちてしまったと語りました。全人類に向かう神の義が啓示された時、イエスは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶようになったと語っています。神の義がキリストの十字架上に現れた!その事実を信じ受け取ることが信仰なのです。私の下るべき神の怒りは、キリストの十字架上に落ちたのです。
それ故、キリスト者は十字架のみを仰ぎ見れば感謝し、感謝が溢れるのです。十字架を通 して、神が今ここで具体的に私を愛しておられることを知るのです。神の愛の証しとして、十字架以上のものはないのです。このすさまじい神の愛を悟る時、私たちの内側には驚くべき変化が起きます。自分では考えることもできなかった力がわいてきます。そして、私の身の回りの小さな問題は解決される、つまり、問題とはならなくなるのです。

13.真の信仰とは
第三に、キリスト者の信仰は、神との正しい関係です。ルターの語った信仰の定義がこれでした。彼の定義の中では特に「具体的な生活の中における神との正しい関係だ」と言っています。教会で礼拝を捧げる私たちの姿勢や、また祈る姿勢のみを意味するのではなく、また、伝道しているかどうかという問題を取り上げているのでもなく、現実生活の中で具体的に神との正しい関係を結んで生きる姿勢を信仰だと言っています。正しい関係は義の関係であり、平和の関係です。帰って来た放蕩息子迎え入れる父と子の関係です。父は帰って来た息子を、放蕩者として迎え入れたのではなく、完全な息子として迎え入れました。全く過去を問いませんでした。また、「今、お前は何をしているのか」ということも問いませんでした。(祈っているのか?聖書を熱心に勉強しているか?伝道しているか?これからは私に従順すると約束するのか?・・・問うていません。)ただ帰って来たので、「私の息子が帰って来た。料理をしなさい。指輪をはめさせなさい。服を着させなさい」と言って迎え入れたのです。ここには少しも放蕩という意味がありません。完全な父との関係です。これが神とあなたの関係です。あなたには神の子の身分が与えられたのです。あなたはどうしますか。「私は父に逆らって大きな過ちを犯してきました。もう子供と呼ばれる資格はないので牛小屋で暮らします」と言うこともできるでしょう。しかし、父はそれを望んでおられないのです。いや、そんなことは絶対に容認できないのです。父の心が引き裂かれることなのです。

14.真の義人とは
父は罪人であるあなたを十字架の上で赦し、あなたを義人として迎え入れたのです。今も、義人として会ってくださるのです。あなたが義人であるということを、あなた自身が事実として信じなければいけません。信じますか。では、どのような義人なのか、あなたはもう、ご存じですか。ルターはこの問題に対して本当に苦しみました。恐らく、二千年の歴史の中で、この問題に対して、一番深い関心を持った人がルターです。ルターの神学のあだ名が、「十字架の神学」でした。このくらい集中しました。ここで彼は苦しみました。今日、私たちが義とされたのが事実であるとするならば、義とされた後に犯す罪はどうなるのかが問題でした。義とされた後も、私たちは相変わらず、罪人であるからです。そこで、悩んだルターは、次のように結論を得たのです。「義人でありながら、同時に罪人であり、罪人でありながら、同時に義人である」と語りました。続きの義人であり、続きの罪人です。これがキリスト者の正しい自己認識です。すなわち、私が私を見れば相変わらず罪人です。でも、私が十字架を仰ぎ見る時には、続けて義人なのです。神が私のために施してくださった愛を知るならば、今、私が神の子であることに疑いの余地はありません。それを知る人が既にキリスト者です。キリスト者はただ、神の義を受け取って、その義によって自分自身を見、また、隣人を見るのです。

15.キリストと結ばれて生きる
さて、私たちの内にエホバの証人の信仰に代わる本物の進行の規準ができれば、あとは、どのように成長してゆくのかという問題です。イエス様は「わたしはぶどうの木で、あながたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ一五・五)。基本的に、キリスト者は皆、成長するのです。自分の力によってではなく、キリストの恵みによってです。問題は、キリスト者として新生したのか(キリストの命に結合されたのか)どうかが重要なのであって、新生したキリスト者は皆、成長するのです。なぜですか。それが主の御旨であり、それこそ主のなさるみわざであるからです。主は永遠の昔から、既に目的をもってあなたを選び、救ってくださいました(エペソ一・四~五)。あなたは神の作品であり(エペソ二・一〇)、多くの実を結ぶようにと主によって選ばれた者なのです(ヨハネ一五・一六)。人間的に考えれば、まず私が神を信じ、神が私の信仰を認めて、それで救いに預かったように見えますが、聖書の教えはそうではないのです。以前にも述べましたが、私が神のもとに行く前に、神が私のもとに来てくださいました。私が神を捜し求める前に、神が私を読んでくださいました。私の意志がある前に、神の御旨が先にあり、私の行いがある以前に、神のみわざがまず、主導的に行われていました。いつも恵みが先なのです。
ですから信仰の中に生きる人は、神のために私がどうであるべきか?神のために私が何をすべきか?と言って苦しむのではなく、神が私を通 してどんなことをなさるのか?神は今、私の中でどんなみわざを行っておられるのか?を考えるべきです。このように考えれば、愚かな私を今日も神が使っていらっしゃるのだと感謝するようになります。神中心にすべてを見、神中心の信仰で成長する私になるのです。

16.変わらない神の愛
私が少し良い善いをしたから神が私を愛し、また罪を犯したからといって懲らしめられるという顔色をうかがうような信者になってはいけません。ちょうと失敗したからといって逃げようとしたり、ちょっと善いことを行ったと言って自慢しようとしてはいけないのです。あなたの行いによって神の愛が変わるのではないことをまず知るべきです。こうであっても、ああであっても、神はあなたを愛されます。
あるお母さんが、一人で苦労しながら四人の子供を育てていました。ある日の夜、旅人がその家で宿を借りることになりました。その旅人は会話を交わす中で、子供に対する愛の順番をこっそりと、その母親に聞いてみました。
「四人の子供たちのうち、誰を一番、愛していますか。」
母親は言いました。
「はい、勿論、長男でしょう。長男は私の最初の子ですので、一番愛を注ぐようになります」と答えました。ところが少し後に、別 のことを言い始めました。
「いいえ、違います。末っ子を一番愛しています。末っ子はお父さんの顔も知らず、可哀想な子です。それで、末っ子は叱り付けることもできず、ただ大事にするだけです。」答えは終わったかと思うと、
「お客さん、やっぱり違います。私は二番目の子を愛します。その子は一人しかいない娘です。どれ程愛らしいか分かりません。」そう言った後で再び、「違います。実は三番目の子を一番愛しています。これが本当です。なぜなら、この子は小児麻痺にかかりました。それでいつも転んだりして弱いのです。この子を一番愛しています」と言ったそうです。  実は、これが親の心です。弱い子をより愛するようになるのです。親の愛は、勉強がよくできるから愛するのではありません。弱い子、可哀想な子、出来の悪い子をもっと愛するようになるのです。我が子を愛するのにどんな理由や条件が必要でしょうか。家出をしたからといって、その子を忘れることができますか。出来が悪いからといって戸籍から外してしまう親がいるでしょうか。愛はそんなたぐいのものではありません。

17.人間愛にまさる神の愛
神は私たちを初めから愛する者として選び、愛する者として育ててくださり、導いてくださるのです。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ四九・一五~一六)。
「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』とあなたをあわれむ主は仰せられる」(イザヤ五四・一〇)。
「『怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ 愛をもって、あなたをあわれむ』とあなたを贖う主は仰せられる」(イザヤ五四・八)。

18.絶えることのない神の愛
神の偉大な点がここにあります。神の愛は決して途中で放棄しないのです。いや、放棄できないのです。なぜでしょうか。あなたは考えてみたことがありますか。どうしてですか。第一に、御子イエスが私のために身代わりとなって死なれたのです。神が代わりに死なれるという莫大な投資をしたので、絶対に譲れないのです。絶対に引き下がれないのです。あなたを諦めることはできないということです。ローマ書一一章二九節には、「神の賜物と召命とは変わることがありません」とありますが、これは、神の御旨は悔いることなく変わりがないということです。つまり、神は一旦、愛すると決めれば、あくまで愛するのであって、途中でやめないのです。  ルターの有名な言葉の中に、「神の愛は相手を探し回らず、相手を創造する」という言葉があります。神は愛すべき人を探しているのではなく、愛によって愛すべき者へと造り変えていくのです。

19.神の救いの力
子供を持つ親にとっては、理解しやすい言葉だと思います。子供が親の言うことを聞かずに逆らっても、その子を言い聞かせ、叩いてでも愛し、育てていきます。愛する資格があるからではなく、初めから愛する者として育ててゆくのです。
同じように、神の愛の御旨は悔いることがなく、最後まで愛するということです。このことは、パウロ自身も経験によって確信していました。彼は神に敵対していた時に救われたし、またその後も多くの失敗をしましたが、神は彼を助けてくださいました。始まりがそうであって過程もまたそうだったので、今から後も、自分がどんな失敗をするとしても、「神は私を守ってくださる」という確信がありました。今は不従順になっているイスラエル人に対しても、あわれみによって救われるということを徹底的に信じています(ローマ一一・三一)。神は、あわれみによって、不従順になっている者を従順する者へと造り変えてくださるのです。従順するから救うのではなく、従順する者に造り変えていかれるのです。謙遜であるから救うのではなく、謙遜にさせて救うのです。ですから、私たちは主の御前に自慢できるものが何もありません。こんな罪人が救われたので、すべてが恵みであり、祝福です。ローマ書一一章三二節には、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」とありますが、このみことばは、とても神秘的であり、少し理解しにくいみことばだと言えます。しかし、経験した人は、理解できるのです。私が不従順であったので、神のあわれみを受けました。私が不従順な者であったので、ただ恵みによって救われたことを知りました。感謝する以外、何もありません。罪が大きければ大きいほど、神のあわれみも大きく、恵みも大きくなります。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」というみことばが既に、そのことを語っています(ローマ五・二〇)。それほどキリストの十字架は、私たちを救うのに十分以上に救う力があるのです。神が私たちを救うために、それほどまでに大きな、莫大な投資がつぎ込まれたということです。ですから、あなたの愛を途中で放棄することは考えられないのです。

20.救いの計画の確かさ
第二に、神の計画は、人間の罪や行為によって妨害されないのです。結果 的にはいつも神の正しさ、神の御旨を実現させてくださるということです。戦争は苦しいことですが、その恐ろしい戦争を通 してでさえ、神の深い御旨を成り立たせておられるのです。病もまた苦しいことですが、その苦しみを通 して私たちに大きな恵みを与えることもできるのです。裏切られることも本当に心底苦しくなることですが、これを通 して神は思いもしなかった道へと導いてくださることも、私たちはよく知っています。時には失敗も必要であり、苦しいことも必要であり、上になったり、下になったりすることも、すべてが必要なのです。私が孤独になったことには、神の特別 な計画がありました。私が事業に失敗した時にも、神の深い御旨があったのです。結果 的には、これらすべてのことが、私にキリストの姿を受け取らせようとする主の御旨なのです(ローマ八・二九~三〇、ピリピ一・二九他)。
アウグスチヌスは、「神は私一人だけを愛するのごとく、すべての人を愛する」と言いました。ひょっとしたら、私一人のために戦争があるのかも知れません。私一人のために驚く程の事件が必要だったのかも知れません。それほど神は、私たち一人一人を大切にして、みわざを行なっておられるのです。

21.苦しみから生まれる宝物
すべてのことが、私一人を愛して成り立たせる主のみわざであると信じれば、患難にも打ち勝つことができます。また、私の弱点、私の欠点が、私を飛躍させることにもなるのです。もしミルトンが失明しなければ、それほど良い作品を書けなかったかも知れません。ベートーベンは耳が不自由でした。これは、音楽家としては致命的な悪条件でした。しかし、耳が不自由になった後に、名作を残しました。有名なチャイコフスキーは、口で言えないほど不幸を背負い、自殺未遂まで体験した人でした。しかし彼は、あの有名な「悲愴」を残してくれました。  これらすべてが断腸の苦しみを通して与えられたものです。平安な環境では名作ができにくいのです。信仰の世界もよく似ています。エホバの証人に入信していなかったなら、今よりもっと幸せになっていたと考えますか。あなたは証人に入信していなければ、一生涯キリストに出会うことがなかったのかも知れません。また、今の苦しみがなければ、もっと幸せになれると考えますか。今の苦しみがなければ、神の名作が生まれないのかも知れません。あなたは主の御旨の中に生かされているのです。あなたがどんな立場に置かれていても、あなたは主に愛されています。主があなたを成長させ、あなたを用いてくださるのです。そして今も、用いてくださっているのです。

カルトとは、何ですか?

2012年2月15日(水)

質問
「数年前から、『カルト』という言葉をよく聞くようになりましたが、カルトとは、何ですか。他の宗教団体を排除するために、あるいは自分のグループを正当化するために用いられる『便利な言葉』のようにも思えてなりません。『カルト』は、間違った意味で使われることも多いのではないでしょうか。」

答え
6年前の、例の地下鉄サリン事件が起きて以来、英語のcult(カルト)という言葉が日本のマスコミでよく使われるようになりました。これは、ラテン語のcolere(耕す)から来ています。英語のculture(文化)という言葉もそうです。人間の手が加えられた、耕された土地、その上で営まれる人間の営みというようなことから、「文化」という言葉が出て来ました。その文化の中でも特に宗教の色々な営みのことを「カルト」と言っていました。今でも、ドイツ語やイギリス英語の「カルト」は、ラテン語からの意味を受け継いでいて、そんなに悪い意味はありません。ところが、アメリカ英語では、主流のキリスト教の宗派に対して、まだ小さくて、新しくてなじみのない、少し奇妙なイメージのグループのことを、「カルト」と呼んでいました。しかし、「人民寺院」の集団自殺事件など、宗教団体が絡んでいる様々な事件が起きるようになった20年ほど前から、特に人間社会に対して破壊的結果 を及ぼす、悪い宗教を「カルト」と言うようになったのです。日本に入って来ているのは、悪い意味の言葉としての、アメリカ英語の「カルト」です。今現在、最も一般 的に受け入れられているカルトの定義は、1985年にアメリカで開かれた『カルト問題:学者と識者のための協議会』で採択されたものです。「カルトとは、ある人間か、観念か、物に対して、過度の忠誠心・献身を現し、非倫理的な方法で人を操作したり、高圧的な手段により人を説得したり、コントロールしたりしようとする集団、あるいは運動である。(その方法とは、友人や家族から隔離させること、衰弱させること、暗示感応性や服従心を高めるための特別 な手段の使用、グループによる強い圧力、情報統制、個性の抹消や批判的な考えの停止、グループに対する依存心やグループを離れることに対する恐怖心を助成することである。)これらの手段は、グループの指導者たちの目的を推進するためのものであり、実際に信者自身やその家族、及び社会に損害をもたらす(あるいはその可能性を秘めている)ものである。」
 この定義で特に重要視されている問題は、人間社会に破壊的結果をもたらすという点です。ですから、一つの宗教団体がカルトであるかどうかを判断するために、どんな被害が出ているかを慎重に調べる必要があります。勿論、「破壊的結果 」と、一口で言っても、様々なものがあります。家庭崩壊、人命の損失、財産の略奪、人格の荒廃などですが、このような被害が出ているという確かな証拠があるなら、ある宗教団体の実態を表すのに、「カルト」という言葉を用います。しかし、一風変わった集団を軽蔑するために、あるいは、ライバルのイメージを落とすために、カルト呼ばわりをしてはいけません。人間社会に破壊的結果 をもたらしているかどうか、これがポイントなのです。

カルトの脱会者による自助グループ
元カルト信者の集い
 カルトの脱会者による自助グループ『いたんだ葦の会』が5月29日(月)午前10時半より、東京都東久留米市にあるカルト研究リハビリ・センターで開催されます。
学びのテーマは、『カルトと聖書 パート6』です。カルトはどのような目的で聖書を使うのか、カルト脱会後にどのように聖書を読めば良いかを学びます。参加ご希望の方は、真理のみことば伝道協会の本部まで、お問い合わせ下さい(090-8044-5751)。

マインド・コントロール問題対策DVD発売へ
 日本脱カルト協会より、『カルト:すぐそばにある危機』というDVDが制作され、発売されることになりました。若者はなぜカルトに惹かれるのか。どうして入信してしまうのか。そして、いったん、入ったらなかなか抜け出せないのはなぜなのか。ドラマ、シミュレーション、また実際の元カルト信者の体験談などから、カルト問題の謎を明らかにして行きます。定価は8,000円で高めですが、カルトの勧誘から学生を守るため、高校や大学などの現場で使えるDVDです。
ご注文は、ファックス046-263-0375、メール info@jscpr.org までお問い合わせください。

真理のみことば伝道協会主事
ウィリアム・ウッド
東京都東久留米市幸町
電話:090-8044-5751

「カルト宗教にだまされないために」ウィリアム・ウッド氏fromHarvest Time Ministries on Vimeo.