真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 最近、自分のアイデンティティーのことで悩むことがあります。「あなたはハーフですか」と、何度も人から聞かれることがあります。また、不思議なことに、真顔で「日本人ですか」と質問してくる人もいるのです。アメリカに帰る時には、「東洋人っぽい顔だね」と言われたりします。32年も日本に住んで、ずっと日本語で生活をしていれば、多少、顔も変わるのでしょうか。実は、最初に来日した時、私はそのように望んでいました。いかに日本人のようになり、日本人のように日本語を話し、日本人に受け入れてもらえるか、そのことばかりを考えていました。しかし、今、「あなたは日本人ですか」と聞かれると、びっくりすると同時に、戸惑いを感じます。「私は何人なのだろうか。アメリカの国籍を持っているのに、日本人になってしまっても良いのだろうか」と悩んだりしますが、いつも、慰めになる聖句があります。

「私はすべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」というパウロの言葉です(1コリント9・22)。

私の出した結論は、主から与えられた才能を生かし、人々に仕え、神のみこころを行なうことができれば、何人であっても良いのではないか、ということです。神と共に歩む限り、胸を張って、また自信を持って、堂々と生きていけます。モーセが主の召命を受けた時に、「私はいったい何者なのでしょうか」と主に尋ねています。主の答えは、「わたしはあなたとともにいる」です。「私は主と共にいる者だ。」これが私のアイデンティティーです。
アイデンティティーの話と、セカンド・チャンスの話は関係がないと思われるかも知れませんが、実は、深い関係があるように私は感じています。セカンド・チャンス論が浮上して、また広がっている一つの理由は、日本人のアイデンティティーの危機にあるのではないかと思うのです。28年間、カルトの問題とかかわってきた中で、私は多くの若者と接したり、カウンセリングをしたりしています。色々なケースがありましたが、ほとんどの人に共通している問題が存在しています。自信がない、自分のアイデンティティーが分からない、これといった信念がない、自立していない、ということです。現代人の主だった特徴は、自信の無さだと思います。自信がないからこそ、カルトに引っ掛かってしまうのです。彼らは、精神的な安定、心の平安を求めて、カルトに入信します。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。その理由については、様々な説が唱えられています。まず、情報社会が受け身の人間を作っていると言われます。また、詰め込み教育が考えない人間、自分で考えようとしない人間を生み出してきたとも言われています。さらに、生活が便利になるに連れて、面倒臭いことには手を出したくない、なるべく楽をしようという若者が増えていると聞きます。こうしたことを考えますと、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるでしょう。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には、彼らは非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
しばらく前に、とても奇妙な話を聞きました。ある宗教団体に属する若者が、グループの指導者と共に、長野県に行ったそうです。そして、「せっかく信州に来たのだから、おいしいソバでも食べよう」と指導者が誘うと、若者は黙って、一緒にある店に入ったのですが、その若者は、実は、おソバに対するアレルギーがあったのです。さて、その青年はどうしたのでしょうか。おソバを食べて、救急車で病院に運ばれることになってしまった、というのです。「神の人の誘いだから、断ってはいけない」と、若者は考えたそうです。そして、その「命懸けの従順」が教団の中で美談になっています。
このように、自分で考えることも、判断することもできない、若者が実に多いのです。自分のアイデンティティーなどなく、教祖のリモコンで操作されるロボットのような存在になっているのです。勿論、これはカルトだけではなく、日本社会のあらゆる所、つまり家庭においても、学校においても、職場においても見られる現象です。自分の個性を抹消し、自分をグループに合わせ、グループの権威に従うように圧力がかかります。個人の問題、個人の気持ち、個人の希望などは二の次です。グループの利益やグループの和が最優先されます。そして、グループの方針に従わない者は、切り捨てられるのです。これは言い過ぎになるかも知れませんが、日本という国そのものが、一つの巨大なカルトになってしまっていると感じることさえあります。自分を否定して、グループのために多大な犠牲を払っている人々は、それなりにグループからの評価を得たり、報酬も与えられたり、あるいは生き甲斐を感じたりします。しかし、色々な方とカウンセリングをしていると、彼らは本当に幸せなのだろうかと考えてしまいます。会社の利益のためにあくせく働くサラリーマンがいます。子供がまだ起きないうちに家を出て、早朝の満員電車で会社に通う。納得がいかなくても、何も言わずに、上司の命令に従わなければならない。残業させられても、文句が言えない。休暇が取れるはずなのに、皆の顔色を見て、遠慮する。最終電車で家に帰って、子供の寝顔を見てから布団に入る。このような生活では、健全で幸福な夫婦関係も、親子関係も、築けるはずがありません。しかし、会社のためだから、仕方がないということで片付けられてしまいます。皆さん、個人の犠牲がどんなに大きくなっても、グループの利益や拡大が優先されるというのは、これはまさにカルト的体質です。今現在、日本人の大多数は、この体質に疑問を感じながらも、仕方のないこととして受け入れています。しかし、この体質に反抗している人々の数も増えています。日本のひきこもり人口がどれくらいになっているか、ご存知でしょうか。ひきこもりは120万人もいると推定されています。彼らは自分の部屋に閉じこもって、何ヶ月も、あるいは何年も出て来ません。テレビを見たり、マンガを読んだり、ビデオ・ゲームで遊んだりして、時間を過ごします。親が食事を作って、ドアの前に置きます。あるいは、食費を与えて、好きなものを出前で頼んでもらったりしますが、顔を合わせることがほとんどありません。ひきこもりの原因として、幾つかのことが考えられます。学校でいじめられたこと、親との共依存的な関係の中でアダルト・チルドレンにされてしまったことなどですが、かなりのケースに共通している問題は、自分の個性を否定して、自分をグループに合わせることができなかったということです。自分らしく生きようとしたけれども、村八分にされてしまった。傷つけられてしまった。だから、自分の個性を無くして、グループのためにひたすら犠牲を払う人生は嫌だと思って、また、自分でない自分を演技することがもうコリゴリだと言って、自分の世界を作ってしまう訳ですが、日本の社会の在り方に対する、彼らなりの抵抗だと言えるのではないでしょうか。「私という一人の人間を見てください。私のアイデンティティーを認めてください」と、彼らは叫んでいるのですが、学校や保険所は全くと言って良いほど、彼らの叫びに耳を傾けません。訪問することもしません。
聖書教育が進んでいる国では、人の個性が尊重されます。人が個人として自立した人間になることが、教育の目標とされます。そして、それが民主主義、あるいは資本主義の基本であると言われているのです。今、激変する世界で生き残る企業は、従業員をロボットのように動かしている企業ではなく、独創的な発想ができる人間を養育している企業です。人間はそれぞれ、ユニークな者として、神に造られています。人と違って、当たり前です。顔も、声も、才能も、考え方も皆、違います。ですから、人間としてのアイデンティティーというのは、神から与えられた賜物を発見して、それを神のために、また人のために活かす時に確立されます。アイデンティティーは、神と共にいる私です。しかし、日本の社会では、アイデンティティーは、グループと共にいる私です。あるいは、グループの中に埋もれて、見えなくなった私です。グループのために自分を完全に否定した私です。前置きがとても長くなってしまいましたが、アイデンティティーの問題と、セカンド・チャンスの問題との関連について、考えてみたいと思います。日本人は幾つかのグループに所属することによって、アイデンティティーを見出そうとしますが、その一つは、日本という国家です。日本人という国民の一人として、生きています。このグループの中で、自分がどうあるべきかという責任を持つと同時に、ある種の安心感、または誇りを持っています。この国民的プライドに、セカンド・チャンスが広がった要因があるのではないかと思うのです。つまり、セカンド・チャンスを支持することによって、「私たちの先祖はクリスチャンではなかったけれども、立派な生き方をしていたから、きっとハデスの慰めの場所で福音を聞き、やがて救われるはずだ」という論理が成り立ちます。一方、セカンド・チャンスがないとした場合、キリストを信じなかった先祖たちは滅びたということになるので、日本人としてのプライドに傷が付くのです。もっと具体的にお話ししましょう。これは、日本人の過去の偶像崇拝の歴史を罪として認めるか、認めないかという問題なのです。ローマ人への手紙1章18-25節を読みましょう。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

このまま、日本という国に当てはまる聖句ではないかと思います。日本はこれまで、造り主なる神に背き、偶像を崇拝し、神の怒りを買ってきました。そして今も、悔い改めないこの国の上に、神の怒りが臨んでいるのです。このことを事実として受け止めるかどうかによって、今後の福音宣教に大きな影響が出ると考えます。勿論、私は別に、日本人を責めている訳ではありません。私も一人のアメリカ人として、自分の国の罪を恥じています。奴隷問題、ベトナム戦争やイラク戦争での虐殺や数々の悲劇があります。私の所属する教団の八ヶ岳中央高原キリスト教会の信者さんで、広島の被爆者の方がいます。森本さんとおっしゃる姉妹で、3年前に、初めて森本さんの体験談を聞きました。私は2度ほど、広島の原爆の資料館を訪ねているので、知識として原爆の恐ろしさを知っているつもりでしたが、実際に被曝された方の話を聞いて、大きな衝撃を受けました。原爆が投下された時、森本さんは中学生で、爆心地からわずか3キロしか離れていない学校の教室で、掃除をしていたそうです。たまたま、しゃがんで雑巾で床を拭いていて、教壇の大きな机の後ろにいたために無事でしたが、原爆が投下された瞬間は、教室が紫色の光に包まれて、目の前でフラッシュをたかれたように感じて、数分間、目が見えなくなったそうです。他のクラスメートは教室の窓ガラスの破片を全身に受けて、血だらけになっていたそうです。また、校庭に出ると、皮膚が焼け爛れている人がいたり、死体の山があったりしたそうです。森本さんは結局、奇跡的に外傷はなかったのですが、放射能を浴びていたので、2ヶ月間、下痢と歯茎の出血で、寝たきり状態になりました。更に、その数年後に健康診断を受けると、子宮や卵巣などが全く発達しておらず、子供が産めない体になっていることが判明しました。しばらく後で結婚されますが、御主人も被爆者で、長野県の原村でペンションを経営することになります。ところが、原村に引っ越してまだ間もない時に、御主人が末期の腎臓ガンであることが分かります。御主人は数ヵ月後に亡くなりましたが、森本さんはその時、心の底から「なぜ、こんなに不幸なことばかりが続くのか」と思われました。しかし、幼い時からクリスチャンとしての信仰を持っておられる彼女は、やがて、「何か、神の目的があるはずだ」と信じられるようになりました。結局、私たちの教団の代表が原村で開拓伝道を始めて、やがて、会堂を建設することになった時に、森本さんは教会員となり、会堂の建設をするにあたって、大きく貢献してくださり、やがて、「原村に導かれたのは、このことのためだった」と確信するようになったということです。
森本さんの証を聞いた後、一アメリカ人として、お詫びをしなければならないと思って、その旨を伝えました。すると、森本さんはすぐに、こう言ってくださったのです。
「いやいや、良いですよ。私はアメリカ人を恨んでいません。神の御手の中で守られて、感謝な日々を送っています。」
私はこの言葉に、深い感動を覚えました。また、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」という、イエス様の十字架上のみことばを思わずにはいられませんでした。私は小さい頃から、耳にタコができるくらい、「原爆は、戦争を終わらせるために必要なものだった」と、何度も聞かされました。実は、第二次世界大戦の時に、私の父が海軍に入っていて、日本本土に侵入するはずの部隊にいました。結局、原爆が落とされて、戦争が終わったから、日本の地を踏まずに、そのままアメリカに帰ったのです。ですから、原爆がなかったら、私は今、ここにいないと言えるかも知れませんが、私は長いこと、父から聞いた論理をそのまま信じていました。「原爆を落とすしかなかった。それで何百万人もの命が救われたんだ。」しかし、森本さんに出会ってからは、アメリカの罪の重さを認識するようになったのです。正直なところ、私は今、自分がアメリカ人であるということに誇りを持っていませんが、特に、そのことを大きな問題として捕えていません。私のアイデンティティー、あるいはセルフ・イメージに何の影響もありません。なぜなら、私のアイデンティティーは、神と共にいるという事実に基づいているからです。別の言い方をするなら、私はキリストにある者です。アメリカ人であるからではなく、キリストにある者だから、胸を張って生きていけるのです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。

クリスチャンは、罪に定められることはありません。神の義となる、あるいは、神から義と認められます。素晴らしい行いをしたからではありません。キリストにある者だからです。キリストにある者は、罪が赦されています。キリストにある者は、神の豊かな恵みと祝福に預かることもできます。キリストにある立場は、特別なのです。そのことを分かりやすく表している話が、第2サムエル記9章にあります。メフィボシェテは、ダビデの命を狙おうとしたサウル王の孫に当たります。ですから、本来なら、ダビデの敵です。また、サウル王の子孫なので、ダビデの王位を脅かす存在にもなり得ます。しかし、ダビデはメフィボシェテに対して、恵みを施しました。なぜでしょうか。メフィボシェテの父、ヨナタンのためです(1、7節)。ヨナタンはダビデの親友でした。ダビデはヨナタンのことを愛し、尊敬し、その勇気ある生き方を高く評価しました。ですから、王になっても、ヨナタンに王国の重要なポストを任せようと考えていたのですが、ヨナタンはピリシテ人との戦いで、殺されました。しかし、それでもダビデはヨナタンのために、何かしてあげたいと思って、その息子メフィボシェテを宮殿に呼び、彼に恵みを施した訳です。メフィボシェテは、一生涯、王の食卓で食事をすることが許されました。彼は、足が不自由で、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいます。皆さん、死んだ犬には、どれくらいの価値があるのでしょうか。何年か前のことですが、ある日、信号待ちをしていると、電柱に張ってある、一枚のポスターが目につきました。『犬を探しています』と書いてありました。一見、どこにでもあるような感じのポスターでしたが、よく見ると、なんと、飼い主が犬を見付けてくれた人に十万円の賞金を出す、というのです。「よほど犬を愛している人だなー。きっと高価な犬だったんだろうなー」と思いながら、犬に関する細かい説明を読んでいきましたが、驚いたことに、「老犬」、「耳が聞こえない」と書いてあったのです。そのポスターを見た時、私は色々なことを考えさせられました。冷静に考えれば、耳も聞こえず、何の役にも立たない老犬のために、十万円もかけるなどということは、非常識なことです。しかし、飼い主は、犬を愛しています。たとえ、年を取っていようが、耳が聞こえなくなっていようが、そのいなくなった犬を見付けるためには、お金を惜しまないのです。メフィボシェテは、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいますから、老犬よりも、更に評価額が下がります。メフィボシェテは、ダビデのために、何ができるのでしょうか。何もできません。普通に考えると、彼はダビデからの恩恵を受ける資格はないのです。しかし、それにもかかわらず、メフィボシェテは、ダビデの恩恵に預かりました。素晴らしい特権を与えられました。一体、なぜでしょうか。ヨナタンとの親子関係にあったからです。他に、何の理由もないのです。すべて、ヨナタンの人格の良さ、ヨナタンの立派な行い、ヨナタンの勇敢な生き方、ヨナタンがダビデに示した親切のお陰です。ヨナタンの実績なのです。
私たちクリスチャンは、神の豊かな恵みをいただきます。その資格がないのに、堂々と、恵みの御座に近づくこともできるし、王の食卓に付くこともできます。どうしてですか。私たちが何か、良いことをしたからでしょうか。いいえ、キリストにある者だからです。父なる神は、キリストの十字架の功績のゆえに、あふれるばかりの恵みを注いでくださるのです。私たちは今、キリストにあって、全く100パーセント赦されて、受け入れられて、愛されています。この恵みの福音にしっかりと立つ時に、言葉では言い表せない平安を経験します。健全なセルフ・イメージを持つようになります。神の愛の中で守られながら、神の力によって、神と共に、積極的に生きていけるようになるのです。
こうして、クリスチャンは神との個人的な関係の中で自分のアイデンティティーを確立させる訳ですが、グループに所属することによってアイデンティティーを見出そうとする者は、本当の平安を味わうことは決してありません。それは、自分に対するグループの評価がいつ変わるか、分からないからです。グループから求められる厳しい条件を満たすことができなくなる恐れがあるからです。「グループに迷惑をかけないように」、「グループの和を乱さないように」、「グループに嫌われないように」といつも気を使いながら、緊張の中で生活しています。少しでも、グループから批判されると、あるいはグループが外部の人に問題を指摘されて、否定されたりすると、不安になるのです。ここで、誤解されないように、一言、説明を加えさせていただきますが、私は別に、何かのグループに所属することを否定している訳ではありません。人間社会で生きていくうえで、どうしても、色々なコミュニティーのメンバーとして責任を果たさなければならないのですが、私がここで問題にしているのは、どこにアデンティティーを見出すかということです。どの関係の中で、生きる意義を見出すかということです。「私はまず、第一に、日本人です。」「私はまず、会社の人間です。」このように考えるなら、私たちは必然的に、そのグループの計画や利益を優先していかなければならないということになります。神が何を望まれるかではなく、グループが何を望むかを考えるようになります。いかに私のユニークな才能をフルに用いられるかではなく、いかに自分をグループに合わせられるかということが重要課題になります。また、場合によって、グループを擁護するために、真理に目をつぶらなければならないという問題も出て来るのです。セカンド・チャンス論が持ち上がって、人気を集めているのは、「日本人のプライドを守らなければならない」という思いが強いからではないでしょうか。久保氏は、『聖書的セカンドチャンス論』の中で、盛んに、欧米の人々の「個人主義」に言及しています。強い個人主義に生きる欧米人は、「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」というメッセージを聞いて、何のためらいもなく信仰の決心をする。しかし、日本人は自分さえ救われれば良いとは考えることができず、自分の亡くなった先祖はどうなるのかということが気になる。それだからこそ、日本人をクリスチャンにするためには、「セカンド・チャンス」を説くことが必要であると言います。こうして、久保氏は欧米社会の個人主義を批判し、「日本人には優しい心がある」と言って、日本国民の弁明をしたり、優秀性を訴えたりする訳です。私はここで、その点を論じるつもりもないし、欧米社会を擁護するつもりも全くありません。問題にしたいのは、聖書の真理です。久保氏は、日本人としてのアイデンティティーを重要視するあまり、聖書の真理を曲げ、聖書の中に、セカンド・チャンスを裏付ける個所がないのに、無理な解釈をして、「聖書的セカンド・チャンス論」を掲げていることに対して、口を閉ざす訳にはいきません。
私は、30年余りの働きの中で、何度も、このパターンを見てきました。その一つの実例をお話しします。15年ほど前から、JEAの社会委員会の委員となっております。社会委員会は、靖国神社の問題などの社会問題を取り上げると同時に、カルト問題にも取り組みますが、5年ほど前に、静岡県のある教会で、信徒が牧師から暴力を受けているという情報を入手しました。その後、直接、被害者たちとも会って、事実であることを確認しました。私は以前から、教会のカルト化問題に注目していましたが、社会委員会の中で、教会内の権威主義やセクハラや暴力の問題について、JEAから声明文を出して、警鐘を鳴らすべきではないかということになりました。私が書いた声明文はまず、社会委員会の承認を得てから、理事会に回されました。「牧師は独裁者ではない。群れに仕える者だ。お互いにそのことを確認して、悔い改めよう」というような内容の声明文でしたが、意外にも、理事会で、却下されてしまいました。その2年後に、今度は京都にある聖神中央教会の問題が明るみに出ました。これは、皆さんの記憶にもまだ新しいと思いますが、永田保という牧師が、10代の女の子に性的虐待をした疑いで、逮捕された事件です。余談になりますが、どのように逮捕されるようになったかと言うと、一人の被害者の母親が私の著書『教会がカルト化するとき』を読まれ、勝手に振る舞う独裁的な牧師の言いなりになることはないと考えて、勇気を出して、警察に被害届を出し、結局、それがきっかけとなって永田牧師の逮捕に至った訳です。永田牧師が逮捕された直後から、私たちのところには、日本のマスコミからの問い合わせが殺到しました。「日本のキリスト教会は、この問題をどう捉えていますか。対応策はどうなっていますか」と何度も聞かれました。そこで、再び、社会委員会から声明文を出すことになりました。今、手を打たないと、日本のキリスト教会はますます、世の人々の前で恥をさらすことになると警告しましたが、再度、理事会で却下されることになってしまいました。その理事会に出席していた社会委員会の委員長の説明によると、「理事の中にも権威主義的な牧師が多過ぎたために、却下されてしまった」のだそうです。確かに、権威主義を批判する声明文を出すと、自分の立場が危うくなると心配した先生がおられたのでしょう。しかし、理由はそれだけではないはずです。臭いものに蓋をして、JEAの名誉を守りたいという思いも働いていたのではないでしょうか。このことに対して、私が深い失望感と共に、憤りを感じたのは、いうまでもありません。ニュースレターの中で、声明文が実現に至らなかったことを記事にしたところ、こう言うと語弊があるかも知れませんが、後から当時の会長に呼び出され、お説教をされました。「日本人でもないのに、日本のキリスト教会を批判するとは」といった内容のことを言われたのです。その時、私は「先生、カルト問題について、何かご存知ですか」と聞いてみたのですが、「あなたの本を持ってはいるけど、まだ読んでいない。『悪魔の顔を見たら、悪魔のようになる』と諺にあるから、カルト問題にはかかわりたくないんだ。」という答えが返ってきました。
もう一度、言わせていただきます。私たちがキリストにあるアイデンティティーを確立させる時に、絶対的な平安を持ちます。また、人にどう思われようと、神の前で正しいことを実行する力が与えられます。しかし、自分の所属するグループにアイデンティティーを見出そうとすると、どうしてもそのグループの利益や都合が優先され、真理や真実がないがしろにされてしまうのです。今年に入ってから、また、幾つもの教会や牧師の問題が一般の雑誌に掲載されました。もう一度、JEAの社会委員会から声明文を出そうということになりました。正直なところ、私は余り期待していません。残念なことですが、日本のキリスト教会は、自浄作用がなくなってきていると言わざるを得ません。社会の悪を糾弾するという預言者の役目が果たせなくなっています。「まーまー、あまり波風が立たないようにしよう。あたたかく見守ってあげよう。赦してあげよう」という対応しかできないのです。
私は、カルトとの戦いで疲れを覚えた時など、よくエレミヤ書を開きます。ご承知のように、エレミヤは25年間、神から導かれた通り、ユダの民の罪を指摘して、悔い改めを促しましたが、エレミヤのメッセージを受け入れて、神に立ち返った人は、一人もいませんでした。エレミヤは民から拒絶されただけでなく、激しい迫害も受けました。牢屋に入れられたりもしました。しかし、エレミヤは何をされても、主から与えられたメッセージを最後まで、忠実に語り続けました。どうして、そのことができたのでしょうか。彼のパワーの源は何だったのでしょうか。
「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』そこで、私は言った。

『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。』すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ』」(1章4-8節)。

「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。」ここにエレミヤの信仰生活の秘訣がありました。主が共におられるのであれば、人からどう思われようと、何をされようと、そんなことは問題ではありません。「受け入れられても、受け入れられなくても、理解されても、されなくても、主のみことばを語ろう。」彼はこの決意に立って、委ねられた任命を全うしたのです。
私はエレミヤのようになりたいと望んでいます。うるさがられることがあっても、「日本の教会を混乱させている」と批判されるとしても、「日本独特の事情が分かっていない」と言われたとしても、妥協せずに、真理のみことばを語り続けるつもりです。
聖神中央教会の問題が報道されて、1ヶ月もたたないうちに、東京のお茶の水クリスチャン・センターで、教会のカルト化問題セミナーの講師として招かれました。集まった50人ほどの牧師や信徒に向かって、力の限り、教会の問題点を指摘しました。かなり、力が入っていたと思います。終わった後、一人の知り合いの牧師が寄って来て、こんなことを耳元で囁きました。「この頃、『ヒットラーに似ている』って言われることない?」ちなみに、その当時、私は口ひげをはやしていましたが、それにしてもショックでした。「イエス様のような顔に見えた」と言われたら嬉しいことですが、「ヒットラーに似ている」と言われて平気ではいられません。落ち込んでしまいます。もしかしたら、カルト問題に関わってきて、いやがうえにも厳しい顔つきになっていたのかも分かりません。しかし、後で思いました。「カルト化した宗教団体の人々や聖書を曲解する人間の目から見て、ヒットラーと同じくらい、恐れられる存在になったとしても良い」とさえ思う、ある種開き直った気持ちもあります。てやろうじゃないか。」私は人気コンテストで優勝するために、献身したのではありません。主のみこころを行なうために生きています。皆さんも、きっとそうだと思います。私とはまた別の戦いをされている方もいると思います。牧師として、感謝されることも、評価されることも、報われることもなかなかないかも知れませんが、妥協することなく、この世に迎合することなく、真理のみことばをまっすぐに説き明かしていきましょう。使徒パウロがテモテに言い残した言葉を思い出します。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
あと何年、この働きができるか分かりませんが、最後の時には、パウロと同じみことばを告白しながら、この世を去りたいと思っています。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 私は、カルト問題に取り組むようになって、今年で28年になります。最初のきっかけは、エホバの証人の訪問です。一人のエホバの証人が私に伝道するために、訪ねて来たのです。エホバの証人と直接、話をするのは初めてでしたが、ヨハネの福音書三章三節の聖句を引用しながら、「あなたは新しく生まれた経験がありますか」と質問してみました。相手は新米の伝道者だったようで、当惑した様子で、「調べてきます」という言葉を残して帰っていきました。玄関での10分ほどの立ち話でしたが、婦人は次の週、ベテランの伝道者を連れて、再び我が家を訪れました。明らかに、前回とは雰囲気が違います。初めから話の主導権をしっかりと握って、中年のエホバの証人は朗々とものみの塔の教理について語り続けます。こちらから何を質問をしても、自信をもって組織の出版物から答えます。新米の伝道者はと言うと、黙って隣で話を聞いているだけです。ところが、途中で、若い婦人も、ベテランが話をしている間、小さな声で何かを言っています。最初は聞き取れませんでしたが、よく耳を澄ますと、なんとベテランの伝道者と同時に、同じ言葉を発しているのです。この奇妙な経験を通して、私は一つのことに気付き始めました。つまり、エホバの証人は聖書を用いながら、神との個人的な関係を築いておらず、完全に組織にコントロールされている人々であるということです。またその時、「可哀想だ」という気持ちになったと同時に、「どうしても、この人たちに本当の福音を伝えなければならない」という聖霊の迫りを感じたのです。同じ時期に、東京都内で、モルモン教の宣教師との出会いもありました。「私たちもクリスチャンです」とにこやかに話す彼らの言葉に耳を傾けてみることにしました。ところが、そこで聞かされたのは、「ジョセフ・スミスによる教会の回復」、「神殿での永遠の結婚式や死人のための身代わりバプテスマ」、「人間も神になれる」という奇妙な教理。「これがキリスト教として日本で紹介されたら、えらいことになる」と思いました。危機感を抱きつつ、日本人に正しい情報を提供できるように、アメリカから百冊以上の本を取り寄せて、本格的な異端研究を開始しました。そのうちに、自分の研究したことを本にまとめてはどうだろうか、と考え始めました。1983年の夏、『エホバの証人とキリストの証人』が出版されて、国内のキリスト教書店で販売されることになります。本が発売されて、数カ月たつと、「あなたの本を読んで、エホバの証人をやめました」という連絡が定期的に入るようになりました。「異端セミナーをやってください」という教会からの依頼もありました。また、「相談に乗ってほしい」という家族からも、手紙や電話が来ました。段々とカルト問題のために多くの時間を費やすようになった中で、やがて、一つの決断を迫られました。このまま牧師を続けるか、いよいよフルタイムでカルト問題に取り組むべきか。6カ月間、祈った結果、自分が異端の中で苦しんでいる魂の救いのために日本に召されたという結論にたどり着きました。そこで、1988年の4月に、真理のみことば伝道協会を発足しました。その後、更に何冊かの本を書いたり、ロシアやインドや中国などでセミナーを開いたり、多くのエホバの証人の救出カウンセリングを行ったりして、本当に主の驚くべきみわざを拝見させていただきました。また少しずつ、カルトの脱会者のフォローアップの重要性を認識するようになったのです。1998年頃から、『カルト研究リハビリ・センター』のビジョンを掲げました。カルトから救われた方々を受け入れて、リハビリ・カウンセリングをするための施設です。多くの方々の祈りと支援によって、2001年の12月にセンターができました。言うまでもなく、主にエホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会の元信者が利用されると思っていましたが、蓋を開けてみたら、カルト化したキリスト教会の中で傷ついたクリスチャンからの相談が圧倒的に多くなったのです。教会のカルト化問題は、私たちが数年前から感じていたことで、2002年の暮れに『教会がカルト化するとき』という本を出しましたが、正直なところ、こんなに深刻な問題だとは予測していませんでした。幸いなことに、傷ついた方々が少しずつ、元気を取り戻しています。その癒しのプロセスを早めるために、去年の2月に、『健全な信仰、カルト化した信仰』という本をいのちのことば社から出版していただきました。一部の牧師たちから、「日本の教会を混乱させている」と批判されたこともありますが、この問題が明らかにされて、教会が清められることは、日本のリバイバルのためには不可欠なステップだと信じています。
 さて、この第2の講義の中で、「セカンド・チャンス論と正統的教理との整合性」というテーマが与えられています。具体的に、正統的教理とセカンド・チャンス論は噛み合うのかどうか、歴史上に現れてきた異端と違うものなのかどうかということを、一緒に検証していきたいと思いますが、エホバの証人の出版物である『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の中に、次のような個所があります。
「例えば、過去幾世紀もの間に、字の読めない人々や、聖書を見たこともない人々が多数死んでいます。その人々はシェオル、またはハデスからよみがえらされます。それからパラダイスの地で神のご意志を教えられ、神のご意志を行なうことによって神を本当に愛することを証明する機会を持つのです。」
エホバの証人も、セカンド・チャンスを支持しています。また、モルモン教の『信仰箇条の研究』という本には、こう書かれています。
「刑罰の期間については、それが罪の如何によって程度が違うものであるとはっきり言うことができ、また悪事に対するあらゆる刑の宣告が無限に永いという考えは誤っているとはっきり言える。来世に及ぼすこの世の行為の結果はまことに大きなものであり、また悔い改めの機会を失った責任は必ず負わねばならぬのであるが、神は墓を越えて死後までも罪を赦す力を保有したもう。」
末日聖徒イエス・キリスト教会にも、セカンド・チャンスの支持者がいました。勿論、エホバの証人の教理やモルモンの教理の中にセカンド・チャンス論的な考えがあるからと言って、必ずしも、間違っているとか、聖書から逸脱しているということになる訳ではありません。あくまでも、セカンド・チャンス論を聖書と比較することが肝心です。先程から、セカンド・チャンスの聖書的根拠が極めて薄いということをお話ししていますが、はっきりとセカンド・チャンスを否定する聖句はあるのでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:16-18)。

この聖句の中の「信じなかった」という表現は決定的です。それは、既にキリストを信じないと決めてしまった、だから今も信じていない、そしてこれからも信じないという意味です。「すでにさばかれている」も決定的です。それも、既に裁きが決められてしまっているということを意味しています。「私には救い主など必要ない」、「私はキリストを信じない」と決めている人間は、生きている間から既に裁かれることが決定されており、やがてその裁きが執行されるのです。ですから、裁きが決定されるのは、最後の審判においてではありません。人が生きている間に、キリストを信じない、あるいは求めないと決心した時に、その人の永遠の運命が決定されるのです。『聖書的セカンドチャンス論』の中で、久保氏は、最後の審判に関して、別の考えを述べています。
「裁判というものは、有罪か無罪かを決定するためのものであり、無罪になることもあるのです。世の終わりに開かれる神の『最後の審判』の法廷もそうです」(66頁)。
確かに、この世の法廷において、無罪判決が出ることがあります。何も悪いことをしていないのに、無実の罪を着せられることがあるのですが、天の法廷においては、「あなたは無罪です。あなたは何も悪いことをしていません」と言われることはあり得ません。なぜなら、「すべての人は罪を犯した」と聖書に明記されているからです。勿論、イエス様を信じる者は、主の贖いのゆえに罪が赦され、罪の刑罰も免除されます。だからこそ、「さばきに会うことがない」と書かれているのです。つまり、信仰によって義と認められた者は、天の法廷に出頭する必要などないのです。
一つの実例で説明してみましょう。私が車で高速道路を走っている時にスピードを出し過ぎて、パトカーに止められたとしましょう。200キロも出ていたので、10万円の罰金チケットを切られてしまいます。私はその罰金チケットを持って、警察署に出向きます。「では、10万円の罰金を払ってください」と言われます。しかし、私にはそんな大金はありません。「では、刑務所に入ってもらうしかないから、その服役の期間を決めるために、法廷が開かれます」と言われるのです。「困ったな~」と思っていると、知り合いの牧師がやって来て、「私があなたの代りにその罰金を払ってあげましょう」と言ってくれたとしましょう。その場合、知り合いの一方的な好意によって、罰を受けずに済むということになる訳ですが、知り合いの行為を拒んだ場合、どうなるのでしょうか。法廷に出頭せざるを得なくなります。そして、必ず、刑罰を言い渡されるのです。悪いことをしている訳ですから、間違いなく、有罪判決を受けるのです。
これと同じように、人類は一人の例外もなく、神の律法を破っています。もう既に、神の前で有罪なのです。しかし、自分の罪を認めて、キリストが私の罪の代価を支払ってくださったということを信じるなら、罪の刑罰が帳消しにされて、裁きに会う必要がなくなります。ですから、黙示録の20章に登場する人々は、天の法廷に出ること自体が、彼らに希望がないことを証明しています。彼らは、キリストにある救いを求めなかった訳ですから、自分の行いに応じて裁かれることになり、間違いなく、極刑を受けるのです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)。

人が御子を信じるのはいつでしょうか。勿論、生きている間です。御子に聞き従わないのは、いつのことでしょうか。勿論、人が地上で生きている間のことです。その人は「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」のです。では、人が救われるのは、いつのことでしょうか。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」という、この表現も決定的です。その人は生きている間に、死ぬ前に主を受け入れ、また信じたのです。ここで、「人の意欲によってでもなく」という言葉にご注目ください。この言葉は、人がハデスに行った後に、救いを経験することも、救われたいという願望を持つことも不可能であるということを示しています。つまり、新生の体験、あるいは救いの体験は、聖霊のみわざであって、聖霊の助けがなければ、人の救いはあり得ません。では、どうでしょうか。聖霊なる神が今、ハデスにご臨在されて、キリストを信じなかった人々のうちに働いておられる、というふうに考えられるのでしょうか。意見が分かれる問題だと思いますが、私は違和感を覚えます。それは、聖書が地上における聖霊のみわざについて詳細に述べていても、ハデスでの働きに関しては、全く沈黙しているからです。聖書が沈黙していることに対して、希望を持ったり、期待を抱いたりすることは、極めて危険なことだと私は考えます。人が救われる、救われないは、生きている間に決定されます。

「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:29)。

この聖句が語っている「善を行なった」、また「悪を行なった」とは何を意味しているのでしょうか。5章23-24節を見てください。
「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
すなわち、イエス様のみことばを聞いて、御子を遣わされた父なる神を信じることが、御父と御子を敬うことであり、それが善です。また、御父を信じないことが、御父と御子を敬わないことであり、それが悪なのです。

「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです』」(6章29節)。

同じことの繰り返しになりますが、主イエス様を信じることが神のみわざを行なうことであり、それが善であり、その善を行なった者はよみがえって命を受けます。一方、信じないことが悪であり、その悪を行なった者は「よみがえってさばきを受ける」と主は宣言されました。主は昇天される前に、弟子たちに大宣教命令を託されました。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコ16:15-16)。

「信じない者」とは、生きている間に信じない者のことです。「罪に定められる」とは、有罪判決を受けることであり、信じないことが罪なのです。つまり、信じなかった罪のために裁かれるのです。
セカンド・チャンスの問題を検証する時に、もう一つ、注意深く見ておかなければならない聖句があります。ルカの福音書16章にある「ラザロと金持の話」です(19-31節)。キリストの復活の前は、ハデスは慰めの場所と苦しみの場所に分かれていたようです。神を信じる者は慰めの場所に入り、信じない者は苦しみの所に入った訳ですが、主が甦られた後、旧約聖書の聖徒たちは主と共に、天に昇って行きました。そして今は、クリスチャンは地上の生涯を終えた時に、すぐに主のもとに、つまり天の御国に入るのですが、このルカの福音書のみことばは、ハデスにいる人々の状態を明らかにしています。まず、彼らは苦しんでいます。次に、彼らは少しでも、その苦しみから解放されることを願っていますが、その願いが叶えられることはありません。よく見ていただきたいのですが、金持の嘆願もアブラハムによって退けられています。3番目に、ハデスにいる魂は、後悔することがあっても、罪を悔い改めることはありません。金持ちは、「あわれんでください」と叫んでいますが、「私は大変な罪を犯しました。赦してください」とは言っていないのです。彼は聖霊の働いておられる領域から出てしまっているので、悔い改めることができないのです。久保氏は、ハデスの苦しみは、人を悔い改めさせるための懲らしめ的苦しみだと言っています。つまり、「金持ちはハデスで心が砕かれ、悔い改めた。だからこそ、自分のことを考えずに、兄弟たちのために執り成しをしている。その無私な愛のゆえに、キリストに覚えられ、救われたはずだ」ということですが、私はこの解釈に首を傾げずにはいられません。彼の罪の告白は、どこにあるのでしょうか。もし、金持が本当に砕かれて悔い改めたのであれば、アブラハムが彼の悔い改めに全く応答していないのは、なぜでしょうか。更に、『聖書にみる死後の世界』の中で、久保氏は、ラザロについて、次のように解説しています。
「慰めの場所に行ったラザロは、特に旧約の聖徒と呼ばれるほどの人物ではありませんでした。ラザロはむしろ単に、不幸な境遇にありながらも善良に生きた、という人物なのです」(61頁)。
これは極めて、重要な発言です。ラザロは不幸な境遇の中にあったけれども、善良に生きたから、慰めの場所に入った、というのです。また、「彼のような人物は、今の時代にも大勢います」と書いています。つまり、クリスチャンではなかったから天国には行けませんが、神の御前に善良な生活をしようと努力した彼らは、ハデスの慰めの場所にいる、ということです。そのグループの中には、例えば、マハトマ・ガンジーなどのような偉大な人物が入っているそうです。ローマ書のみことばを受け入れることができないのでしょうか。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(3章10―11節)。

みことばは、はっきりと述べています。神の目から見て、善良な人間はいません。どんなに立派に見える人であっても、救われなければならない罪人なのです。これが、福音の原点なのです。これを否定すれば、もはや正統的なキリスト教ではありません。
先日、アフガニスタンでNGO活動に参加していた伊藤和也さんという31歳の青年がタリバンの手によって誘拐されて、殺害されてしまいました。アフガニスタンの復興のために自分をささげていた伊藤さんが殺されたというニュースを聞いて、私はショックを受けると同時に、タリバンに対する深い憤りを覚えました。どうして、あんな立派な青年が殺されなければならないのかと思いましたが、伊藤さんは、農業の支援をすると共に、イスラム教の神学校の建設をも手伝っていたようですから、クリスチャンではなかったでしょう。そこで、もし、久保氏に対して、「彼は死んだ後、どうなるんですか」と聞いたら、間違いないなく、このような答えが返ってくるでしょう。「勿論、ハデスで慰めを受けて、福音を聞き、やがて天国に入るでしょう。善良な青年だったからです。」恐らく、日本人の99.999%はこの答えに納得すると思います。「当然だ」と言うでしょう。しかし、これが聖書的な答えなのでしょうか。確かに、私たちの目から見れば、伊藤さんは立派な青年でしたけれども、聖書は「義人はいない。善を行なう人はいない。神からの栄誉を受ける人はいない」と述べているのです。また、聖書は、「立派な人が救われる」と言っているのではなく、「イエス・キリストを信じる者が救われる」と書いてあるのです。もし、善良な人が救われるのであれば、私たちは善良な人間になるように努力しなければなりません。「信じる者が救われる」というメッセージを捨てるべきです。しかし、ヨハネの福音書3章16-18節にあるみことばをそのまま受け入れて、その福音に堅く立つのであれば、「善良な人も神に顧みられるはずだ」という正反対の発想を否定しなければならないのです。「罪人を救ってくださるイエス様」と、「善良な人を省みてくださるイエス様」を混同してはならないのです。
久保氏の著書の中に、更に気になる個所があります。少し長いのですが、読ませていただきます。
「キリストの十字架が私たち人間の罪の贖いのためであった、と信じるだけでは、まだ回心ではありません。サタンや悪霊たちさえも、そのことを知って、認めているのです。回心とは、単に神の存在や、キリストが救い主であると認めること以上のものです。それは、神と共に歩み始めることなのです。信仰とは、神を愛し、御子キリストを愛することです。また自分の救いについてキリストに全面的に信頼し、彼に従うことです。そうすれば救われる――それが福音なのです。信仰の本質は、神の御教えと心を一つにすることにあります。回心の本質は、神とキリストに従うことにあります。回心とは、神の御前に忠実な者となることです。この点で『よみ』の人々は、福音を聞いて回心するかどうかを問われた時、心の純粋性が極めて厳しく試されたことでしょう。たとえば、『よみの苦しみから逃れるために信じる』とか、『最後の審判が怖いから、それから逃れるために信じる』というような気持ちで信仰を表明したとしても、それは回心とは認められないのです。彼らは、神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われたことでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われたことでしょう」(124-125頁)。
この言葉によると、救いは、厳しいテストに合格した者にだけ与えられるようです。純粋であるかどうか、忠実であるかどうか、従順であるかどうかが厳しく問われるというのです。皆さん、ここではっきりと申し上げましょう。これは福音の曲解です。忠実云々というのは、救われた後の課題であって、救われるための条件ではないのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1-3)。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」とあります。一つ、皆さんにお尋ねしたいと思います。死人に何か、できることがありますか。ここに、どなたかの亡骸があったとしましょう。声をかけても、反応がありません。「この重い荷物を運ぶのを手伝ってくれ」と頼んでも、手を貸してくれません。死んでいるからです。では、どうでしょう。私たち人間が霊的に死んでいるとすれば、その死んだ状態で神に従うことができますか。神のみこころを行なうことができますか。まず、神の命によって生かされなければなりません。それが救われるということなのです。救いに預かって、心が新しく造り変えられるなら、神を愛することも、神に従うことも、忠実に仕えることもできるようになるのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(8-10節)。

ここにあるように、救いは信じる者に与えられる賜物です。私には3人の子供がいます。3人とも、もう、成人していますが、小さい頃、海外の奉仕から帰って来た時など、プレゼントをしたことがあります。そのプレゼントを、鞄から出した時の子供の反応を、今でもはっきり覚えています。子供は何も遠慮せずに、「ありがとう」と言って、手を伸ばし、プレゼントを受け取るのです。しかし、もし、子供が緊張した顔をして、「お父さん、ずっと良い子でした。宿題も頑張ったし、お母さんの言うことも全部聞いたし、お手伝いもしました。だから、お父さんのプレゼントをもらう資格があると思うのですが、どうでしょうか」と言ったら、どうでしょう。「一体、どうしたんだろう」と考え込むと思います。とても心配になると思います。賜物は、人の一方的な好意によるものです。人が誰かにプレゼントをする時に、純粋かどうか、忠実かどうか、あるいは、従順な態度かどうかなどということを厳しくチェックしたりしません。感謝して受取ってもらえれば、それで良いのです。
久保氏の説く福音は、恵みの福音ではありません。非常に厳しい、戒律主義です。どうしようもない罪人が救われる福音ではありません。立派な者、忠実な者、テストに合格した者が救われる福音なのです。ちなみに、エホバの証人の福音もそうです。最後の最後まで忠実さを保って、自分が神の国にふさわしい者であることを証明すれば、神の楽園に入れてもらえるというものです。ですから、救いの確信を持っているエホバの証人はいません。どれくらい忠実であれば合格点がもらえるのか、どれだけ従順であれば神に認められるのか、分からないのです。彼らは常に、不安と緊張の中で生きています。久保氏の福音を信じる者も同じです。
しばらく前のことですが、福島県に住む、ある主婦から電話がかかってきました。その主婦は7年間ものみの塔とかかわっているけれども、途中から疲れてきたと話しました。初めの5年位、彼女は模範的なエホバの証人になろうと努力しました。ところが、頑張れば頑張るほど、自分が罪深い、滅んでも当然な者であるということがはっきりと分かってきたのです。神は遠い存在となり、自分は出口のないトンネルに入り込んでいるような感じがした、ということです。そこで、彼女は「聖書の本当のメッセージとは何なのだろうか」と、真剣に考え始めて、近くのキリスト教書店に行き、30冊もの本を買ったそうです。その中の一冊が、私の本でした。一番最後に私の本を読んだようですが、読んでいくうちにすべての疑問が解けて、エホバの証人から脱退する決心をすることができたそうです。私に電話をくださったのは、救われるためにどうしたら良いのかということを聞くためでした。私はすぐに手元の聖書を開いて、エペソ書2章8-9節を読みました。この聖句にあるとおり、救いは神の無償の賜物であり、私たちはただ信仰によって受け取れば良いということ、また、救われるに値する者になろうと努力するのではなく、ありのままの姿で神の胸に飛び込んでいけばいいのだ、ということを説明しました。すると、相手の女性は貴重な宝石を発見したかのように、本当に喜んでくれました。最後に、「イエス・キリストを信じ受け入れます。」と言って、電話を切ったのですが、その直後に洗礼を受けて、早速、エホバの証人に対する伝道を開始して、10人以上の人を導いたそうです。
恵みの福音に立っている者は、自分が救われたこと、神の子供とされたこと、永遠の命を持っていること、死んだのち神の国に入れることに対して、絶対的な確信が持てます。その確信はどこから来るのでしょうか。自分の行いがしっかりしているから確信を持っているのでしょうか。一生懸命に、忠実に神に従っているから、大丈夫だと思っているのでしょうか。いいえ、違います。「イエス・キリストは十字架の上で、私の罪の代価を完全に支払ってくださった。だから、私は救われて、神の永遠の愛の中で、守られている」という信仰です。自分の行いではなく、キリストの十字架の功績に信頼しているのです。救いは信仰によるのであって、行いによるのではないとエペソ書に書かれています。勿論、行いによるのではないからといって、行いの重要性を軽視してはなりません。行ないも大切です。しかし、それは、救いを得るための手段として大切なのではなく、救われた証として重要なのです。救われた者は、救われた結果として、必ず、良い行ないに歩むようになります。主を愛し、主に従い、忠実に主に仕えるようになるのです。
久保氏は、ハデスで福音を聞かされた人々は、「神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われることでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われることでしょう」と言っていますが、このように、救いのハードルを高くしているのには、それなりの理由があります。つまり、さんざん、ハデスで苦しい思いをした人が、「イエス・キリストを信じれば天国に行けますよ」と言われれば、当然、全員、信じるに決まっているのではないかという疑問が生まれるでしょう。聖書には、滅びる人もいると明白に書かれているのですから、久保氏は、「すべての人は救われる」とメッセージを語る訳にはいかなくなります。それで、「信じるだけで救われる」という教えを否定して、救われるための条件を難しくするしかない、ということになる訳です。
 では、最後に、セカンド・チャンス論はカルトであると、断言できるかどうかについて考えてみましょう。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端を密に持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(2ペテロ2:1)。

異端」という言葉は、ギリシヤ語では、「ハイレシス」(“Heresy”)と言いますが、新約聖書の中で9回ほど使われています。そして、「分派」とか、「一派」とか、「宗派」と訳されることが多いのですが、この聖句で異端のおもだった特徴を見ることができます。まず、異端はにせ教師による福音の曲解です。福音の基本的なメッセージが変えられてしまうのです。その一つの具体例として、ガラテヤの異端を挙げることができると思います。にせ教師たちによって、律法主義的な福音が誕生しました。「キリストを信じるだけでは救われない。律法の行いも必要だ」という教えです。次に、異端は主を否定します。具体的に言うと、キリストの神性を否定するとか、十字架の完全性を否定することです。エホバの証人は、イエス・キリストはエホバによって最初に造られた御使いであると教えています。主の神たることを否定しているので、異端です。異端の3番目の特徴は、滅びをもたらすことです。これらの特徴を踏まえたうえで、私は異端を次のように定義づけています。
「自分達こそが真のキリスト教会であると主張していながら、イエス・キリストを否定するか、救いにかかわる聖書の最も基本的な教えを曲解するグループです。」
では、「セカンド・チャンス」はどうでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。まず、これを支持すると、「セカンド・チャンス」の教えによって、キリストを信じる決心を後回しにして、結局、生きている間にイエス様を信じない人々が出て来るということになります。「セカンド・チャンス」というのは、「死後でも間に合う」というメッセージになります。そうです。最終的に行き着くところは、「今、イエス・キリストを救い主として受け入れなくても、滅びることが決定する訳ではない」ということです。こうして、「セカンド・チャンス」は、人々を信仰の決心から遠ざけてしまう恐れがあります。「後でも間に合うなら、今はクリスチャンにならないで、この世での生活を楽しもう」と考える人間が、必ず、出て来るでしょう。そして、「セカンド・チャンス」が実際になかったとしたら、この教理は人々を滅びに追いやるものとなってしまうのです。
もう一つ、救われるための条件が変えられているということ、信じるだけでは不十分であるということになります。忠実さ、純粋さ、従順も求められています。これは、聖書的福音の曲解です。
『セカンド・チャンスは本当にあるのか』の原稿を書かせていただいた時、はっきりと、「セカンド・チャンスは異端である」という言葉を入れました。しかし、編集の段階で、いのちのことば社のハサミによって、そこがカットされてしまいました。「セカンド・チャンスの支持者を刺激しすぎると、読んでもらえなくなる」という方針のもとで行われたことですが、時々、「それで良かったのかな」と考えたりします。ですから、今ここに、いのちのことば社の方もいらっしゃらないようですので、断言したいと思います。今述べた二つの点から、セカンド・チャンスは異端だと、私は判断しています。その判断を受け入れるかどうかは、皆さんの自由です。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 初めに、アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー集中講座の講師として、私のような者をお招きくださり、心から感謝いたします。与えられたテーマは、「セカンド・チャンスを検証する:未信者の死後の救いはあるのか」ということですが、ご承知のように、これはかなり前から、日本のキリスト教会の中で議論されてきた問題です。私がこの議論に引き込まれたのは、2006年の1月です。出所不明の小包が我が家に届きました。実は、それ以前にも差出人の名前も住所も書かれていない郵便物を受け取ることはしばしばありました。「おまえとおまえの家族を殺す」という脅迫状だったり、「『異端だ』、『カルトだ』と人を裁くあなたは何様だ。悔い改めよ」という内容のものであったりすることが多いので、今度は何だろうと思いつつ、小包を開けてみました。すると、本が1冊だけ入っていました。久保有政氏が書かれた『聖書的セカンド・チャンス論』という本でした。未だに、どなたが、どのような意図で送ってくださったか、分かりません。私は以前、久保氏が発行しておられる『レムナント』誌の記事を読んで、その教理のことを知ってはいましたが、詳しい内容の本を見るのは初めてでした。正直なところ、挑戦状を叩きつけられたような思いがしました。この本を読み終えた後、この教えにかける久保氏の並々ならぬ執念を痛烈に感じました。何とか、一人でも多くの日本人をキリストへ導こうとする熱意も伝わってきました。しかし、それと同時に、「セカンド・チャンス」の聖書的根拠への大きな疑問を抱かずにはいられませんでした。その数ヵ月後、私の所属する「ニューライフ・ミニストリーズ」の役員会で、その懸念を打ち明けました。すると、役員の一人である中川健一先生が、「セカンド・チャンスに反論する本を書きなさい」と言われました。その時、内心、「また、日本の牧師たちに嫌われるようなことはしたくない」と思いました。2003年に『教会がカルト化する』という本を出して、相当、恨まれるようになりました。また、セカンド・チャンスを支持する牧師がかなりおられるということを知っていたし、その中に私が20年前から親しくさせていただいている有名な牧師もいました。ですから、「ノータッチ」という立場を貫きたかったのですが、中川先生に「本を書きなさい」と言われたら、なかなか断る訳にはいきません。「先生、本が売れなかったら、どう責任を取ってくれるのですか」と聞いたら、「その時、またチャンスを上げます」と言われました。この本が出来上がるまでには、1年以上をかけて、その間3回も原稿を書き直すように、いのちのことば社の編集者から要求されました。途中で、完全に行き詰って、その作業を投げ出すこともありました。「もう、どうでも良い」と思ったのです。しかし、ある朝、祈っていると、聖霊が知恵を与えてくださいました。そこで、9か月ぶりにワープロの前に座って、原稿を書き上げることができたのです。
本論に入る前に、申し上げておきたいのですが、私は「セカンド・チャンス」という言葉が好きなのです。私自身、今までの歩みの中で、神の恵みによって何度もセカンド・チャンスが与えられています。30年以上も前の話になりますが、私が新米の宣教師として、大阪の豊中にある開拓教会で奉仕をしたことがあります。奉仕と言っても、片言の日本語しか話せなかったために、できることがとても限られていましたが、日本語でメッセージをする日がやって来るのを夢見ながら、芦屋にある日本語学校で、日本語の勉強に励んでいました。6か月ほどたった時点で、多少の自信がついたので、水曜日の祈り会で、初の説教にチャレンジすることにしました。自分としてはまずまず、よくできたほうではないかと思いました。ところが、集会の直後に、宣教団体の責任者の事務所に呼び出されて、次のような厳しいことを言われたのです。「聞くに耐えない、ひどい日本語だった。今後は、必ず、英語で話をして、誰かに日本語の通訳をしてもらいなさい。」私にとっては、たった一つのビジョンをぶち壊される、実にショッキングな言葉でした。しばらく、英語でメッセージをする屈辱的な日々が続きました。しかし、そんなある日、埼玉県で開拓伝道をしていた宣教師から、電話がかかって来ました。「一緒に働かないか」という誘いでした。「先生の教会には、英語を日本語に通訳できる方はいますか」と尋ねると、彼は「ノー」と答えました。「じゃ、行きます」と即答しました。その時以来、誰にも止められることなく、今日に至るまで日本語で聖書のメッセージを語り続けています。これはまさに、神の恵みによって与えられたセカンド・チャンスだったのです。
誰でも、人生の中で、このような経験をすると思います。しかし、未信者も死んだ後、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。生きている間に、イエス様を救い主として信じなくても、ハデスで悔い改める機会があるのでしょうか。その答えを知るためには、私たちは聖書を注意深く検証する必要があります。
 今日の第一セッションの中で、まず、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な聖句を、ご一緒に見ていきたいと思います。時間の関係で、3か所に絞らせていただきます。それでは、初めに、ペテロの第一の手紙3章18-20節を開いてみましょう。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
ご承知のように、この聖句に関して、幾つもの解釈が主張されます。一つは、「ノア宣教説」と呼ばれるもので、キリストが聖霊によって、かつてのノアの宣教の中におられ、ノアを通して、ノアの時代の人々に宣教をされたという解釈です。この解釈では、キリストがハデスに下られたことが否定されます。次に、「断罪説」という解釈があります。キリストはハデスにいる魂に福音を伝えたのではなく、ただ、断罪の言葉を述べられたに過ぎない、ということになります。この説を支持する人々の中には、「捕らわれの霊たち」を堕落した御使いたちと取る人もいます。3番目の解釈として、「勝利宣言説」があります。これによると、「捕らわれの霊たち」は、旧約聖書の聖徒たちのことであって、彼らは十字架による勝利の宣言を聞いてから、ハデスから解放されて、キリストと共に天に帰ったということです。最後の解釈は、「セカンド・チャンス説」です。つまり、ノアの時代の人々に福音が語られて、彼らに回心のチャンスが与えられたとする解釈です。
マルチン・ルッターは、「ペテロがここで何を言わんとしているか、さっぱり分からない」とつぶやいたそうですが、確かに難解な個所です。私自身の考えについて、後で述べることにして、まず、ここに「セカンド・チャンス」を支持するものがあるかどうか、注意深く見ていきましょう。「捕らわれの霊たち」とあります。この言葉は、誰のことを指しているのでしょうか。20節には、「ノアの時代に・・・・従わなかった霊たち」と書かれています。ギリシャ語の「プニューマ」は、人間の霊に対しても、また御使いに対しても用いられますが、一つのグループとして、「霊」とか、「霊たち」、あるいは「霊ども」という表現は通常、悪霊を指しています(マタイ8・16、12・28、マルコ1・27、3・11、1テモテ4・1)。この「捕らわれの霊たち」が悪霊を指しているということは、2ペテロ2章5節を見ても、明らかです。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
また、5節を見てください。
「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」
暗闇の穴の中に閉じ込められた御使いたちは、ノアの時代に神に逆らった「捕らわれの霊たち」なのです。4節の「地獄」は、「タルタールス」と言って、新約聖書のここにしか出てこない言葉ですが、ギリシヤ神話では、ハデスよりも下にある所と考えられていました。よく確認していただきたいのですが、ペテロは3章19節で、「ハデス」という言葉を使っていません。「捕らわれの霊たちのところ」と言っています。ですから、セカンド・チャンス説の釈義上の最初の問題は、無理矢理に、これを「ハデス」と読ませていることです。「ハデス」とは書かれていません。ユダも、その手紙の6節で、タルタールスに閉じ込められた御使いたちに言及しています。
「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
「永遠の束縛」という言葉に注目していただきたいと思います。「捕らわれの霊たち」と同じグループであることをご理解いただけるかと思います。また、7節に、ソドムとゴモラのことが書かれているので、この御使いたちが自分のおるべき所を捨てたのは、その前のノアの時代のことだと考えても差し支えないでしょう。創世記の記述も、この御使いたちについて言及していると思われます。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」(6章1-4節)。
ここも、神学者の意見が分かれる所ですが、まず、「神の子ら」はセツの系列で、「人の娘たち」はカインの系列だとする説があります。セツの子孫は主を恐れ、主と共に歩んでいましたが、不敬虔なカインの子孫と結ばれることによって、堕落してしまったということです。非常に分かりやすい解説ですが、ペテロとユダが語っている言葉の説明にはなりません。つまり、御使いたちが人類の堕落とどう関わっていたか、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」とは何を意味するのかということです。そこで、もう一つの解説として、「神の子ら」は御使いを指しており、「人の娘たち」は地上にいるすべての女性を指しているという解説が出てきました。つまり、御使いは人間と性交渉を持ったということになります。これを主張する聖書学者の中に、ケネス・ウィーストがいます。彼は、「神の子ら」は言語学的には天使的な存在以外の意味をなすということはあり得ないとしています。その根拠として、彼はヨブ記(38・7)やペテロの手紙の聖句を挙げています。勿論、この解釈に問題がない訳ではありません。一つは、御使いはどのように人間と性交渉が持てるのか、ということです。これは確かに、大きな謎ですが、ノアの時代に、御使いの許される行動範囲が今よりも広かったということが言えるかも知れません。いずれにしても、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」という言葉から分かるように、普段はあり得ないような、不自然なことが行われたということになるのではないでしょうか。
では、再び、ペテロの第一の手紙に戻りましょう。次に、「捕らわれの霊たち」に伝えられたメッセージの内容ですが、「みことばを語られた」とあるだけです。これはギリシヤ語の「ケーリュソー」が使われており、単に「告げ知らせる」という意味です。ちなみに、「喜びのおとずれを伝える」という場合は、「ユーアンゲリゾー」が用いられます。久保氏は、その著書(『聖書にみる死後の世界』)の中で、「『ケーリュソー』は、新約聖書に約50回出てきますが、いずれの場合も『福音を宣べ伝える』の意味で使われています」と述べています(113ページ)。しかし、実際には、そうではありません(使徒15・21、ローマ2・21、ガラテヤ5・11)。キリストは捕らわれの霊たちにみことばを語られました。残念ながら、そのメッセージの内容は不明ですが、仮に「十字架による贖いが成し遂げられた」というメッセージだとしましょう。そこで、まず疑問に思うのは、地上の誰もこの良きおとずれをまだ聞かないうちに、どうしてノアのメッセージを拒んだ人々にその特権が与えられるのか、ということです。不可解に思われませんか。もう一つの疑問は、キリストによって福音が語られていたとするなら、どうしてその結果、何が起こったかということが記されていないのか、という疑問です。つまり、福音が語られていたのなら、救いのみわざがなされたはずです。しかし、救われる魂が起こされたとは、どこにも書かれていないのです。よく、ご確認ください。久保氏は、ハデスにいる人々がたくさん救われたはずだと述べていますが、聖書はそのように述べている訳ではないのです。では、キリストは捕らわれの霊たちに一体、どんなメッセージを送られたのでしょうか。勿論、断定はできませんが、彼らに対する勝利宣言だったと考えることが最も自然ではないでしょうか。22節を見てください。
「キリストは天に上り、御使いたちも、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
「イエス・キリストはその十字架の死によって、サタンとその諸々の悪霊どもに完全に打ち勝ってくださった。そのことは、タルタールスにいる霊たちにも宣言されて、動かぬ事実として認められた。」ペテロが言わんとしていたのは、このことではないでしょうか。実際に、このメッセージこそ、迫害によって苦しめられているクリスチャンたちの慰めになるメッセージなのです。これがもし、「ノアの時代に、神に逆らった人々にセカンド・チャンスが与えられた」というメッセージだったら、果たして迫害に耐える力になったのでしょうか。
ここで、もう一度、セカンド・チャンスを支持する人々の主張をまとめてみましょう。「捕らわれの霊たち」とは、ノアの時代に神に逆らった人間のことである。「捕らわれの霊たちのところ」とは、ハデスのことである。「みことばを語られた」とは、福音を伝えたということで、それによって多くの人々が救われた、ということです。私に言わせていただけるなら、乱暴極まりない釈義ですが、この解釈には、まだ大きな問題が残っています。ノアの時代の人々に福音が伝えられたとしましょう。では、ノアの時代以降の人々は、どうなるのでしょうか。彼らにだけ、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。この問題に対して、久保氏は、黙示録11章3-11節を引用します。しかし、この個所は、あくまでも終末の時代に活躍する二人の預言者のことを述べているだけで、ノアの時代以降の未信者はどうなるのか、という問題にはふれていません。『聖書的セカンドチャンス論』から引用させていただきます。
「彼ら二人の預言者は、三年半にわたってエルサレムで宣教しますが、やがて横暴な独裁者によって殺されてしまいます。彼らの死体は大通りにさらされるのです。だが、彼らは三日半のうちによみがえるといいます。そして彼らはそののち昇天して天国に行くのです。彼らはその死んでいる『三日半』の間、一体どこに行くのでしょうか。聖書は、それを記していません。しかし天国ではないでしょう。なぜなら、彼らはそののち昇天して天国へ行くのですから、このときは天国に行く必要はありません。彼らは死んでいる三日間の間、陰府に下るでしょう。そして、かつてキリストが陰府で死者たちに福音を語られたように、彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません。つまりそのとき、ノアの大洪水以後の陰府の死者たちに、キリストの福音が語られるでしょう。」
皆さん、一つのパターンが見えてきたように感じませんか。聖書に書かれていないことについて、断言することが多すぎるのです。「彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません」と彼は言っていますが、二人の預言者による、ハデスでの福音宣教に関して、聖書は沈黙しているのです。ですから、100歩、譲って、ノアの時代の人々に福音が語られたと仮定しても、それ以外の時代の人々に対して、聖書は何の希望も提供していない、ということになります。セカンド・チャンスが与えられているのは、ノアの時代に神に逆らった人々だけです。
久保氏の解釈に対して、私はペテロの聖句を、このように理解しています。十字架の死によって贖いを成し遂げられたイエス様は、タルタールスに下り、堕落した御使いたちに対して勝利宣言、あるいは断罪の言葉を宣べられて、霊の世界においてすべての権威が与えられたことを明らかにされました。そこで、弟子たちに対して、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃってから、彼らを世界宣教に遣わされたのです。
 それでは、続いて、セカンド・チャンスの根拠とされている、もう一つの聖句を見ていきましょう。
 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした」(1ペテロ4・1-6)。
特に、この6節が議論の争点になりますが、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」とあります。言うまでもなく、久保氏は、この「死んだ人々」と3章19節の「捕らわれの霊たち」とを結びつけて、同じグループだと主張します。ご承知のように、この聖句は、3章19節と同じように、非常に難解なみことばとされており、種々の解釈があります。ある人は、「死んだ人々」とは、罪の中で霊的に死んだ人々のことであって、彼らはキリストを信じることによって新しい命を受ける、と理解します。また、「死んだ人々」はすべての死者を意味するとし、福音を受け入れずに死んだ人々にも死後に第2の機会が与えられると主張する学者もいます。その中の一人は、ウィリアム・バークレーという著名な聖書学者です。更に、「死んだ人々」は、今、この手紙が書かれている時には死んでいる人々、あるいは今は死んでいる人々であるが、生存中には福音を伝えられた人々のことだという立場もあります。この解釈は、『詳訳聖書に』よって支持されています。
「だから良い知らせ〈福音〉が死者にさえも〔彼らがまだ生存していた時に〕宣べ伝えられたのです。それは、彼らが肉のからだにおいては、人間がさばかれるようにさばきを受けるが、霊においては、神のように生きるためなのです。」
私が使っている”The Holman Christian Standard Bible”も同じように訳しています。
”For this reason the gospel was also preached to those who are now dead, so that, although they might be judged by men in the fleshly realm, they might live by God in the spiritual realm.”
私はこれを、次のように和訳してみました。
「こういう訳で、福音は既に死んでいる人々にも、宣べ伝えられました。それは、彼らが肉の領域において、人間によって裁かれても、例の領域において、神によって生きる者となるためです。」
ペテロの言わんとすることを、とても的確に表している訳だと思います。また、ペテロの手紙のテーマとも一致しています。先ほども申し上げましたが、ペテロの手紙を受け取ったクリスチャンたちは、激しい迫害を受けていました。彼らは命がけでキリストを告白し、伝道していました。既に、殉教の死を遂げた者も多数、いたことでしょう。私たちはこのテーマをしっかりと把握したうえで、ペテロの手紙を読まなければなりません(2:19-23、3:13-14、4:12-17)。有名な個所ですが、「さばきが神の家から始まる時が来ている」(4章17節)とは、当時のクリスチャンが未信者の手によって受けたさばきを指しています。つまり、信仰を持っているがゆえに受ける迫害であり、試練です。これは、罪に対する裁きのことではありません。後で、そのみことばを見ていきますが、クリスチャンは、罪の裁きを受けることはありません。しかし、未信者から不正な裁きを受けることはあるのです。
では、どの解釈がこのテーマに、より合っているのでしょうか。言い換えるなら、ペテロは当時の信者たちを慰めるためにペンを取っている訳ですから、どの解釈が迫害下にあるクリスチャンのより大きな慰めになるのでしょうか。セカンド・チャンス論にあるように、未信者は死後も救いのチャンスがある、というメッセージによって、当時のクリスチャンは、「よし、だからしっかり信仰に立って、殺されても福音を伝えよう」というふうに力づけられたのでしょうか。それとも、信仰のために命を落とした仲間は天に召され、今、主と共におり、神の御国で豊かな報いを受けているというメッセージのほうが、大きな力になったのでしょうか。『新共同訳聖書』から、4章6節をもう一度、読みます。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
 それでは、最後に、黙示録20章11-15節を見てみることにしましょう。
 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
これも、セカンド・チャンス論を支持する聖句とされています。久保氏は、最後の裁きの法廷に、「いのちの書」が提出されていることに注目し、それがハデスの死者に救われる者のいることを示していると主張します。つまり、ハデスの死者に回心者が一人もいなければ、なぜ回心者名簿である「いのちの書」が提出されるのか、というのです。
この個所で注目してみたいことが幾つかありますが、まず、ハデスの死者に回心者がいるとは、一言も書かれていないことです。久保氏の得意なパターンがまた、ここに現われています。「いのちの書」の提出は、必ずしも、ハデスのグループから人が救われることを保証していません。彼らを納得させるために、「いのちの書」に名前が書かれていないことを見せる、ということも十分に考えられます。もう一つ、注目すべき点は、「自分の行ないに応じてさばかれた」ということが2度も強調されていることです。神の裁きは本来、行いに応じて行われるものです。
「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ローマ2:6-8)。
忍耐をもって善を行ない、栄光とほまれと不滅のものを求める者は、報いとして、永遠の命を受けます。一方、真理に従わずに、不義を行なった者は、その報いとして神の怒りと憤りを受けるのです。ですから、永遠の命を受けたいと希望する者は、立派な人間になって、善行を積み上げていかなければならないということになりますが、使徒パウロは次の3章で、「義人はいない。ひとりもいない」と断言しています。
「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない』」(10-12節)。
また、イザヤ書のみことばも有名です。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(64:6)。
私たちの行いは、神の御前では、何の価値もない、賞味期限が過ぎた腐った食べ物のようです。ですから、行いに応じて裁かれる者は、間違いなく、不合格とされて、有罪判決を受け、火の池に投げ込まれます。裁きの時に、自分の行いを差し出して、その行いに応じて御国に入れていただけると期待する者は、必ず、神の前で幻滅させられるのです。では、誰が義と認められるのでしょうか。パウロは、3章19節からその答えを明確に述べています。
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(19-24節)。
ここにあるように、自分の行いに頼って、神の前に立つ者は、義と認められず、神の裁きに服さなければなりません。しかし、キリストを信じる者は、キリストの贖いのゆえに、義と認められるのです。こうして、神の前には、2種類の人間が存在します。自分の行いに応じて裁かれる者と、信仰によって神の裁きを免れる者です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。
信じる者が裁きに会わないのは、キリストが既に、彼らの身代わりとなって、罪の裁きを受けてくださったからです。ですから、行いに応じて裁かれる人々は、キリストに対する信仰のない人々なのです。信仰があれば、裁かれずにすむのです。そうです。そのことを踏まえたうえで、もう一度、黙示録の20章の聖句を見てみましょう。この人々は、行いに応じて裁かれると、2度も強調されています。彼らは自分の行いを差し出して、自分が神の国にふさわしい者であるかどうかを証明するチャンスが与えられますが、その結果は明らかです。自分の行いによって義と認められる人は、一人もいないからです。ちなみに、久保氏は、『聖書にみる死後の世界』の中で、イエス様を受け入れずに亡くなったご両親のことで悩んでいる読者に対して、こう答えています。
「あなたは世の終わりに開かれる最後の審判の御座において、主の御前に立つご両親の姿をそこで見ることになるでしょう。それは、ご両親の救いのために祈る最後の機会です。あなたは思いを尽くし、力を尽くして、主に向かって祈らなければなりません。」
久保氏は、その著書の中で、しばしば、死人のための執り成しを推奨しておられます。イスカリオテのユダの救いのために祈っておられるということですが、決して、聖書の中で勧められている行為ではないと思おいます。
 以上、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な3か所を見てきましたが、果たして、聖書的な教理だと言えるのでしょうか。私は大きな疑問を持っています。ある時、モンゴルで一人の日本人宣教師が外国人宣教師とモンゴル人のクリスチャンと同じ席で食事をしていました。モンゴル人がその外国人宣教師に、「キリストについて聞かずに死んだ人はどうなるのか」と質問しました。すると、その宣教師は、「聖書には、福音を聞かずに死んだ人が地獄に行くとは書かれていない」と答えました。日本人宣教師は驚いて、聖書を取り出し、テサロニケ人への第2の手紙1章8-9節を読みました。この聖句を読んでから、「私たちの主イエスの福音に従わない人々だけでなく、神を知らない人々も永遠の滅びの刑罰を受けると書かれているではないですか」と言い、またその外国人宣教師に質問しました。
「もしあなたの言ったことが正しいのなら、あなたはモンゴルに来て、非常に悪いことをしています。この人たちは福音を聞かなかったなら、地獄に行かずに済んだのです。それなのに、あなたは彼らに福音を伝えに来ました。残念ながら、多くの人は聞いても、キリストを拒んでいます。ということは、あなたはこの人たちを地獄に落としに来たことになります。」
その外国人宣教師は何も答えずに、黙ってしまったということです。とても考えさせられる話ですが、実は、私もエホバの証人に対して、同じような疑問を投げかけたことがあります。彼らは、この世で聖書のメッセージが聞けなかった人は、必ず、復活して、地上の楽園でみことばを学ぶ機会が与えられると言っていますが、エホバの証人の話を聞いても信じなかった人は、復活の見込みはないというのです。そこで、私は質問します。「今のこの世と、やがて来る地上の楽園と、どちらがより信じやすい環境だと思われますか。」彼らは、「ま、地上の楽園でしょうね」と答えます。私はまた、そこで質問します。「では、もしそうであるなら、今は極力、人々に伝道しないほうが親切ではないでしょうか。」
いずれにしても、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問は、伝道していくうえで、どうしても乗り越えなければならないハードルだと言えます。言うまでもなく、久保氏は、その著書の中で、この問題を取り上げています。また、この問題で悩む何人かの読者たちの質問を紹介しています。例えば、次のような質問がありました。
「私は両親を愛していましたが、両親は数年前、キリストを信じることなく亡くなりました。未信者のまま死んだ両親は、救われないのでしょうか。」
久保氏は、この方に対して、「救われるチャンスがある。ご両親のために祈りましょう」という希望のメッセージを送っている訳ですが、このように、「セカンド・チャンス」を説くことによって、伝道の大きな妨げを取り除くことができるということです。確かに、セカンド・チャンスは、人々に安心感とか慰めを与えるメッセージだと言えるでしょう。問題は、それが本当の慰めになるのかどうかということです。聖書に基づいた希望でなければ、それは偽物の慰めになってしまうのです。
では、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問に対する聖書的な答えは何でしょうか。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」(ローマ1:18-25)。
まず、確認すべき大切なことは、すべての人間に、自然界による霊的な光(自然啓示)が与えられているということです。また、これ以外にも、心に刻まれる律法、あるいは良心という光も与えられています(2章12-16節)。更に、伝道者の書に、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」という有名な聖句もありますが、問題は、与えられた光に応答するかどうかということです。光を受け入れて、創造者なる神を求めれば、必ず、更に多くの光が与えられます。主はどのような方法を用いても、ご自身を人に現すことがおできになります。聖書を手に入れることが不可能だった人には、幻か夢などによって、十字架による救いを啓示することがおできになるのです。また、逆に言うならば、救いについて詳しく知る機会のないまま死んでしまった人がいたと仮定した場合、それは、その人が与えられた光に応じずに、神を求めなかったからだということにもなるのです。厳しい言葉のようですが、パウロは、「彼らに弁解の余地はないのです」と断言しています。これが聖書の答えなのです。ですから、この問題で悩んでいる方々に対して、私はローマ書のみことばを引用しながら、「求めなさい。そうすれば与えられます」という霊的な原則を説明します。
「聖書のなかった時代のご先祖は、造り主なる神について知る機会が全くなかった訳ではありません。ちゃんと霊的な光が与えられていました。そして、もし、あなたの御先祖が心の中で神を求めたなら、きっと神から更に恵みを受けたことでしょう。息を引き取る直前であったかも知れません。心の中で、『私の造り主よ、私をあわれんでください』と叫んだかも知れません。結局、そのことは、天国に行ってからでないと、確認できないことですが、主に委ねましょう。」
このようにお話しをしてから、黙示録の15章3節を読みます。
「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って行った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』」
主は必ず、正しいことをしてくださる。そう信じて、委ねる。これが聖書的信仰なのです。人に受け入れやすいように、聖書のメッセージを変えることは何の解決にもならないのです。

The cults are active in Asia and eastern Europe as never before. Satan is working to deceive millions with a false gospel. Many have lost their lives, their possessions, their freedom, and even their very lives as a result of involvement with a dangerous cult group.

Twenty years ago God gave us a burden to help people in cult groups and their families. By God’s grace we have seen countless people come to Christ from the Jehovah’s Witnesses, Mormons, and other groups. We have seen the growth rate of the Watchtower drop year by year, and have also witnessed a dramatic drop in the number of people studying with them.

Looking ahead, we can foresee enormous opportunities for evangelism to cult members and their families, and in order to prepare for whatever may come, we feel now is the time to take steps toward the building of a cult research and rehabilitation center. This is something that has been on our hearts for a number of years. It will be a place where cult members and former cult members can come and study the word of God, straighten out their thinking, be healed in body, soul, and spirit, and prepare for reentry into the real world. It will be a place where hurting families can come for counseling. It will also be a place where pastors and Christians with a burden for the cults can come and use the reservoir of reference materials that we have accumulated over the years.

The center, as we envision it now, will have two rooms for people to stay for an extended period of time, office space, a library, a meeting room, and living space for our family. It will probably cost us \50,000,000 ($380,000) for land and \30,000,000 ($230,000) for the building. Please join with us in prayer. Your financial gifts are also greatly appreciated. Checks can be sent to us directly at our address in Japan, or, for those who desire a tax deductible receipt, gifts designated for this project can be sent to: Christ for the Nations, P. O. Box 769000, Dallas, TX 75376-9000 (Please attach a note to your gift indicating that it is for “Bill Wood/ Japan).

CHAPTER FIVE NOTES

2012年2月16日(木)

1Ronald M. Enroth, Churches That Abuse (Grand Rapids: Zondervan Publishing House, 1992), 174.

2Heb 13:5.

3Isa 43:4.

4Isa 49:15-16.

5John 3:16.

6You Can Live Forever in Paradise on Earth (New York: Watchtower Bible and Tract Society of New York, 1982), 127.

7The Watchtower, February 1, 1991, 17. Strangely enough, while teaching that salvation is a reward for obe-dience, the Watchtower does, at the same time, unashamedly declare that it is a “free gift.” What this means is that the sacrifice of Christ has wiped away the sin inherited from Adam, and man has now been given the chance to work his way toward salvation. Without this “gift” (chance), there would be no hope of salvation.

8Rom 5:5-10.

9Eph 2:8-10. Jehovah’s Witnesses maintain that faith alone is not enough–works are also needed. James 2:14-26 is often given as scriptural support for this position. However, as Paul plainly declares in the second chapter of Ephesians, salvation is not by works but by grace through faith. Works are the result of a salvation experience, not a condition for receiving that salvation. Good works are necessary, not as a prerequisite to salvation, but as evi-dence of genuine faith.

10Heb 10:19-22.

11Eph 2:13-18.

121 John 1:3.

13John 15:4-7.

14Rom 6:4- 14.

15Rom 8:31-39.

16John 16:13.

171 John 2:27.

18John 10:28-29, 1 John 5:11-13.

19The Watchtower, September 1, 1994, 12.

20The Watchtower, November 15, 1981, 21.

21The Watchtower, October 1, 1994, 6, 8.

22The Watchtower, May 15, 1999, 15.

23The Watchtower, July 1, 1965, 391.

24The Watchtower, December 1, 1993, 13.

25The Watchtower, August 15, 1983, 23. It is note-worthy that in this article the average Jehovah’s Witnesses (who are not members of the “heavenly class” and therefore not branches of the Vine) are told that they must “prove themselves to be Christ’s disciples,” and also “keep bearing much fruit.” Christ Himself, however, states that “apart from me you can do nothing” (John 15:5).

26The Watchtower, April 1, 1979, 31.

27The Watchtower, June 15, 1974, 376.

28Mark 7:13.

29In the December 1, 1974 issue of The Watchtower, Jehovah’s Witnesses are told what is and is not acceptable in their sexual relations and foreplay.

30The March 15, 1969 issue of The Watchtower declares that, “Jehovah’s organization. . . should influence our every decision” (p. 172).

31The Watchtower, June 1, 1985, 30 [Emphasis added].

321 Cor 7:23.

33Gal 5:1.

34Jas 2:8-12.

35Gal 5:13.

36John 3:3-5.

37Eph 2:1-6.

382 Cor 5:17.

39Reasoning from the Scriptures (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 1985), 77. The Scriptures clearly state that all who have faith in Christ are born of God (John 1:12-13, 1 John 5:1).

40You Can Live Forever in Paradise on Earth (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 1982), 132 [Emphasis original].

41Matt 23:25-28.

42See Rom 3:12.


43Luke 18:13.

44The Truth That Leads to Eternal Life (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 1968), 112-3.

45Life Everlasting in Freedom of the Sons of God, (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsyl-vania, 1966), 398.

46Insight on the Scriptures (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 1994), 1:604-6.

471 John 3:2.

48Rom 5:1.

49Rom 8:1. The Watchtower’s New World Translation omits the word “now” in Romans 8:1: “Therefore those in union with Christ Jesus have no condemnation.”

501 John 5:11-13.

51John 5:24.

52John 6:47.

532 Cor 6:2.

54You Can Live Forever in Paradise on Earth (New York: Watchtower Bible and Tract Society of Pennsylvania, 1982), 251.

55Rev 3:20.

56John 6:44.

57See Rom 10:13 and 1 Cor 12:3.

58Matt 11:28.

59John 7:37b.

カルトの脱会者による自助グループ
元カルト信者の集い
 カルトの脱会者による自助グループ『いたんだ葦の会』が5月29日(月)午前10時半より、東京都東久留米市にあるカルト研究リハビリ・センターで開催されます。
学びのテーマは、『カルトと聖書 パート6』です。カルトはどのような目的で聖書を使うのか、カルト脱会後にどのように聖書を読めば良いかを学びます。参加ご希望の方は、真理のみことば伝道協会の本部まで、お問い合わせ下さい(090-8044-5751)。

マインド・コントロール問題対策DVD発売へ
 日本脱カルト協会より、『カルト:すぐそばにある危機』というDVDが制作され、発売されることになりました。若者はなぜカルトに惹かれるのか。どうして入信してしまうのか。そして、いったん、入ったらなかなか抜け出せないのはなぜなのか。ドラマ、シミュレーション、また実際の元カルト信者の体験談などから、カルト問題の謎を明らかにして行きます。定価は8,000円で高めですが、カルトの勧誘から学生を守るため、高校や大学などの現場で使えるDVDです。
ご注文は、ファックス046-263-0375、メール info@jscpr.org までお問い合わせください。

真理のみことば伝道協会主事
ウィリアム・ウッド
東京都東久留米市幸町
電話:090-8044-5751

「カルト宗教にだまされないために」ウィリアム・ウッド氏fromHarvest Time Ministries on Vimeo.