真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

さばくなかれ

2012年2月16日(木)

 スティーヴン・コーヴィーという著名な作家はある日曜日の朝、ニューヨークの地下鉄に乗っていました。すいている電車内は、静寂そのものでした。ところが、ある駅に到着すると、一人の中年の男性と、数人の子供が乗り込み、車内の雰囲気が一変しました。子供は大きな声で叫んだり、物を投げたり、走り回ったりしました。しかし、スティーヴン・コーヴィー氏の隣に座った父親は、目をつぶったまま、何も言いませんでした。コーヴィー氏を始め、電車に乗っている人々は皆、子供に対しても、その行儀の悪さを容認する父親に対しても、いらいらが募るばかりです。とうとう、堪り兼ねたコーヴィー氏は、父親に言いました。

 「お宅の子供たちはみんなに迷惑をかけていますよ。もう少し、おとなしくするように、叱ってもらえませんか。」

  すると、隣に座っていた父親は、重い口を開きました。

 「おっしゃるとおりです。何とかしなければならないと、私も思っていますが、どうしたら良いか分かりません。たった一時間前に、私の妻、あの子たちの母親が病院で死んでしまいました。私もどうしたら良いか分からないし、子供たちも同じでしょう。」

 一瞬にして、コーヴィー氏の父親に対する考え方が変わりました。そこで、父親を批判することをやめ、むしろ彼に同情し、彼を慰めようとしたということです。

 イエス・キリストは、マタイの福音書7章で、こう言われました。

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量 るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(1-3節)。

 私たちは、他人のあら捜しをして批判することが、何と多い者でしょうか。周囲の人間の一つ一つの行動や言葉が気になって、つい「正してあげなければならない」という高慢な思いに陥ってしまいます。しかし、相手の置かれている状況が少しでも分かれば、そのさばく気持ちが同情心に変わるのです。だからこそ、キリストは別 の箇所で、罪を犯したと思われる人と話し合って、すべての事実を確認するように、私たちに戒めておられます(マタイ18・15-17)。

 確かに、愛の心から、相手の状態に悲しみを覚えて、重荷を感じることは尊いことであり、また、必要なことだと言えましょう。「あらかさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」という聖書箇所もあります(箴言27・5)。しかし、その場合、私たちはよくよく注意しなければなりません。つまり、すべての事実を確認したうえで、真の愛に基づき、また祈りの心をもって批判する、ということです。切り捨てるのではなく、助け上げるために、壊すためでなく、建て上げるために語るのです。

 罪人の傾向として、私たちは自分のことは棚に上げて、都合の悪い人を責めやすい性質を持っています。自分には甘く、他人には厳しいのです。しかし、真理や状況の一方だけを見て、まるでそれがすべてであるかのように強調する極端は、余りにも幼すぎます。そのような量 り方をする人は、やはりそのように量られてしまうものです。

 ジョージ・フォーマンというボクサーの話です。フォーマンは24年前にヘビー級のチャンピオンになりましたが、モハメド・アリに思わぬ ノック・ダウンを食らって、タイトルを奪われてしまいました。彼はその時のことを振り返って、敗因は自分がアリと違って、命をかけて戦う理由がなかったことだと話していました。その後も敗戦が続いて、ひどく落ち込んでしまったのですが、そんなある日、イエス・キリストとの劇的な出会いを経験しました。そして間もなく、牧師になったのです。彼は教会を建て、また、子供のための教育施設も作りました。フォーマンもやっと、命をかけられる信念、あるいは生き甲斐が見つかった訳です。

 ところが、人のための奉仕活動をやっていく中で、資金的な問題が生じました。献金を募ったりもしてみましたが、うまくいきませんでした。そこで、彼はボクシングに戻ろうと決心しました。再びリングに上がれば、子供たちのためのお金が稼げると思った訳です。その時、彼は既に38歳でした。牧師をしながら、ボクシングの厳しいトレーニングが始まりました。徐々に、体が出来てきて、十数年振に試合に臨みました。そして、勝ち進んでいくうちに、ついにチャンピオンに挑むチャンスがやってきましたが、もう45歳の年でした。1994年の11月に試合が行われました。フォーマンが勝てる見込みなど、全くないと言われていましたが、予想どおり、前半は苦戦でした。後半に入っても、良いところがありません。ところが、試合の終了間際に、パンチが当たって、チャンピオンをノックアウトするのです。45歳の男がヘビー級のチャンピオンになるということは、全く不可能だと思われていましたが、キリストによって変えられたフォーマンは、子供たちのために不可能に挑戦して、 そして、勝ったのです。

 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」( コリント4章8-10節)。

 この「倒されても滅びない」というのは、ノックダウンされることがあっても、ノックアウトされることはないという意味です。ボクシングの試合の時、何回ノックダウンされても、それで負けになるのではありません。何回でも立ち上がれば良いのです。最後に相手をノックアウトしさえすれば、勝利はその人のものとなります。また、スポーツのある種目には、敗者復活戦というのがあります。一度は敗れても、まだチャンスは残っている訳です。

 考えてみると、聖書が述べている救いは、まさに敗者復活の福音だと言うことができます。イエス・キリストが捕らえられて十字架に釘づけられ、殺されてしまったというその姿は、どう見ても敗者としか映らなかったでしょう。しかし、復活の事実によって、実はあの敗れたと見えた十字架の死こそは、全人類を救う根拠となったというどんでん返しがそこにあったのです。ですから、敗残兵のように逃げ隠れしていた弟子たちもまた、甦られたキリストに出会って変えられ、命懸けで福音を伝えるほどの信仰の勇者になることができたのです。死から甦られたキリストの福音は、まさに敗者復活の福音なのです。あなたも、イエス・キリストを信じるなら、新しい人生がスタートします。

戦争を阻止できる絵本

2012年2月16日(木)

 『あらしのよるに』(木村裕一著、講談社)という絵本をご存じでしょうか。十年ほど前から爆発的な人気を呼び、既に多くの賞を受賞している児童書ですが、世界中の子供に読まれたら、戦争の数が激減するのではないかと思えてなりません。

 あるヤギが嵐に遭って、誰も住んでいない小屋に避難します。嵐が止むのを待っていると、誰かが小屋の中に入って来ます。それが実は、ヤギの天敵である狼なのですが、暗くて、お互いの顔が見えません。おまけに、どちらも風邪をひいていて、匂いが分かりません。ヤギは、相手もヤギだと思って、声をかけます。

 「すごい嵐ですね。でも、あなたが来てくれて、ほっとしましたよ。」

 狼のほうも、相手がヤギだとは気付かない。狼の声を聞いて、ヤギは思わず、「狼みたいなすごみのある、低い声ですね」と言いかけたが、失礼だと思い、口を閉じる。狼のほうも、「まるでヤギみたいな甲高い声だなー」と言おうとしたが、そんなことを言ったら相手が気を悪くすると思い、止めることにする。

 とにかく、色々と会話をしているうちに親しくなります。お互いに幾つもの共通 点があることに気付きます。「わたしたちは、本当によく似ていますね」とヤギが言うと、狼が、「真っ暗でお互いの顔も見えないけれども、実は顔まで似てたりして」という台詞もあります。その時、すぐ近くで、稲妻が光り、小屋の中が昼間のように映し出されましたが、ヤギが下を向いていたし、狼もまぶしくて目をつぶっていたので、お互いの顔を見ていません。次の瞬間、大きな雷の音が、小屋中を震わせます。思わず、二匹はしっかりと体を寄せ合ってしまうのです。しかし、それでも分かりません。やがて嵐が止み、それぞれ自分の家に帰るのですが、その前に、次の日に会う約束をします。「でも、お互いの顔が分からないから、どうしよう」という話になるのですが、そこで念のために、会った時に「嵐の夜に友達になったものです」という合言葉を使おうということになるのです。とても考えさせられる話です。

 私たち人間は、よく知りもしないのに、他の国の人々に対して偏見を持ったり、毛嫌いしたり、必要以上に警戒したりするのではないでしょうか。しかし、何の偏見もなく、付き合ってみると、自分と差ほど違わない、とても良い人だということに気付くのではないかと思うのです。

 「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人を自分と同じように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます」(ヤコブ2章8-9節)。

 世界情勢は日ごとに、緊張感を増しています。いつ戦争が勃発してもおかしくない状況ですが、実際に戦争になった場合、数百万人もの犠牲者が出ると予測されます。今こそ、「あなたの隣人を自分と同じように愛せよ」という戒めを真剣に受け止めて、実践すべき時です。あなたの周りにも、愛すべき人はいないでしょうか。

幸せな結婚の秘訣

2012年2月16日(木)

 ある牧師夫婦がカナダで開拓伝道をして、数年のうちに、立派な教会が出来ました。ところが、ある日、まだ38歳の奥さんが突然、脳脊髄硬化症の発作で倒れて、下半身が麻痺してしまいました。しばらく入院することになりましたが、看病に当たろうとしていたご主人に対して、奥さんは意外な行動を取りました。結婚指輪を外して、「好きにして良いよ」と言ったのです。つまり、「こんな身体障害者と一緒にいるより、あなたは別 の女性と結婚した方が良い」、という意味だった訳です。しかし、ご主人は奥さんを捨てませんでした。牧師の働きをやめて、献身的に奥さんの看病に当たりました。苦しい日々が続きましたが、徐々に奥さんの状態が良くなり、ご主人と共に、再び教会の働きに復帰できたということです

 キリスト教の結婚式の中で、牧師は新郎新婦のために、次の誓約の言葉を読みます。

 「あなたは神の教えに従って、夫(妻)としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを誓いますか。」

 この言葉に対して、新郎新婦は順番に、「はい、誓います」と、大きな声で言いますが、誓約を守っている限り、幸せな結婚生活が送れます。しかし、悲しいことに、結婚したカップルの半分は離婚すると言われている時代です。新婚旅行のために成田に向かう途中で、喧嘩をして別 れる夫婦もいると聞きます。良い夫婦関係を保つということは、なかなか難しいのですが、聖書の中に、結婚した夫婦を支える、とても力強い言葉があります。

 「しかし、想像の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(マルコ10章6-9節)。

 イエス・キリストはここで、「妻を離別することは許されるかどうか」という質問に答えています。この質問をぶつけてきたパリサイ人は、離婚状を書きさえすれば、簡単に妻と離婚できると考えていました。しかし、キリストは、彼らの結婚観に根本的な勘違いがあることを指摘しておられます。結婚は、人間的なレベルで行われる取引ではありません。都合が悪くなれば破棄すれば良い、というものではありません。結婚とは、二人の人間が神によって結び合わせられることなのです。どの時代の、どのカップルも、この事実を信じるべきです。勿論、本人たちが、お互いのことが好きになって、自分たちの意志で結婚しようと決意する訳ですが、その背後に、神の導きの御手があるのです。あくまでも、自分たちの意志だけで結婚したと思っている人は、自分たちの意志でまた、離婚できると考えます。しかし、神によって結ばれたと確信している夫婦は、多少の困難があっても、別 れないのです。

罪の重荷

2012年2月16日(木)

 スチューアートというアメリカ人の話です。スチューアートはある時、車を運転していて、スーザンという18歳の女の人を引いて、死亡させてしまいました。酔っ払っていて運転していたスチューアートは、事故の直後に逮捕され、刑務所に入ることになりました。しかも、スーザンさんの家族から民事訴訟を起こされて、150万ドル(約1億5000万円)の賠償を求められました。結局、家族の勝訴になったのですが、家族は最後に、奇妙な要望を出しました。150万ドルではなく、936ドル(約10万円)だけを払えば良いと言って来たのです。但し、18年間、毎週金曜日に、家族宛に小切手を書いて、1ドルずつ、払ってほしいと言うのです。金曜日は、スーザンさんが亡くなった日です。

 150万ドルという大金を払わずにすんだスチューアートは、ほっと胸を撫で下ろしました。とても得をした気分で、彼は毎週、1ドルの小切手を、スーザンさんの家族のところに郵送しました。初めはどうということはなかったのですが、この毎週、繰り返さなければならないということが段々と苦痛になって来ました。小切手を書くたびに、自分の罪を思い出すからです。彼はそのうちに、憂鬱になり、とうとう、小切手が書けなくなってしまいました。それで、また、裁判沙汰になりました。スチューアートは、この罰は重すぎると、裁判官に訴えましたが、裁判官の判決は、「毎週、1ドルずつ、お金を払え」ということだったのです。

 自分の罪をずっと、負い続けなければならないということは、確かに苦しいことです。私たちは、人の命を奪うという罪は犯していないでしょうが、人を傷つけたり、恨んだり、憎んだり、赦せなかったりしたことがあります。私にもあります。そして、人に精神的、肉体的な苦痛を与えてしまったことを思い出す度に、胸が痛くなります。恥ずかしくて、仕方がないのです。しかし、聖書は言っています。

 「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ人への手紙8章1節)。

 「罪に定められることはない」とは、つまり、神の前で有罪判決を受けることはないということです。キリストにある者は、一切の罪が赦されています。清められています。私たちは義と認められているのです。

 コーヒーカップに、コーヒーを入れて、ふたをすると、当然のことながら、中のコーヒーが見えなくなります。見えるのはカップだけです。同じように、キリストにある者は、その全存在が、キリストの力やキリストの臨在に包まれています。言い換えれば、クリスチャンはキリストと結ばれている、あるいはキリストと一つになっているのです。ですから、父なる神の前に立つ時、神は私たちの罪など見えません。見えるのは、キリストの義だけです。キリストが全人類の罪を背負ってくださり、その代価を完全に支払ってくださったという事実だけが重視されます。だからこそ、クリスチャンは何の恐れもなく、また自分の罪を意識することもなく、確信をもって神の前に出られるのです。

 「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル人への手紙10章19節)。

 あなたの罪の重荷は、取り除かれていますか。

カルトの脱会者による自助グループ
元カルト信者の集い
 カルトの脱会者による自助グループ『いたんだ葦の会』が3月26日(月)午前10時半より、埼玉県新座市にあるカルト研究リハビリ・センター(西武池袋線東久留米駅より徒歩20分)で開催されます。学びのテーマは、『カルトにおける入信・生活・脱会 パート4』です。参加ご希望の方は、真理のみことば伝道協会の本部まで、お問い合わせ下さい(090-8044-5751)。

マインド・コントロール問題対策DVD発売へ
 日本脱カルト協会より、『カルト:すぐそばにある危機』というDVDが制作され、発売されることになりました。若者はなぜカルトに惹かれるのか。どうして入信してしまうのか。そして、いったん、入ったらなかなか抜け出せないのはなぜなのか。ドラマ、シミュレーション、また実際の元カルト信者の体験談などから、カルト問題の謎を明らかにして行きます。定価は8,000円で高めですが、カルトの勧誘から学生を守るため、高校や大学などの現場で使えるDVDです。
ご注文は、ファックス046-263-0375、メール info@jscpr.org までお問い合わせください。

真理のみことば伝道協会主事
ウィリアム・ウッド
東京都東久留米市幸町
電話:090-8044-5751

「カルト宗教にだまされないために」ウィリアム・ウッド氏fromHarvest Time Ministries on Vimeo.