真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

真の権威とキリスト者の自由

2012年2月16日(木)

日本福音同盟・信教の自由セミナー 2009年11月13日

 本日のセミナーの講師を務めさせていただくウィリアム・ウッドです。どうぞ、よろしくお願いいたします。皆さんも御承知だと思いますが、21回目を迎えた今年の信教の自由セミナーのテーマは、これまでのテーマとはかなり異なっています。今までは、戦争の問題や、靖国神社の問題や、公立学校における国歌斉唱および国旗への敬礼の強制など、様々な社会問題が取り上げられてきました。しかし、今回は、『真の権威とキリスト者の自由』ということで、信教の自由を教会の内面から考えることになりました。私は30年前から、異端またはカルト問題に取り組んでおります。エホバの証人の訪問を受けたことが最初のきっかけでしたが、これまで幾つものグループの研究をすると共に、救出やリハビリ・カウンセリングに当たらせていただいて参りました。被害者家族へのカウンセリングもさせていただいております。その数は1000件ほどになるかと思います。また日本各地、ならびに海外の10カ国において、セミナーを開催させていただいてまいりましたが、こうした活動の中で、世界の至る所で宗教の名のもとに信教の自由が侵されている現実を目の当たりにしています。日本であっても、中国であっても、ロシアであっても、インドであっても、アメリカであっても、そのパターンはほぼ同じです。
1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺人事件など七つの事件で殺人罪などに問われたオウム真理教元幹部の早川紀代秀被告の上告審で、最高裁は7月19日、「刑事責任は極めて重大」として、被告側の上告を棄却する判決を言い渡しました。一連のオウム真理教事件で死刑確定となったのは、彼が6人目です。新聞記者の取材に対して、早川被告は判決に納得できない理由を、次のように説明しています。「人殺しにかかわったのだから、厳しい刑を受けるのは当然かも知れません。しかし、私が事件の主役だという検察官の主張は事実とは違います。グル麻原の宗教的絶対性を認めようとしないのは納得がいきません。」更に、早川被告は、麻原の予言するハルマゲドンから人々を救済しようと無私の心で働いたに過ぎない、と主張しています。ですから、計4人の殺害にかかわったのは、「信徒としてすべての判断を麻原に委ね、絶対服従していたからであって、皆に言われるほど自分は悪い人間ではありません」と言うのです。
早川被告の発言の中に、特に注目すべき点が二つあります。「すべての判断を麻原に委ねていた」ということと、「絶対服従していた」ということです。つまり、早川は、自分は奴隷状態にあって、自由に行動することができなかったと主張しているのです。その主張は裁判官に認められませんでしたが、彼の言っていることには、かなりの信ぴょう性があると言えると思います。早川は間違いなくマインド・コントロールされて、精神的な束縛を受けていました。
「マインド・コントロール」という言葉は、あのオウムによる東京地下鉄サリン事件以来、日本においても市民権を得ていますが、ごく簡単に説明させていただくと、人に依存して、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする能力が著しく低下する精神状態のことを言います。早川被告は、「すべての判断を麻原に委ねていた」と言っていますが、別の言い方をすれば、彼は思考停止になっていたのです。しかし、一体なぜ、そのような精神状態が生まれるのでしょうか。二つの要素が関係しています。一つは、本人の自信の無さです。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。ですから、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるかも知れません。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。
マインド・コントロールに欠かせないもう一つの要素は、自分の優越性を主張する指導者の存在です。麻原教祖の場合、インドでの長年の厳しい修行に耐えて、悟りを開いたと言っています。「私はあなたがたよりも、はるかに上の霊的レベルに達している。私は神のような存在だ。だから、自分で考えないで、私の言うことを聞いていれば、救われる。」と教える訳です。他の宗教団体では、指導者は特別の霊的体験や啓示や幻の話をして、「私は神の代弁者である。私は神に油を注がれた器だ。私に従うことは、神に従うことである。しかし、私に逆らえば、神に逆らうことになる。」と主張します。このように、権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教指導者には、若者は非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
「私はすべての判断を麻原に委ねて、絶対服従していた」と早川被告は述べています。多くのカルト脱会者は、自分がリモコンで操作されていたと証言していますが、「彼らが自分の意志で選んだ道なんだから、彼らの責任だ」ということで片づけられる問題なのでしょうか。いいえ、一概にはそうとは言えません。勿論、何の責任もないということにはなりませんが、考慮すべき、大事な一面もあります。カルトの被害者は巧妙な心理的トリックによる影響を受けています。「マインド・コントロールの法則」とも呼ばれていますが、そのうちの一つは、「恐怖心の法則」です。言い換えれば、脅しです。「私は神の代弁者であるから、無条件で従いなさい。私の言うことを疑ってはならない。私に逆らう者は必ず、神に見離される。」信者はこのような言葉を徹底的に叩き込まれて、無意識のうちに思考停止になります。これは彼らの責任でしょうか。必ずしも、そうとは限りません。例えで説明しましょう。今夜のセミナーの後で、あなたが帰宅される途中、強盗に襲われたとします。胸に包丁を突き付けられて、「お金を出せ」と脅されます。皆さんはどうされますか。恐らく、財布を渡すでしょう。その後、強盗が警察に捕まったとします。取り調べを受けた男は、罪を認めますが、次のような説明を始めます。「確かに、お金を受け取りました。しかし、相手の人は自分の意志でポケットに手を入れて、財布を出しました。私が取ったのではありません。」このような主張は通るのでしょうか。あなたは確かに自分の意志で財布を出したと言えるかも知れませんが、それは、包丁を突き付けられて、命の危険を感じたからなのです。カルトの信者も、指導者の脅しに対して、同じように反応しているにしか過ぎないのです。
マインド・コントロールのもう一つの心理的トリックは、「情報コントロール」です。教祖は、自分にとって都合のよい情報だけを与えて、都合の悪い情報を禁止します。このような情報統制によって、偉大な指導者としてのイメージを保つのです。言うまでもなく、情報コントロールを使うのは、宗教指導者だけではありません。情報統制をする政治家もいます。その最たる例は、北朝鮮の金正日書記長です。彼は、国民の大多数の人々に、神のように崇められています。しかし、実際はその数々の身勝手な政策によって国民を苦しめています。では、どうして、それでも偉大な指導者として崇められるのでしょうか。外部からの情報が入ってこないようになっているし、金正日を批判することが禁じられているからです。北朝鮮の方々は、決して自由だと言えません。むしろ、束縛されている、あるいは利用されていると言わざるを得ません。カルト化した宗教団体においても、これと全く同じ現象が起きます。指導者の主張の真実性を確かめるための情報収集は許されません。指導者を疑うこと自体が、とんでもない罪とされているのです。こうして、信者は物事を知る権利、自分で考える権利、自分で判断する権利を奪われるのです。
 2ペテロ2章1-3節を読みましょう。
 「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなた方の中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることがありません。」
この聖句から、私たちはカルト化した宗教団体の教祖の特徴について、幾つか、学び取ることができます。一つは、彼らの聖書から逸脱した教えによって、滅びをもたらすということです。30年ほど前に、世界中の人々を震撼させた、前代未聞の大事件が起きました。南米のガイアナという国のジャングル奥で、913人もの人々が集団自殺を図ったのです。彼らは、“People’s Temple” という宗教団体に属する信者たちで、教祖のジム・ジョーンズの指示に従って、自ら尊い命を投げ捨てました。毒入りのジュースを飲んで死んでしまった訳ですが、このショッキングな出来事によってカルトの危険性が認識されるようになりました。カルトはまさに、滅びをもたらします。それはまず第一に、霊的な滅びですが、それだけではありません。肉体的な滅び、家庭の崩壊、人格の崩壊などもあるのです。
次に、カルトの教祖は主を否定します。人によってその否定のし方が異なりますが、キリストの神性を否定する人や、十字架による贖いの完全性を否定する人もいます。また、キリストの神性や贖いを認めながらも、自分の霊的立場を強調する余り、教祖の存在が大きくなり、信者とキリストとの個人的な関係が育たない、というケースもあります。本来なら、信者は主との交わりによって養われて、十分に満たされ、主のみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなるはずですが、カルト化した団体では、指導者の助けなくしては何もできない者とされてしまうのです。これはキリストの栄光を奪うことであり、キリストを見えなくさせることであり、「主を否定する」という言葉に含まれる間違った聖書教育です。
更に、カルトの教祖は、貪欲であり、人を食い物にします(3節)。分かりやすく言えば、彼らは自分の王国を築こうとしている人間です。自分の言うことを聞いてくれる人々に囲まれて、何でも自分の希望通りになる。これが教祖の描く夢であり、理想的な世界なのです。絶対的な権威を主張して、その権威が認められた場合、指導者はどんなことを要求しても、それが間違いなく満たされます。まず、偉大な指導者として崇められている者は、名誉欲が満たされます。「献金しなさい」と言えば、金銭欲も満たされます。勿論、誰もその献金の使い方について、口を挟む人などいません。更に、性欲も満たされます。2005年4月6日の朝、京都にある『聖神中央教会』の牧師永田保という人が、教会の牧師室で未成年の女の子数十人に性的虐待を繰り返していたとして逮捕されるという、非常にショッキングなニュースが報道されました。皆さんはそのニュースにとても驚かれたと思いますが、私も複雑な心境で、永田牧師が逮捕される場面を見ていました。実は、彼が逮捕された直接の原因は、私が書いた本にあったからです。被害者の方々は長い間、「誰にも言ってはいけない。ばらしたら地獄に落ちる」と口止めされていました。しかし、2004年の11月に、被害者の一人が、私が著した『教会がカルト化するとき』を読んで、独裁的な指導者の言いなりにならなくても良いんだということが分かり、連絡をしてきました。何度か、カウンセリングを受けているうちに少しずつ、マインド・コントロールが解けて、声を上げなければならないと理解し、警察に被害届けを出した訳です。『聖神中央教会』で被害を被ったのは少女たちだけではありません。献金を強要された信者も多くいると聞いています。月末になると、永田は「今月も全く献金が足りない」と講壇から語った後、個人的に「あなたも、もっと捧げられるでしょう」と信者に献金をアピールしました。そこで、信者が「お金がない」と言うと、「お金がないということは、信仰がないということだ」と言われます。罪責感を覚えた信者は、消費者金融から借りてでも献金をすることになりますが、返済が滞って困っている人が多い、という現実があります。更に、極端な教えにのめり込むことで、家庭崩壊を招くケースも報告されています。
聖神中央教会のニュースを受けて、多くの牧師は、「あれは極めて、特殊なケースだ」という受け止め方をされたようですが、私はそのようには考えませんでした。それは、他にもカルト化した教会の情報を得ていたし、カルトと同じようなマインド・コントロール的な手法を用いる教会を個人的に知っていたからです。その後も、教会関係指導者による暴力、セクシュアル・ハラスメント、財産の奪取などの不祥事が発生し、一般のメディアでも取り上げられました。裁判でその真偽が争われているケースも多数あります。申し上げるまでもなく、このようなニュースは測り知ることのできないほどの深刻なダメージを教会に与えています。「真理の道がそしりを受ける」とペテロが述べているのは、まさにこのことです。私は、教会が完全にカルトになることはさほどないと思っています。しかし、教会がカルト化する、すなわち、カルトのような体質になるとか、カルト的特徴を持つようになるということは、十分にあり得ます。日本福音同盟も、昨年の12月に、教会のカルト化問題に関する警鐘を鳴らすための手紙を、加盟諸教団、教会、および宣教諸団体に出しています。また、9月に開かれた第5回日本伝道会議で採択された『札幌宣言』も、教会のカルト化問題に言及しています。今こそ、この問題について十分に検証し、自己吟味をし、悔い改めるべきことを悔い改める時です。特に、今夜のセミナーのテーマである「真の権威とキリスト者の自由」が大きな意味を持つ課題だと考えますが、これまでお話しをしてきたように、カルト問題を検証する時に、二つのキーワードがあります。それは権威とコントロールです。カルトの教祖は特別の権威を主張して、自分の野望達成のために人を奴隷にします。「指導者に従いなさい」という聖書個所を引用して、信者に対する絶対服従を要求します。一方、キリスト教会の牧師も、霊的な権威をもってみことばを語り、群れを牧します。どこが、どう違うのでしょうか。カルトにおける権威は、人を指導者に依存させ、指導者の要求を通すために使われます。これに対して、聖書的な牧会における霊的権威は、人をキリストに引き合わせ、霊的な大人に育てるために用いられるのです。
エペソ書4章11-15節を開きましょう。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

皆さんもよくご存じの聖句だと思いますが、ここに記されているように、イエス・キリストは御自分の教会のために、五つの賜物を与えてくださいました。教会が健全な成長を遂げるために、五つの務めに励む教職者が立てられる訳ですが、当然のことながら、その務めを果たすために、賜物と共に、キリストからの霊的権威も与えられています。教職者は、自分が神によって立てられた器であるという確信がなければ、務めを果たすことなどできません。確かに、講壇に立つ時に、「主はこう言われる」という、権威に満ちたメッセージを語ります。主の奉仕には、権威は欠かせません。しかし、何のための権威なのか、正しく理解する必要があるのです。
まず第一に、権威は、信徒を成長させ、自立した霊的大人に育てるためにあります。13節には「完全におとなになって」、14節には「もはや、子どもではなくて」、15節には「あらゆる点において成長し」とあります。成長を遂げた霊的な大人とは、どんな人のことを言うのでしょうか。それは、自立している人だと言えると思います。つまり、自分で物事を考えて、判断し、また決断することのできる人です。新生したばかりのクリスチャンは、赤ちゃんと同様に、分からないことも多いし、できないことも色々とありますが、教職者の助けを受けながら成長し、神との交わりの中でみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなっていくはずです。何年たっても牧師離れができない、つまり、牧師に相談してからでないと何も決められない、牧師の助けがなければ何もできない状態に留まることは、決して神のご計画ではないはずです。ですから、聖書的な教職者は決して、信徒を自分に依存させません。「あなたは未熟だから、何も考えないで、神の器である私の言うことを聞きなさい」というように、霊的権威を悪用しません。普通の親が自分の子供にそうするように、あくまでも信徒の自立を促す指導を行なうのです。何度も説明しているように、カルトは人を子供のままの状態にしておきます。これがマインド・コントロールの最大の悲劇です。人間の成長が止まってしまうことです。正しい教育、あるいは聖書的な訓練は、人をコントロールするために行なわれるのではありません。その目的は、成長であり、自立なのです。
1ペテロ5章2-4節を開きましょう。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく」という言葉に注目してください。聖書的牧会は支配ではありません。支配は成長を促しません。「私は牧師だから、私に従え」と命令しても、自立した人間は育ちません。依存型の人間になるのです。一方、模範を示すことは、自立を促します。命令しない。圧力をかけない。脅さない。模範を示して、人が自ら判断して、自ら納得して、応答するまで、聖霊のみわざを待ち望むのです。勿論、権威の問題を考える時、5節の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」という聖句も考慮に入れなければなりません。ヘブル書の13章17節にも、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」とあるので、私たちは指導者に従うべきです。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下したなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書の教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならない。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずもありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、多くの聖句にはっきりと書かれているからです。
 それでは、エペソ書に戻りましょう。霊的権威が与えられている二つ目の目的は、13節にあるように、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達」するように群れを導くことです。申し上げるまでもなく、信仰も、キリストに関する知識も、みことばから来ます。ですから、教職者は権威をもって、みことばを語らなければなりません。「神はこのようなお方である。神はあなたにこう望んでおられる」と、聖書から示していくなら、それは間違いなく、神からのメッセージになります。信徒はそのメッセージによっていよいよ、キリストを深く知るようになり、健全な成長を遂げていくのです。しかし、そこで牧会者は勘違いをしてはなりません。権威があるのは、聖書のみことばだけです。牧師の個人的な思いであっても、希望であっても、願望であっても、あるいは神から与えられたとされるビジョンであっても、それに聖書と同等の権威があるかのように、信徒に押し付けてはなりません。「牧師のビジョンに反対する者は、神の権威に反対しているのであって、聖霊に逆らっている」というような発言は、聖書に対する甚だしい曲解です。勿論、牧会者に神からのビジョンが与えられるということは、当り前なことです。まず、指導者が群れの進むべき方向を見定めなければ、群れは導けませんが、そのビジョンは、聖書と同等の権威のあるものではありません。祈りの中で示されたものであると思われたとしても、聖書と同じように神の霊感によるものだとは言えません。牧会者はあくまでも人間ですから、神のみこころを完全に把握しているとは限りません。ですから、「私はこうするように、聖霊に導かれている」と宣言するのではなく、ビジョンを語りつつ、祈りのうちに、群れと共に、その内容がみこころにかなっているかどうかを確認するのです。勿論、そのプロセスを踏んでいく中で、色々な疑問が浮上するでしょう。指導者にとっては、忍耐が試される時ですが、一つ一つの質問に答えて、群れが納得できるまで説明をするということは、群れの成長のためには、非常に重要な意味を持っています。例えどんなにしんどいことであっても、このプロセスを避けてはなりません。いちいち、みんなの質問に答えなくても済むように、「牧師に従え」的な牧会をしてはならないのです。
 霊的権威が与えられる最後の目的は、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ように信徒を導くことです(13節)。3章19節にも、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とパウロは祈っていますが、これこそクリスチャンの目指すべき究極的ゴールです。いよいよ主を深く愛する者となり、どのような状況の中にあっても主に信頼する者となり、喜んで主のみこころに従う者となり、全く聖霊に満たされた者となり、主の御姿に似た者となることです。こうして、健全なクリスチャン生活を送っている者は、いつも主を見上げています。信仰の対象は主なるキリストです。ですから、教職者は権威をもって、「主に目を留めなさい。主は決してあなたを失望させるようなことはなさらない。主が共におられれば、恐れることはない。」と信徒を指導するのです。一方、再三、お話しをしているように、カルトにおいては、必ず、指導者が注目され、信頼され、崇められていきます。これは教会の中でも、十分に起こり得ることなので、教職者は細心の注意を払うべきです。「私ではなく、キリストである!」というメッセージは、どんなに強調しても、強調し過ぎることはないと思います。牧師は教祖になってはなりません。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルで、2列に並び、その真ん中を通る永田に、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。私は永田の逮捕後、そのようにしていた信者たちと何度も交わりを持ちましたが、あるレストランで食事をしている時のことです。突然、一人の姉妹が私に尋ねました。「先生の飲み残した水をいただいても良いですか。」最初は、その意味を理解できませんでしたが、彼女はこう説明しました。「牧師先生が口を付けたものをいただくと、神からの特別の恵みが与えられます。」永田がそこまで信徒を訓練していたとは驚きです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、パウロが述べている教会のあるべき姿ではありません。健全な教会では、キリストが崇められるように指導されて、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)というのが牧師の口癖になっているのです。
 最後に、もう一度、今夜のテーマについて考えましょう。『真の権威とキリスト者の自由』ということについて、ご一緒に考えてきましたが、エペソ書にあるように、霊的権威は信徒を自立させ、みことばによって群れを養い、キリストが崇められるようにするために与えられます。この霊的権威が正しく用いられると、自由が生まれます。それは、成長する自由です。自分でみこころをわきまえる自由です。キリストを知り、キリストを崇める自由です。また、それは質問をして、納得するまで確かめる自由です。残念ながら、日本の多くの教会には、このような自由はないと言わざるを得ません。信徒たちは独裁的な指導者のもとで、束縛されており、苦しんでいます。今こそ、聖書的な牧会のあり方について、よく考えて、反省すべきところを反省しようではありませんか。6年前に、『教会がカルト化するとき』という本を出した時に、「日本の教会を混乱させている」と批判されました。「あなたの本のせいで、権威をもって、みことばを語ることができなくなってしまいました」という声もありましたが、今晩の講演で、私がどのような趣旨で問題提起をしているか、ご理解いただけたかと思います。教会の健全化は、日本のリバイバルの大前提です。聖書の基本的真理に立ち返って、この国でイエス・キリストが崇められるように、共に祈り求めていこうではありませんか。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月9日

 数年前から、私は三つのブライダル事務所のために、東京都内でキリスト教の結婚式の司式をしています。家族を養うために引き受けた仕事ですが、途中から素晴らしい伝道のチャンスだと考えるようになりました。これまで、1千件以上の結婚式をやっていますが、平均して、60人ほどの方々が集います。ほとんど未信者です。賛美歌も歌うし、祈りもするし、聖書からのメッセージも語ります。真の愛とは何か、結婚とは何か、などのテーマで3-4分、お話をするのですが、新郎新婦は勿論のこと、ご家族の方々や友人たちも、聖書のみことばに感動します。間違いなく、キリスト教に対するイメージが格段に良くなるのです。日本の福音化のために、欠かすことのできない種蒔きではないかと思います。ざっと計算して、これまで6万人の方々の心に、みことばの種が蒔かれたということになります。主なる神は、不思議なみわざをされるお方だと、つくづく思います。伝道集会を開いて、チラシを何千枚も配っても、数人の人しか来ないのに、一般の企業が建てたチャペルに、何百人もの未信者が集まって、喜んで聖書の話を聞くのです。不思議です。どんなに伝道が困難な国であっても、主のみわざを待ち望むなら、必ず道が開かれます。私はそう信じています。大事なのは、人間的な知恵や肉的な方法に頼らずに、聖霊を待ち望むことです。
昨日から、お話ししているように、私がセカンド・チャンスを受け入れられない第一の理由は、それが聖書から逸脱していると考えるからですが、この教理に関して気になる点が他にもあります。その一つは、セカンド・チャンスが日本のリバイバルの鍵とされていることです。セカンド・チャンスの支持者たちは、この教えを説くことによって、「キリスト教は、亡くなった先祖を地獄から救うことができない不条理な宗教だ」という一般人のイメージを打ち破ることができると言います。地獄の教理につまずいてクリスチャンにならない人や、親族・先祖と別の場所に行くのは申し訳ないという気持ちが強くてキリスト教への回心をためらう人に対して、納得のいく説明をし、亡くなった先祖にも確かな希望があると語れば、キリストを信じる者の数が急増するはずだ、と言うのです。こう主張する牧師たちの中に、私が長年、親しく交わりをさせていただき、尊敬させていただいていた著名な先生もいらっしゃいます。名前を言うのは控えさせていただきますが、その先生の教会の礼拝に、1000人以上の人々が参加しています。「キリスト教は暗い、ダサい、つまらない」というイメージを変えるために、一生懸命に働いてこられた先生です。極力、未信者に分かりやすく、受け入れやすいメッセージを語ってこられた先生です。また、教会の新来者に対する配慮を決して忘れない方です。成功した牧師として、一目置かれています。確かに、見習うべき所が沢山あると、私も思っています。しかし、いくら人々に受け入れやすいからといって、セカンド・チャンスの教えを広めても、それが非聖書的な教理であるなら、神に祝福されるどころか、聖霊を悲しませる結果を招いてしまうのです。エペソ人への手紙4章:11-15節をお読みします。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
健全な伝道も、また健全な教会形成も、真理を語ることが肝心です。真理を語ることによって、信仰が成長します。真理を語ることによって、教会が様々な間違った方向に走らないように守られるのです。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語ろうとは、私は決して考えません。まず、聖書に基づいた真理であるかどうかを慎重に調べるべきです。真理だけが人々を救いに導き、健やかな霊的成長を可能にします。真理でない教え、つまり、異端は、滅びをもたらすだけです。「愛をもって真理を語り」とあります。人に対して愛を持っているなら、どうしてもその人に真理、真実を語らなければなりません。例え、相手にとって受け入れにくい話であっても、真理を語ることが本当の親切であり、本当の愛なのです。
言うまでもなく、真理を語ることは、場合によっては非常に難しいことです。私は、数百人のカルト信者とのカウンセリングの中で、そのことを実感しました。いわゆるカルト救出カウンセリングは、多くの場合、家族の協力のもとで行われます。家族は、本人がカウンセラーに会って、話を聞くように説得します。本人の承諾を得てから、カウンセラーが部屋に入るのですが、承諾をしたと言っても、本人は心からカウンセラーを歓迎する訳ではないのです。家族に頼まれたから、仕方なく、話を聞くというケースがほとんどです。カウンセラーのことを、自分の信仰を奪うために来たサタンの使者だ、敵だと見ています。そのような厳しい条件の中で、カウンセラーは相手の信用を得ながら、相手の信仰の問題点や、組織の欺瞞性を指摘していかなければなりません。これは至難の業です。「素晴らしい信仰ですね。きっと神様が喜んでおられることでしょう」というようなことを言っては、全く埒が明きません。知恵と配慮をもって、真理を語らなければならないのですが、真理には力があります。真理を語る時に、奇跡が起こるのです。ちょうど10年前(1998年)に手掛けた救出カウンセリングのケースを思い出します。エホバの証人になっていた久住聡子さんという30代の女性の救出です。聡子さんは数年前からエホバの証人との勉強を始め、1997年の秋に、エホバの証人として洗礼を受けられた方ですが、そのご家族、特にご主人が聡子さんの異常な言動を見て危機感を覚え、私に奥さんの救出を依頼して、私のところに来られた訳です。家族の保護の元で、説得が始まりました。最初はおもに、エペソ書から、講解説教をしました。エペソ書が好きだと、聡子さんがおっしゃっていたからです。徐々に、ものみの塔の教理の矛盾、組織の欺瞞性について話し始めました。すると、三日目から拒絶反応が出て、奥さんがトイレに逃げ込む場面もありました。しかし、皆でトイレの前に集まって何とか話が出来ました。ところが、5日目に元エホバの証人を連れて行くと、ものすごい抵抗が始まったのです。それから三日間、私たちに背を向けたり、顔を背けたり、全く口を聞いてくれなかったりしました。そしてついに、自殺未遂を図ったのです。食器用の洗剤を飲んでしまいました。幸い、大事に至らなかったのですが、その後しばらくは、生きているのか死んでいるのか分からないような虚脱状態で、質問を投げかけても、「どうでも良い」、「分からない」の言葉を連発するだけです。こちらも精神的にも肉体的にも疲れて来て、「これはもう、駄目なのかも知れない」と思い始めました。しかし、10日目の夕方、レーナ・マリヤさんのビデオをかけてみることにしました。すると、大きな変化が起きたのです。勿論、本人は見ようとしないのですが、レーナ・マリヤさんの証しや賛美が耳に入りました。ビデオが終わった後、四日ぶりに、聡子さんが顔を見せてくれました。そして、自分から色々と、質問を始めたのです。質問をするということは、マインド・コントロールが解けてきていることのしるしで、自分で考え始めているという意味ですが、次の日の夕方、「エホバの証人をやめる」と言ってくださったのです。久住ご夫妻は、救出カウンセリングが始まる1年半以上も前から、別居しており、カウンセリングが失敗に終わったら、確実に離婚して家庭が崩壊するというシナリオになっていたのですが、聡子さんのマインド・コントロールが解けた後、ご主人との関係が修復して、まるで新婚夫婦のような感じでした。久住ご夫妻には、3人の小さな男のお子さんがいます。話し合いをしていた部屋に、お子さんたちの写真が飾ってありました。その写真を見るたびに、何とか、子供たちのためにも、カウンセリングを成功させなければならないという責任感、大きな重荷を感じましたが、主の恵みによって家族がもう一度、一つになれたのです。真理には力があります。
ですから、私たちの語るメッセージが、聖書の真理に基づいているかどうか、常に細心の注意を払うべきです。真理でない言葉を語って、人々を喜ばせても、あるいは人々を集めることができたとしても、それは決して真の救いや成長にはつながりません。真理でない言葉によって、立派な霊的家を建てても、それは砂を土台としているものなので、やがては崩壊します。聖書の真理に基づいていない伝道方法や牧会も同じです。25年前から、日本各地の教会から異端セミナーの依頼を受けて、御用をさせていただくことになりました。色々な牧師の方と交わって、また、沢山の教会を見させていただいて、自分の中で少しずつ、あることがとても気になりだしました。それは、一部の教会に、カルト的な体質が見られるということです。具体的に言うと、牧師が絶対的な権威をもって、またマインド・コントロール的な手法によって信者たちを支配しているという問題です。私は長年、エホバの証人などと接して、また彼らの出版物を読んで、マインド・コントロールの仕組みやテクニックを熟知しているつもりです。まず、神の権威を主張する指導者がいます。その人は神の代弁者、あるいは神の油注がれた器とされているので、そのリーダーの言うことを聞いていれば、神のみこころにかなった生き方ができて、神の祝福に預かることができるというのです。しかし、その人に逆らえば、それは神に逆らうことになるので、不従順な人は必ず、神に裁かれるということになります。こうした脅しに屈して、神の器に依存するようになった信者は、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする力が低下していきます。やがて、リモコンで操作されるロボットのような存在になるのです。ここに、マインド・コントロールの最大の悲劇があります。人間としての成長が止まってしまうことです。私は、このような巧妙な手を使って、自信のない現代人を奴隷にするのは、エホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会だけだと思っていました。しかし、驚いたことに、マインド・コントロールを使う牧師たちもいたのです。
先日、30代と思われるあるクリスチャン男性から電話がかかってきました。その方は、健全なプロテスタント教会に属していましたが、同じ職場に別の教会に通っている人がいて、その人に誘われて、その人の教会の礼拝に一度、出てみたそうです。すると、礼拝後すぐに、牧師にこう言われたというのです。
「あなたは、聖霊に導かれて、この教会に来ました。ですから、今後も続けて、この教会の礼拝に出れば神に守られますが、来るのを止めてしまえば、あなたの身の安全は保障できません。来なくなった人がよく死ぬのです。」
電話をかけてくださった男性は、不安そうに「本当に、そういうことがあるのでしょうか」と尋ねてきたのです。私はその偽牧師に対する憤りが込み上げてきました。また、これもつい最近、聞いた別の教会の話ですが、このように公言している牧師がいるそうです。
「私は何人もの死人を、祈りによって生き返らせました。そのしるしが、私が神から特別に油を注がれた器であることの証拠です。私の言うことを聞いていれば、あなたも神の祝福に預かるでしょう。」
こう主張してはばからない牧師の教会に、多数の在日中国人がいるそうです。彼らはビザが切れていますが、牧師の命令によって日本に不法滞在を続けています。その目的は、日本で働いて、献金を牧師に捧げるためだということです。昨日、聖神中央教会の話をしましたが、牧師が10代の女の子数十人に性的虐待を加えたという前代未聞のスキャンダルは、永田保の権威主義にその原因があります。彼は教会の中で、神の偉大な指導者として崇められて、その言うことは絶対でした。ですから、女の子たちも、何を求められても、「ノー」とは言えなかったのです。このような話は山ほどあります。だからこそ、日本のマスコミも教会のカルト化問題に注目し始めた訳ですが、牧師たちは一体なぜ、権威主義に走ってしまうのでしょうか。
一つの大きな理由は、効果が抜群だからです。自信のない現代人は、権威をもって指示してくれる人を求めています。「自分で考える必要はない。私の言うことを聞いていれば良い」という人が現れれば、喜んでついて行きます。「奉仕をしなさい」と言えば奉仕をします。「早天祈祷会に出なさい」と言えば、出ます。「伝道しなさい」と言えば、伝道します。「献金しなさい」と言えば、献金をするのです。それが正しいことだと納得して、喜んで教会に仕えているのであればいいのですが、喜んでいるように見えて、実は単なる演技であり、神の器に認められるように、無理をしているだけなのです。また、言うまでもなく、何も考えずに、指示どおりに動いているだけですから、そこには何の成長もないのです。しかし、勘違いをしている牧師は、立派な信徒が育っていると思っています。自分の牧会が成功していると考えています。また、「素晴らしい牧師だ」と、外部から評価されることもよくありますが、教職者の務めは、何も考えない奴隷を作ることではありません。霊的に自立した大人の養成です。もう一度、エペソ書4章13節を見てください。「おとな」とは、人に頼らずに、自分で考えて、自分で判断して、自分で決断を下せる人です。人に言われなくても、自ら進んで行動できる人です。また、自分でやったことに対して、最後まで責任が持てる人です。教職者は、このような自立した大人の養成に力を注ぐべきです。言うまでもなく、このような弟子作りには、大変な時間とエネルギーと忍耐が必要です。また、一度に、沢山の弟子を養成できる訳ではありません。そこで、私たち人間は、「もっと簡単な、効率の良い方法はないだろうか」と模索するようになります。聖書の真理ではなく、効率アップが優先されます。ここに、セカンド・チャンスの問題と、教会のカルト化問題との共通点があります。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語る。より多くの人を集めて、動かすことができるから、牧会にマインド・コントロール的な手法を取り入れる。非常に危険なことです。真理への愛を失うと、惑わしの力が働くようになるからです。

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(2テサロニケ2:9-11)。

牧師は、成功や名誉や実績を追求するあまり、真理を追究しなくなるようなことがあってはなりません。先生方もよく分かっておられることだと思いますが、これは、牧師にとっては大きな誘惑です。牧師も傷ついています。そのために、セルフ・イメージも悪くなっています。できることなら、大きな教会を作って、立派な会堂を建て、成功した牧師として認められたいのです。余談になりますが、500人以上の教会を作った牧師たちのエリート・クラブがあるという噂を聞いています。入会している人には申し訳ありませんが、そのことにどれほどの意味があるのだろうかと思ってしまいます。一生、その仲間入りが果たせそうにないという悔みからそう言っている訳ではありません。この世的な基準の設定に反発をしているのです。大勢のファンを集めることに成功した人よりも、地道に弟子作りに励んでいる無名の牧師のほうが立派だと思います。
何年か前の話になりますが、日本のキリスト教会でかなり期待されていた有名な伝道者と親しく交わりをしていました。彼の教会に招かれて、メッセージや異端セミナーもさせてもらいました。ある日のこと、彼との会話の中で、私が協力牧師をしている教会のことを聞かれました。開拓何年なのか、礼拝出席者数は何人なのかなどと質問されたので、何も考えずに、正直に答えました。
「開拓が始まってから、10年経っています。今のところ、30人くらい、集まっています。」
すると、「早く、100人教会にしなさい」と言われました。勿論、私を激励するために言ってくださった言葉だと思いますが、それをどう理解したら良いか、戸惑いました。100人教会になれば、それは嬉しいことですが、私は教会の成長は、聖霊のみわざだと信じていたので、「100人教会にする」というのは、とても傲慢な言葉に感じられるようになりました。有能な牧師は、何が何でも、とにかく努力をして、100人教会を作る。強いリーダシップを発揮して、信者たちを引っ張っていく。そこで初めて、一人前の牧師として認められる。もしかしたら、一部の牧師たちの間で、これが常識とされているのではないかと思うようになったのです。ちなみに、その伝道者は数年後に、女性スキャンダルを起こして、ほとんど、名前を耳にすることがなくなりました。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』」(マルコ10:42-45)。

ここに、聖書的な指導者の姿が描かれています。イエス様の足跡に従う指導者は、人々を支配しません。人々の上に権力をふるったりもしません。しもべとなって、人々に仕えるのです。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてそうするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:2-4)。

ここにも、「その割り当てられている人たちを支配するのではなく」と書かれています。これはつまり、自立したクリスチャンの養成に関する勧めです。牧会者は、奴隷を作るように言われているのではありません。むしろ、そのような楽な牧会を避けるように戒められているのです。今あえて、「楽な牧会」という言葉を使わせていただきましたが、考えてみれば、独裁者のように命令を出して、人を動かすということは、ある意味では簡単なことです。人々に動機づけを与え、納得させて、自ら喜んで行動するように指導することのほうが、はるかに難しいと言えるのではないでしょうか。そのために、まず、指導者が自ら、模範とならなければならないからですが、これこそ、主から与えられたチャレンジです。「むしろ群れの模範となりなさい」と3節の後半に書かれている通りです。
6年前に、『教会がカルト化するとき』の著書を出した時に、「牧師の霊的権威はどうなるのか」と、多くの方から聞かれました。「指導者に従いなさいと聖書に書いてあるでしょ」と言われることもありました。確かに、今読んだ個所の次の5節にも、「長老たちに従いなさい」とあります。ですから、私は「牧師に従うな」と語っている訳ではなく、霊的権威の乱用について警鐘を鳴らしているだけです。
私がカウンセリングをした、ある姉妹の話です。その女性は、独裁者のように振る舞っている牧師の行動に対して、何度か声を上げようとしましたが、その後、教会の公の文書の中で、名指しで「サタンの手先」と書かれてしまったそうです。また、講壇から、こんなメッセージが語られているということです。
「例え牧師が間違っていても、教会員は従わなくてはいけない。神は、教会員にその責めを負わせない。負うのは牧師だから。神は牧師にビジョンを与え、信徒を導くよう、その器を選んだのだから。牧師が間違っていて、信徒が正しい、ということもある。しかし、神は、信徒ではなく、その牧師を器として選んだのだから、神が結果的に『牧師が正しい』という結果をくださる。」
このような屁理屈によって、沈黙させられている羊が沢山いると思いますが、それにしても、霊的権威を乱用して、羊を痛めつけているにせ牧師たちにとっては、非常に都合の良い考え方です。また、言うまでもなく、これは聖書の曲解です。確かに、聖書は指導者に従うように、私たちに教えています。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下すなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書が教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。そうです。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならないということになってしまうのではないでしょうか。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずはありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、沢山の聖句にはっきりと書かれているからです。結局、私たちは偽物と本物とを見分けられるようにならなければならないのです。
ペテロのみことばに戻りますが、私はこの3節に、聖書的牧会の原点があると思っています。独裁者となる誘惑を振り切って、しもべに徹することです。しかし、牧会に伴う傷が多くなればなるほど、疲れやストレスが溜まれば溜まるほど、世的な知恵が身に付けば付くほど、私たちは権威を振るいたくなります。
「牧師の言うことが聞けないのか。」
「私は、あなたがた一般信徒よりも、聖書がよく分かっているのだから、くだらない質問をしたり、疑問を抱いたりしないで、素直に私の考えに従えばいい。」
「牧師の言うことを聞かない人は、聖霊に背いている。分派の霊に取りつかれている。」というような言葉を言いたくなります。また、一旦、絶対的な権力の味を占めてしまうと、また王様扱いを経験すると、なかなか、やめられなくなります。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルに入り、2列に並び、永田はその真ん中を通りますが、その時、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、大袈裟な話ではありません。神の権威を主張する人は、その権威を認める人々に対して、驚くほどの影響力を持つようになります。神の代弁者とされている訳ですから、その言うことは絶対です。どんなことを言っても、返って来る返事は、「はい」です。どんな要求をしても、「ノー」と言う人はいません。極端な話のように聞こえるかも知れませんが、「新しい車が欲しい」と言えば、何日もしないうちに、新しい高級車が家に届けられるのです。ペテロは、このような異常事態が発生する可能性があるということを知っていました。だからこそ、2節で、「卑しい利得を求める心からではなく」と牧会者に注意を与えています。このような誘惑に打ち勝つためには、どうしたら良いのでしょうか。「私は主と共にいる者だ。私はキリストにある者だ」という信仰の原点、聖書的アイデンティティーに立ち返ることです。第3セッションの復習になりますが、キリストの十字架のゆえに、完全に神に受け入れられて、義と認められている恵み、主と共に歩んでいれば、主が私たちの手のわざを祝福してくださり、みこころにかなったことをなしてくださるという恵み、人の評価がどうであろうと、主が私たちの奉仕を喜んでくださり、それに報いてくださるという恵みに立つことです。

「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:4)。

20世紀の初め頃の話ですが、ある有名な伝道者がニューヨークから舟に乗って、ヨーロッパに行きました。そして、ヨーロッパの各都市で伝道集会を行なったのですが、その一つ一つが素晴らしく祝福されて、多くの人々が救われました。いよいよ、集会のスケジュールを終えて、アメリカに帰ることになりましたが、舟の中で、伝道者は考えました。「ニューヨークのクリスチャンたちはヨーロッパの集会のうわさを聞いているだろうから、きっと港まで迎えに来てくれているだろう。」 港に着くと、大勢の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちもいました。皆、手を振ったり、大きな声で叫んだりしています。伝道者は思っていた以上の出迎えに、感動しました。しかし、次第に、この人々が自分を迎えに来たのではないということに気が付きました。たまたま、アフリカの狩猟旅行から帰る、ルーズベルト元大統領が同じ舟に乗っていたのです。がっかりした伝道者は、電車に乗り換えました。そして、電車の中で、彼は思いました。「教会の人たちはきっと、駅まで迎えに来てくれているだろう。そうだ。みんな、駅で待っているに違いない。」駅に着いてみると、やはり、沢山の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちも並んでいました。ところが、分からなかったのは伝道者ばかりで、また大統領が同じ電車に乗っていて、同じ駅で降りることになっていたのです。そうです。人々はルーズベルト元大統領を迎えに来ていたのです。伝道者は一人で、自分の家に向かって、歩き始めました。重い荷物を持って、既に暗くなっていた町の中を歩きながら、彼は祈りました。「神様、これは不公平ではありませんか。人々は狩猟旅行から帰った大統領のために大勢で迎えに来るのに、主の御用のためにヨーロッパまで行って来た私を迎える人は一人もいません。故郷に帰っても、何の出迎えもないのは、寂しすぎるのではありませんか。」 こうして泣きながら祈っていると、聖霊の声が、彼の心に響きました。「我が子よ、あなたはまだ、自分の故郷に帰ってはいない。」そうです。私たちはまだ、故郷に帰っていません。私たちの故郷は、天国です。この世にあっては、私たちを迎えに来てくれる人はいないかも知れません。私たちの労は報われないかも知れません。しかし、それは天に帰るまでの話です。天の故郷に帰ったら、私たちは主からのねぎらいの言葉をかけていただけるでしょう。豊かな報いがいただけるでしょう。
 「愛をもって真理を語り」とエペソ書に書かれています。ここに、日本の福音宣教の希望があると私は信じています。真理の伝達と、真理の実践です。セカンド・チャンスは伝道に使えそうな教えに聞こえるかも知れません。素晴らしい教えだと、多くの人々に歓迎されるかも知れません。しかし、聖書に基づいた真理ではないので、セカンド・チャンスを語ったところで、日本に真のリバイバルが起こるはずはありません。聖霊は、真理の御霊です。真理が語られる時にだけ、働いてくださるのです。また、教会に権威主義的な体質を作ったほうが、教会員もまとまるし、みんな奉仕熱心になるし、多く捧げるようになるし、大きな働きができるという考え方がありますが、沢山の人を動かすこと、あるいは大きな働きをすることが必ずしも、主の栄光を現すとは限りません。主のみこころは、信徒が健全なみことばによって養われ、自立した霊的おとなに成長することなのです。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 最近、自分のアイデンティティーのことで悩むことがあります。「あなたはハーフですか」と、何度も人から聞かれることがあります。また、不思議なことに、真顔で「日本人ですか」と質問してくる人もいるのです。アメリカに帰る時には、「東洋人っぽい顔だね」と言われたりします。32年も日本に住んで、ずっと日本語で生活をしていれば、多少、顔も変わるのでしょうか。実は、最初に来日した時、私はそのように望んでいました。いかに日本人のようになり、日本人のように日本語を話し、日本人に受け入れてもらえるか、そのことばかりを考えていました。しかし、今、「あなたは日本人ですか」と聞かれると、びっくりすると同時に、戸惑いを感じます。「私は何人なのだろうか。アメリカの国籍を持っているのに、日本人になってしまっても良いのだろうか」と悩んだりしますが、いつも、慰めになる聖句があります。

「私はすべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」というパウロの言葉です(1コリント9・22)。

私の出した結論は、主から与えられた才能を生かし、人々に仕え、神のみこころを行なうことができれば、何人であっても良いのではないか、ということです。神と共に歩む限り、胸を張って、また自信を持って、堂々と生きていけます。モーセが主の召命を受けた時に、「私はいったい何者なのでしょうか」と主に尋ねています。主の答えは、「わたしはあなたとともにいる」です。「私は主と共にいる者だ。」これが私のアイデンティティーです。
アイデンティティーの話と、セカンド・チャンスの話は関係がないと思われるかも知れませんが、実は、深い関係があるように私は感じています。セカンド・チャンス論が浮上して、また広がっている一つの理由は、日本人のアイデンティティーの危機にあるのではないかと思うのです。28年間、カルトの問題とかかわってきた中で、私は多くの若者と接したり、カウンセリングをしたりしています。色々なケースがありましたが、ほとんどの人に共通している問題が存在しています。自信がない、自分のアイデンティティーが分からない、これといった信念がない、自立していない、ということです。現代人の主だった特徴は、自信の無さだと思います。自信がないからこそ、カルトに引っ掛かってしまうのです。彼らは、精神的な安定、心の平安を求めて、カルトに入信します。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。その理由については、様々な説が唱えられています。まず、情報社会が受け身の人間を作っていると言われます。また、詰め込み教育が考えない人間、自分で考えようとしない人間を生み出してきたとも言われています。さらに、生活が便利になるに連れて、面倒臭いことには手を出したくない、なるべく楽をしようという若者が増えていると聞きます。こうしたことを考えますと、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるでしょう。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には、彼らは非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
しばらく前に、とても奇妙な話を聞きました。ある宗教団体に属する若者が、グループの指導者と共に、長野県に行ったそうです。そして、「せっかく信州に来たのだから、おいしいソバでも食べよう」と指導者が誘うと、若者は黙って、一緒にある店に入ったのですが、その若者は、実は、おソバに対するアレルギーがあったのです。さて、その青年はどうしたのでしょうか。おソバを食べて、救急車で病院に運ばれることになってしまった、というのです。「神の人の誘いだから、断ってはいけない」と、若者は考えたそうです。そして、その「命懸けの従順」が教団の中で美談になっています。
このように、自分で考えることも、判断することもできない、若者が実に多いのです。自分のアイデンティティーなどなく、教祖のリモコンで操作されるロボットのような存在になっているのです。勿論、これはカルトだけではなく、日本社会のあらゆる所、つまり家庭においても、学校においても、職場においても見られる現象です。自分の個性を抹消し、自分をグループに合わせ、グループの権威に従うように圧力がかかります。個人の問題、個人の気持ち、個人の希望などは二の次です。グループの利益やグループの和が最優先されます。そして、グループの方針に従わない者は、切り捨てられるのです。これは言い過ぎになるかも知れませんが、日本という国そのものが、一つの巨大なカルトになってしまっていると感じることさえあります。自分を否定して、グループのために多大な犠牲を払っている人々は、それなりにグループからの評価を得たり、報酬も与えられたり、あるいは生き甲斐を感じたりします。しかし、色々な方とカウンセリングをしていると、彼らは本当に幸せなのだろうかと考えてしまいます。会社の利益のためにあくせく働くサラリーマンがいます。子供がまだ起きないうちに家を出て、早朝の満員電車で会社に通う。納得がいかなくても、何も言わずに、上司の命令に従わなければならない。残業させられても、文句が言えない。休暇が取れるはずなのに、皆の顔色を見て、遠慮する。最終電車で家に帰って、子供の寝顔を見てから布団に入る。このような生活では、健全で幸福な夫婦関係も、親子関係も、築けるはずがありません。しかし、会社のためだから、仕方がないということで片付けられてしまいます。皆さん、個人の犠牲がどんなに大きくなっても、グループの利益や拡大が優先されるというのは、これはまさにカルト的体質です。今現在、日本人の大多数は、この体質に疑問を感じながらも、仕方のないこととして受け入れています。しかし、この体質に反抗している人々の数も増えています。日本のひきこもり人口がどれくらいになっているか、ご存知でしょうか。ひきこもりは120万人もいると推定されています。彼らは自分の部屋に閉じこもって、何ヶ月も、あるいは何年も出て来ません。テレビを見たり、マンガを読んだり、ビデオ・ゲームで遊んだりして、時間を過ごします。親が食事を作って、ドアの前に置きます。あるいは、食費を与えて、好きなものを出前で頼んでもらったりしますが、顔を合わせることがほとんどありません。ひきこもりの原因として、幾つかのことが考えられます。学校でいじめられたこと、親との共依存的な関係の中でアダルト・チルドレンにされてしまったことなどですが、かなりのケースに共通している問題は、自分の個性を否定して、自分をグループに合わせることができなかったということです。自分らしく生きようとしたけれども、村八分にされてしまった。傷つけられてしまった。だから、自分の個性を無くして、グループのためにひたすら犠牲を払う人生は嫌だと思って、また、自分でない自分を演技することがもうコリゴリだと言って、自分の世界を作ってしまう訳ですが、日本の社会の在り方に対する、彼らなりの抵抗だと言えるのではないでしょうか。「私という一人の人間を見てください。私のアイデンティティーを認めてください」と、彼らは叫んでいるのですが、学校や保険所は全くと言って良いほど、彼らの叫びに耳を傾けません。訪問することもしません。
聖書教育が進んでいる国では、人の個性が尊重されます。人が個人として自立した人間になることが、教育の目標とされます。そして、それが民主主義、あるいは資本主義の基本であると言われているのです。今、激変する世界で生き残る企業は、従業員をロボットのように動かしている企業ではなく、独創的な発想ができる人間を養育している企業です。人間はそれぞれ、ユニークな者として、神に造られています。人と違って、当たり前です。顔も、声も、才能も、考え方も皆、違います。ですから、人間としてのアイデンティティーというのは、神から与えられた賜物を発見して、それを神のために、また人のために活かす時に確立されます。アイデンティティーは、神と共にいる私です。しかし、日本の社会では、アイデンティティーは、グループと共にいる私です。あるいは、グループの中に埋もれて、見えなくなった私です。グループのために自分を完全に否定した私です。前置きがとても長くなってしまいましたが、アイデンティティーの問題と、セカンド・チャンスの問題との関連について、考えてみたいと思います。日本人は幾つかのグループに所属することによって、アイデンティティーを見出そうとしますが、その一つは、日本という国家です。日本人という国民の一人として、生きています。このグループの中で、自分がどうあるべきかという責任を持つと同時に、ある種の安心感、または誇りを持っています。この国民的プライドに、セカンド・チャンスが広がった要因があるのではないかと思うのです。つまり、セカンド・チャンスを支持することによって、「私たちの先祖はクリスチャンではなかったけれども、立派な生き方をしていたから、きっとハデスの慰めの場所で福音を聞き、やがて救われるはずだ」という論理が成り立ちます。一方、セカンド・チャンスがないとした場合、キリストを信じなかった先祖たちは滅びたということになるので、日本人としてのプライドに傷が付くのです。もっと具体的にお話ししましょう。これは、日本人の過去の偶像崇拝の歴史を罪として認めるか、認めないかという問題なのです。ローマ人への手紙1章18-25節を読みましょう。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

このまま、日本という国に当てはまる聖句ではないかと思います。日本はこれまで、造り主なる神に背き、偶像を崇拝し、神の怒りを買ってきました。そして今も、悔い改めないこの国の上に、神の怒りが臨んでいるのです。このことを事実として受け止めるかどうかによって、今後の福音宣教に大きな影響が出ると考えます。勿論、私は別に、日本人を責めている訳ではありません。私も一人のアメリカ人として、自分の国の罪を恥じています。奴隷問題、ベトナム戦争やイラク戦争での虐殺や数々の悲劇があります。私の所属する教団の八ヶ岳中央高原キリスト教会の信者さんで、広島の被爆者の方がいます。森本さんとおっしゃる姉妹で、3年前に、初めて森本さんの体験談を聞きました。私は2度ほど、広島の原爆の資料館を訪ねているので、知識として原爆の恐ろしさを知っているつもりでしたが、実際に被曝された方の話を聞いて、大きな衝撃を受けました。原爆が投下された時、森本さんは中学生で、爆心地からわずか3キロしか離れていない学校の教室で、掃除をしていたそうです。たまたま、しゃがんで雑巾で床を拭いていて、教壇の大きな机の後ろにいたために無事でしたが、原爆が投下された瞬間は、教室が紫色の光に包まれて、目の前でフラッシュをたかれたように感じて、数分間、目が見えなくなったそうです。他のクラスメートは教室の窓ガラスの破片を全身に受けて、血だらけになっていたそうです。また、校庭に出ると、皮膚が焼け爛れている人がいたり、死体の山があったりしたそうです。森本さんは結局、奇跡的に外傷はなかったのですが、放射能を浴びていたので、2ヶ月間、下痢と歯茎の出血で、寝たきり状態になりました。更に、その数年後に健康診断を受けると、子宮や卵巣などが全く発達しておらず、子供が産めない体になっていることが判明しました。しばらく後で結婚されますが、御主人も被爆者で、長野県の原村でペンションを経営することになります。ところが、原村に引っ越してまだ間もない時に、御主人が末期の腎臓ガンであることが分かります。御主人は数ヵ月後に亡くなりましたが、森本さんはその時、心の底から「なぜ、こんなに不幸なことばかりが続くのか」と思われました。しかし、幼い時からクリスチャンとしての信仰を持っておられる彼女は、やがて、「何か、神の目的があるはずだ」と信じられるようになりました。結局、私たちの教団の代表が原村で開拓伝道を始めて、やがて、会堂を建設することになった時に、森本さんは教会員となり、会堂の建設をするにあたって、大きく貢献してくださり、やがて、「原村に導かれたのは、このことのためだった」と確信するようになったということです。
森本さんの証を聞いた後、一アメリカ人として、お詫びをしなければならないと思って、その旨を伝えました。すると、森本さんはすぐに、こう言ってくださったのです。
「いやいや、良いですよ。私はアメリカ人を恨んでいません。神の御手の中で守られて、感謝な日々を送っています。」
私はこの言葉に、深い感動を覚えました。また、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」という、イエス様の十字架上のみことばを思わずにはいられませんでした。私は小さい頃から、耳にタコができるくらい、「原爆は、戦争を終わらせるために必要なものだった」と、何度も聞かされました。実は、第二次世界大戦の時に、私の父が海軍に入っていて、日本本土に侵入するはずの部隊にいました。結局、原爆が落とされて、戦争が終わったから、日本の地を踏まずに、そのままアメリカに帰ったのです。ですから、原爆がなかったら、私は今、ここにいないと言えるかも知れませんが、私は長いこと、父から聞いた論理をそのまま信じていました。「原爆を落とすしかなかった。それで何百万人もの命が救われたんだ。」しかし、森本さんに出会ってからは、アメリカの罪の重さを認識するようになったのです。正直なところ、私は今、自分がアメリカ人であるということに誇りを持っていませんが、特に、そのことを大きな問題として捕えていません。私のアイデンティティー、あるいはセルフ・イメージに何の影響もありません。なぜなら、私のアイデンティティーは、神と共にいるという事実に基づいているからです。別の言い方をするなら、私はキリストにある者です。アメリカ人であるからではなく、キリストにある者だから、胸を張って生きていけるのです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。

クリスチャンは、罪に定められることはありません。神の義となる、あるいは、神から義と認められます。素晴らしい行いをしたからではありません。キリストにある者だからです。キリストにある者は、罪が赦されています。キリストにある者は、神の豊かな恵みと祝福に預かることもできます。キリストにある立場は、特別なのです。そのことを分かりやすく表している話が、第2サムエル記9章にあります。メフィボシェテは、ダビデの命を狙おうとしたサウル王の孫に当たります。ですから、本来なら、ダビデの敵です。また、サウル王の子孫なので、ダビデの王位を脅かす存在にもなり得ます。しかし、ダビデはメフィボシェテに対して、恵みを施しました。なぜでしょうか。メフィボシェテの父、ヨナタンのためです(1、7節)。ヨナタンはダビデの親友でした。ダビデはヨナタンのことを愛し、尊敬し、その勇気ある生き方を高く評価しました。ですから、王になっても、ヨナタンに王国の重要なポストを任せようと考えていたのですが、ヨナタンはピリシテ人との戦いで、殺されました。しかし、それでもダビデはヨナタンのために、何かしてあげたいと思って、その息子メフィボシェテを宮殿に呼び、彼に恵みを施した訳です。メフィボシェテは、一生涯、王の食卓で食事をすることが許されました。彼は、足が不自由で、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいます。皆さん、死んだ犬には、どれくらいの価値があるのでしょうか。何年か前のことですが、ある日、信号待ちをしていると、電柱に張ってある、一枚のポスターが目につきました。『犬を探しています』と書いてありました。一見、どこにでもあるような感じのポスターでしたが、よく見ると、なんと、飼い主が犬を見付けてくれた人に十万円の賞金を出す、というのです。「よほど犬を愛している人だなー。きっと高価な犬だったんだろうなー」と思いながら、犬に関する細かい説明を読んでいきましたが、驚いたことに、「老犬」、「耳が聞こえない」と書いてあったのです。そのポスターを見た時、私は色々なことを考えさせられました。冷静に考えれば、耳も聞こえず、何の役にも立たない老犬のために、十万円もかけるなどということは、非常識なことです。しかし、飼い主は、犬を愛しています。たとえ、年を取っていようが、耳が聞こえなくなっていようが、そのいなくなった犬を見付けるためには、お金を惜しまないのです。メフィボシェテは、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいますから、老犬よりも、更に評価額が下がります。メフィボシェテは、ダビデのために、何ができるのでしょうか。何もできません。普通に考えると、彼はダビデからの恩恵を受ける資格はないのです。しかし、それにもかかわらず、メフィボシェテは、ダビデの恩恵に預かりました。素晴らしい特権を与えられました。一体、なぜでしょうか。ヨナタンとの親子関係にあったからです。他に、何の理由もないのです。すべて、ヨナタンの人格の良さ、ヨナタンの立派な行い、ヨナタンの勇敢な生き方、ヨナタンがダビデに示した親切のお陰です。ヨナタンの実績なのです。
私たちクリスチャンは、神の豊かな恵みをいただきます。その資格がないのに、堂々と、恵みの御座に近づくこともできるし、王の食卓に付くこともできます。どうしてですか。私たちが何か、良いことをしたからでしょうか。いいえ、キリストにある者だからです。父なる神は、キリストの十字架の功績のゆえに、あふれるばかりの恵みを注いでくださるのです。私たちは今、キリストにあって、全く100パーセント赦されて、受け入れられて、愛されています。この恵みの福音にしっかりと立つ時に、言葉では言い表せない平安を経験します。健全なセルフ・イメージを持つようになります。神の愛の中で守られながら、神の力によって、神と共に、積極的に生きていけるようになるのです。
こうして、クリスチャンは神との個人的な関係の中で自分のアイデンティティーを確立させる訳ですが、グループに所属することによってアイデンティティーを見出そうとする者は、本当の平安を味わうことは決してありません。それは、自分に対するグループの評価がいつ変わるか、分からないからです。グループから求められる厳しい条件を満たすことができなくなる恐れがあるからです。「グループに迷惑をかけないように」、「グループの和を乱さないように」、「グループに嫌われないように」といつも気を使いながら、緊張の中で生活しています。少しでも、グループから批判されると、あるいはグループが外部の人に問題を指摘されて、否定されたりすると、不安になるのです。ここで、誤解されないように、一言、説明を加えさせていただきますが、私は別に、何かのグループに所属することを否定している訳ではありません。人間社会で生きていくうえで、どうしても、色々なコミュニティーのメンバーとして責任を果たさなければならないのですが、私がここで問題にしているのは、どこにアデンティティーを見出すかということです。どの関係の中で、生きる意義を見出すかということです。「私はまず、第一に、日本人です。」「私はまず、会社の人間です。」このように考えるなら、私たちは必然的に、そのグループの計画や利益を優先していかなければならないということになります。神が何を望まれるかではなく、グループが何を望むかを考えるようになります。いかに私のユニークな才能をフルに用いられるかではなく、いかに自分をグループに合わせられるかということが重要課題になります。また、場合によって、グループを擁護するために、真理に目をつぶらなければならないという問題も出て来るのです。セカンド・チャンス論が持ち上がって、人気を集めているのは、「日本人のプライドを守らなければならない」という思いが強いからではないでしょうか。久保氏は、『聖書的セカンドチャンス論』の中で、盛んに、欧米の人々の「個人主義」に言及しています。強い個人主義に生きる欧米人は、「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」というメッセージを聞いて、何のためらいもなく信仰の決心をする。しかし、日本人は自分さえ救われれば良いとは考えることができず、自分の亡くなった先祖はどうなるのかということが気になる。それだからこそ、日本人をクリスチャンにするためには、「セカンド・チャンス」を説くことが必要であると言います。こうして、久保氏は欧米社会の個人主義を批判し、「日本人には優しい心がある」と言って、日本国民の弁明をしたり、優秀性を訴えたりする訳です。私はここで、その点を論じるつもりもないし、欧米社会を擁護するつもりも全くありません。問題にしたいのは、聖書の真理です。久保氏は、日本人としてのアイデンティティーを重要視するあまり、聖書の真理を曲げ、聖書の中に、セカンド・チャンスを裏付ける個所がないのに、無理な解釈をして、「聖書的セカンド・チャンス論」を掲げていることに対して、口を閉ざす訳にはいきません。
私は、30年余りの働きの中で、何度も、このパターンを見てきました。その一つの実例をお話しします。15年ほど前から、JEAの社会委員会の委員となっております。社会委員会は、靖国神社の問題などの社会問題を取り上げると同時に、カルト問題にも取り組みますが、5年ほど前に、静岡県のある教会で、信徒が牧師から暴力を受けているという情報を入手しました。その後、直接、被害者たちとも会って、事実であることを確認しました。私は以前から、教会のカルト化問題に注目していましたが、社会委員会の中で、教会内の権威主義やセクハラや暴力の問題について、JEAから声明文を出して、警鐘を鳴らすべきではないかということになりました。私が書いた声明文はまず、社会委員会の承認を得てから、理事会に回されました。「牧師は独裁者ではない。群れに仕える者だ。お互いにそのことを確認して、悔い改めよう」というような内容の声明文でしたが、意外にも、理事会で、却下されてしまいました。その2年後に、今度は京都にある聖神中央教会の問題が明るみに出ました。これは、皆さんの記憶にもまだ新しいと思いますが、永田保という牧師が、10代の女の子に性的虐待をした疑いで、逮捕された事件です。余談になりますが、どのように逮捕されるようになったかと言うと、一人の被害者の母親が私の著書『教会がカルト化するとき』を読まれ、勝手に振る舞う独裁的な牧師の言いなりになることはないと考えて、勇気を出して、警察に被害届を出し、結局、それがきっかけとなって永田牧師の逮捕に至った訳です。永田牧師が逮捕された直後から、私たちのところには、日本のマスコミからの問い合わせが殺到しました。「日本のキリスト教会は、この問題をどう捉えていますか。対応策はどうなっていますか」と何度も聞かれました。そこで、再び、社会委員会から声明文を出すことになりました。今、手を打たないと、日本のキリスト教会はますます、世の人々の前で恥をさらすことになると警告しましたが、再度、理事会で却下されることになってしまいました。その理事会に出席していた社会委員会の委員長の説明によると、「理事の中にも権威主義的な牧師が多過ぎたために、却下されてしまった」のだそうです。確かに、権威主義を批判する声明文を出すと、自分の立場が危うくなると心配した先生がおられたのでしょう。しかし、理由はそれだけではないはずです。臭いものに蓋をして、JEAの名誉を守りたいという思いも働いていたのではないでしょうか。このことに対して、私が深い失望感と共に、憤りを感じたのは、いうまでもありません。ニュースレターの中で、声明文が実現に至らなかったことを記事にしたところ、こう言うと語弊があるかも知れませんが、後から当時の会長に呼び出され、お説教をされました。「日本人でもないのに、日本のキリスト教会を批判するとは」といった内容のことを言われたのです。その時、私は「先生、カルト問題について、何かご存知ですか」と聞いてみたのですが、「あなたの本を持ってはいるけど、まだ読んでいない。『悪魔の顔を見たら、悪魔のようになる』と諺にあるから、カルト問題にはかかわりたくないんだ。」という答えが返ってきました。
もう一度、言わせていただきます。私たちがキリストにあるアイデンティティーを確立させる時に、絶対的な平安を持ちます。また、人にどう思われようと、神の前で正しいことを実行する力が与えられます。しかし、自分の所属するグループにアイデンティティーを見出そうとすると、どうしてもそのグループの利益や都合が優先され、真理や真実がないがしろにされてしまうのです。今年に入ってから、また、幾つもの教会や牧師の問題が一般の雑誌に掲載されました。もう一度、JEAの社会委員会から声明文を出そうということになりました。正直なところ、私は余り期待していません。残念なことですが、日本のキリスト教会は、自浄作用がなくなってきていると言わざるを得ません。社会の悪を糾弾するという預言者の役目が果たせなくなっています。「まーまー、あまり波風が立たないようにしよう。あたたかく見守ってあげよう。赦してあげよう」という対応しかできないのです。
私は、カルトとの戦いで疲れを覚えた時など、よくエレミヤ書を開きます。ご承知のように、エレミヤは25年間、神から導かれた通り、ユダの民の罪を指摘して、悔い改めを促しましたが、エレミヤのメッセージを受け入れて、神に立ち返った人は、一人もいませんでした。エレミヤは民から拒絶されただけでなく、激しい迫害も受けました。牢屋に入れられたりもしました。しかし、エレミヤは何をされても、主から与えられたメッセージを最後まで、忠実に語り続けました。どうして、そのことができたのでしょうか。彼のパワーの源は何だったのでしょうか。
「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』そこで、私は言った。

『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。』すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ』」(1章4-8節)。

「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。」ここにエレミヤの信仰生活の秘訣がありました。主が共におられるのであれば、人からどう思われようと、何をされようと、そんなことは問題ではありません。「受け入れられても、受け入れられなくても、理解されても、されなくても、主のみことばを語ろう。」彼はこの決意に立って、委ねられた任命を全うしたのです。
私はエレミヤのようになりたいと望んでいます。うるさがられることがあっても、「日本の教会を混乱させている」と批判されるとしても、「日本独特の事情が分かっていない」と言われたとしても、妥協せずに、真理のみことばを語り続けるつもりです。
聖神中央教会の問題が報道されて、1ヶ月もたたないうちに、東京のお茶の水クリスチャン・センターで、教会のカルト化問題セミナーの講師として招かれました。集まった50人ほどの牧師や信徒に向かって、力の限り、教会の問題点を指摘しました。かなり、力が入っていたと思います。終わった後、一人の知り合いの牧師が寄って来て、こんなことを耳元で囁きました。「この頃、『ヒットラーに似ている』って言われることない?」ちなみに、その当時、私は口ひげをはやしていましたが、それにしてもショックでした。「イエス様のような顔に見えた」と言われたら嬉しいことですが、「ヒットラーに似ている」と言われて平気ではいられません。落ち込んでしまいます。もしかしたら、カルト問題に関わってきて、いやがうえにも厳しい顔つきになっていたのかも分かりません。しかし、後で思いました。「カルト化した宗教団体の人々や聖書を曲解する人間の目から見て、ヒットラーと同じくらい、恐れられる存在になったとしても良い」とさえ思う、ある種開き直った気持ちもあります。てやろうじゃないか。」私は人気コンテストで優勝するために、献身したのではありません。主のみこころを行なうために生きています。皆さんも、きっとそうだと思います。私とはまた別の戦いをされている方もいると思います。牧師として、感謝されることも、評価されることも、報われることもなかなかないかも知れませんが、妥協することなく、この世に迎合することなく、真理のみことばをまっすぐに説き明かしていきましょう。使徒パウロがテモテに言い残した言葉を思い出します。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
あと何年、この働きができるか分かりませんが、最後の時には、パウロと同じみことばを告白しながら、この世を去りたいと思っています。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 私は、カルト問題に取り組むようになって、今年で28年になります。最初のきっかけは、エホバの証人の訪問です。一人のエホバの証人が私に伝道するために、訪ねて来たのです。エホバの証人と直接、話をするのは初めてでしたが、ヨハネの福音書三章三節の聖句を引用しながら、「あなたは新しく生まれた経験がありますか」と質問してみました。相手は新米の伝道者だったようで、当惑した様子で、「調べてきます」という言葉を残して帰っていきました。玄関での10分ほどの立ち話でしたが、婦人は次の週、ベテランの伝道者を連れて、再び我が家を訪れました。明らかに、前回とは雰囲気が違います。初めから話の主導権をしっかりと握って、中年のエホバの証人は朗々とものみの塔の教理について語り続けます。こちらから何を質問をしても、自信をもって組織の出版物から答えます。新米の伝道者はと言うと、黙って隣で話を聞いているだけです。ところが、途中で、若い婦人も、ベテランが話をしている間、小さな声で何かを言っています。最初は聞き取れませんでしたが、よく耳を澄ますと、なんとベテランの伝道者と同時に、同じ言葉を発しているのです。この奇妙な経験を通して、私は一つのことに気付き始めました。つまり、エホバの証人は聖書を用いながら、神との個人的な関係を築いておらず、完全に組織にコントロールされている人々であるということです。またその時、「可哀想だ」という気持ちになったと同時に、「どうしても、この人たちに本当の福音を伝えなければならない」という聖霊の迫りを感じたのです。同じ時期に、東京都内で、モルモン教の宣教師との出会いもありました。「私たちもクリスチャンです」とにこやかに話す彼らの言葉に耳を傾けてみることにしました。ところが、そこで聞かされたのは、「ジョセフ・スミスによる教会の回復」、「神殿での永遠の結婚式や死人のための身代わりバプテスマ」、「人間も神になれる」という奇妙な教理。「これがキリスト教として日本で紹介されたら、えらいことになる」と思いました。危機感を抱きつつ、日本人に正しい情報を提供できるように、アメリカから百冊以上の本を取り寄せて、本格的な異端研究を開始しました。そのうちに、自分の研究したことを本にまとめてはどうだろうか、と考え始めました。1983年の夏、『エホバの証人とキリストの証人』が出版されて、国内のキリスト教書店で販売されることになります。本が発売されて、数カ月たつと、「あなたの本を読んで、エホバの証人をやめました」という連絡が定期的に入るようになりました。「異端セミナーをやってください」という教会からの依頼もありました。また、「相談に乗ってほしい」という家族からも、手紙や電話が来ました。段々とカルト問題のために多くの時間を費やすようになった中で、やがて、一つの決断を迫られました。このまま牧師を続けるか、いよいよフルタイムでカルト問題に取り組むべきか。6カ月間、祈った結果、自分が異端の中で苦しんでいる魂の救いのために日本に召されたという結論にたどり着きました。そこで、1988年の4月に、真理のみことば伝道協会を発足しました。その後、更に何冊かの本を書いたり、ロシアやインドや中国などでセミナーを開いたり、多くのエホバの証人の救出カウンセリングを行ったりして、本当に主の驚くべきみわざを拝見させていただきました。また少しずつ、カルトの脱会者のフォローアップの重要性を認識するようになったのです。1998年頃から、『カルト研究リハビリ・センター』のビジョンを掲げました。カルトから救われた方々を受け入れて、リハビリ・カウンセリングをするための施設です。多くの方々の祈りと支援によって、2001年の12月にセンターができました。言うまでもなく、主にエホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会の元信者が利用されると思っていましたが、蓋を開けてみたら、カルト化したキリスト教会の中で傷ついたクリスチャンからの相談が圧倒的に多くなったのです。教会のカルト化問題は、私たちが数年前から感じていたことで、2002年の暮れに『教会がカルト化するとき』という本を出しましたが、正直なところ、こんなに深刻な問題だとは予測していませんでした。幸いなことに、傷ついた方々が少しずつ、元気を取り戻しています。その癒しのプロセスを早めるために、去年の2月に、『健全な信仰、カルト化した信仰』という本をいのちのことば社から出版していただきました。一部の牧師たちから、「日本の教会を混乱させている」と批判されたこともありますが、この問題が明らかにされて、教会が清められることは、日本のリバイバルのためには不可欠なステップだと信じています。
 さて、この第2の講義の中で、「セカンド・チャンス論と正統的教理との整合性」というテーマが与えられています。具体的に、正統的教理とセカンド・チャンス論は噛み合うのかどうか、歴史上に現れてきた異端と違うものなのかどうかということを、一緒に検証していきたいと思いますが、エホバの証人の出版物である『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の中に、次のような個所があります。
「例えば、過去幾世紀もの間に、字の読めない人々や、聖書を見たこともない人々が多数死んでいます。その人々はシェオル、またはハデスからよみがえらされます。それからパラダイスの地で神のご意志を教えられ、神のご意志を行なうことによって神を本当に愛することを証明する機会を持つのです。」
エホバの証人も、セカンド・チャンスを支持しています。また、モルモン教の『信仰箇条の研究』という本には、こう書かれています。
「刑罰の期間については、それが罪の如何によって程度が違うものであるとはっきり言うことができ、また悪事に対するあらゆる刑の宣告が無限に永いという考えは誤っているとはっきり言える。来世に及ぼすこの世の行為の結果はまことに大きなものであり、また悔い改めの機会を失った責任は必ず負わねばならぬのであるが、神は墓を越えて死後までも罪を赦す力を保有したもう。」
末日聖徒イエス・キリスト教会にも、セカンド・チャンスの支持者がいました。勿論、エホバの証人の教理やモルモンの教理の中にセカンド・チャンス論的な考えがあるからと言って、必ずしも、間違っているとか、聖書から逸脱しているということになる訳ではありません。あくまでも、セカンド・チャンス論を聖書と比較することが肝心です。先程から、セカンド・チャンスの聖書的根拠が極めて薄いということをお話ししていますが、はっきりとセカンド・チャンスを否定する聖句はあるのでしょうか。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハネ3:16-18)。

この聖句の中の「信じなかった」という表現は決定的です。それは、既にキリストを信じないと決めてしまった、だから今も信じていない、そしてこれからも信じないという意味です。「すでにさばかれている」も決定的です。それも、既に裁きが決められてしまっているということを意味しています。「私には救い主など必要ない」、「私はキリストを信じない」と決めている人間は、生きている間から既に裁かれることが決定されており、やがてその裁きが執行されるのです。ですから、裁きが決定されるのは、最後の審判においてではありません。人が生きている間に、キリストを信じない、あるいは求めないと決心した時に、その人の永遠の運命が決定されるのです。『聖書的セカンドチャンス論』の中で、久保氏は、最後の審判に関して、別の考えを述べています。
「裁判というものは、有罪か無罪かを決定するためのものであり、無罪になることもあるのです。世の終わりに開かれる神の『最後の審判』の法廷もそうです」(66頁)。
確かに、この世の法廷において、無罪判決が出ることがあります。何も悪いことをしていないのに、無実の罪を着せられることがあるのですが、天の法廷においては、「あなたは無罪です。あなたは何も悪いことをしていません」と言われることはあり得ません。なぜなら、「すべての人は罪を犯した」と聖書に明記されているからです。勿論、イエス様を信じる者は、主の贖いのゆえに罪が赦され、罪の刑罰も免除されます。だからこそ、「さばきに会うことがない」と書かれているのです。つまり、信仰によって義と認められた者は、天の法廷に出頭する必要などないのです。
一つの実例で説明してみましょう。私が車で高速道路を走っている時にスピードを出し過ぎて、パトカーに止められたとしましょう。200キロも出ていたので、10万円の罰金チケットを切られてしまいます。私はその罰金チケットを持って、警察署に出向きます。「では、10万円の罰金を払ってください」と言われます。しかし、私にはそんな大金はありません。「では、刑務所に入ってもらうしかないから、その服役の期間を決めるために、法廷が開かれます」と言われるのです。「困ったな~」と思っていると、知り合いの牧師がやって来て、「私があなたの代りにその罰金を払ってあげましょう」と言ってくれたとしましょう。その場合、知り合いの一方的な好意によって、罰を受けずに済むということになる訳ですが、知り合いの行為を拒んだ場合、どうなるのでしょうか。法廷に出頭せざるを得なくなります。そして、必ず、刑罰を言い渡されるのです。悪いことをしている訳ですから、間違いなく、有罪判決を受けるのです。
これと同じように、人類は一人の例外もなく、神の律法を破っています。もう既に、神の前で有罪なのです。しかし、自分の罪を認めて、キリストが私の罪の代価を支払ってくださったということを信じるなら、罪の刑罰が帳消しにされて、裁きに会う必要がなくなります。ですから、黙示録の20章に登場する人々は、天の法廷に出ること自体が、彼らに希望がないことを証明しています。彼らは、キリストにある救いを求めなかった訳ですから、自分の行いに応じて裁かれることになり、間違いなく、極刑を受けるのです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3:36)。

人が御子を信じるのはいつでしょうか。勿論、生きている間です。御子に聞き従わないのは、いつのことでしょうか。勿論、人が地上で生きている間のことです。その人は「いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」のです。では、人が救われるのは、いつのことでしょうか。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々」という、この表現も決定的です。その人は生きている間に、死ぬ前に主を受け入れ、また信じたのです。ここで、「人の意欲によってでもなく」という言葉にご注目ください。この言葉は、人がハデスに行った後に、救いを経験することも、救われたいという願望を持つことも不可能であるということを示しています。つまり、新生の体験、あるいは救いの体験は、聖霊のみわざであって、聖霊の助けがなければ、人の救いはあり得ません。では、どうでしょうか。聖霊なる神が今、ハデスにご臨在されて、キリストを信じなかった人々のうちに働いておられる、というふうに考えられるのでしょうか。意見が分かれる問題だと思いますが、私は違和感を覚えます。それは、聖書が地上における聖霊のみわざについて詳細に述べていても、ハデスでの働きに関しては、全く沈黙しているからです。聖書が沈黙していることに対して、希望を持ったり、期待を抱いたりすることは、極めて危険なことだと私は考えます。人が救われる、救われないは、生きている間に決定されます。

「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:29)。

この聖句が語っている「善を行なった」、また「悪を行なった」とは何を意味しているのでしょうか。5章23-24節を見てください。
「それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
すなわち、イエス様のみことばを聞いて、御子を遣わされた父なる神を信じることが、御父と御子を敬うことであり、それが善です。また、御父を信じないことが、御父と御子を敬わないことであり、それが悪なのです。

「イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです』」(6章29節)。

同じことの繰り返しになりますが、主イエス様を信じることが神のみわざを行なうことであり、それが善であり、その善を行なった者はよみがえって命を受けます。一方、信じないことが悪であり、その悪を行なった者は「よみがえってさばきを受ける」と主は宣言されました。主は昇天される前に、弟子たちに大宣教命令を託されました。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』」(マルコ16:15-16)。

「信じない者」とは、生きている間に信じない者のことです。「罪に定められる」とは、有罪判決を受けることであり、信じないことが罪なのです。つまり、信じなかった罪のために裁かれるのです。
セカンド・チャンスの問題を検証する時に、もう一つ、注意深く見ておかなければならない聖句があります。ルカの福音書16章にある「ラザロと金持の話」です(19-31節)。キリストの復活の前は、ハデスは慰めの場所と苦しみの場所に分かれていたようです。神を信じる者は慰めの場所に入り、信じない者は苦しみの所に入った訳ですが、主が甦られた後、旧約聖書の聖徒たちは主と共に、天に昇って行きました。そして今は、クリスチャンは地上の生涯を終えた時に、すぐに主のもとに、つまり天の御国に入るのですが、このルカの福音書のみことばは、ハデスにいる人々の状態を明らかにしています。まず、彼らは苦しんでいます。次に、彼らは少しでも、その苦しみから解放されることを願っていますが、その願いが叶えられることはありません。よく見ていただきたいのですが、金持の嘆願もアブラハムによって退けられています。3番目に、ハデスにいる魂は、後悔することがあっても、罪を悔い改めることはありません。金持ちは、「あわれんでください」と叫んでいますが、「私は大変な罪を犯しました。赦してください」とは言っていないのです。彼は聖霊の働いておられる領域から出てしまっているので、悔い改めることができないのです。久保氏は、ハデスの苦しみは、人を悔い改めさせるための懲らしめ的苦しみだと言っています。つまり、「金持ちはハデスで心が砕かれ、悔い改めた。だからこそ、自分のことを考えずに、兄弟たちのために執り成しをしている。その無私な愛のゆえに、キリストに覚えられ、救われたはずだ」ということですが、私はこの解釈に首を傾げずにはいられません。彼の罪の告白は、どこにあるのでしょうか。もし、金持が本当に砕かれて悔い改めたのであれば、アブラハムが彼の悔い改めに全く応答していないのは、なぜでしょうか。更に、『聖書にみる死後の世界』の中で、久保氏は、ラザロについて、次のように解説しています。
「慰めの場所に行ったラザロは、特に旧約の聖徒と呼ばれるほどの人物ではありませんでした。ラザロはむしろ単に、不幸な境遇にありながらも善良に生きた、という人物なのです」(61頁)。
これは極めて、重要な発言です。ラザロは不幸な境遇の中にあったけれども、善良に生きたから、慰めの場所に入った、というのです。また、「彼のような人物は、今の時代にも大勢います」と書いています。つまり、クリスチャンではなかったから天国には行けませんが、神の御前に善良な生活をしようと努力した彼らは、ハデスの慰めの場所にいる、ということです。そのグループの中には、例えば、マハトマ・ガンジーなどのような偉大な人物が入っているそうです。ローマ書のみことばを受け入れることができないのでしょうか。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない」(3章10―11節)。

みことばは、はっきりと述べています。神の目から見て、善良な人間はいません。どんなに立派に見える人であっても、救われなければならない罪人なのです。これが、福音の原点なのです。これを否定すれば、もはや正統的なキリスト教ではありません。
先日、アフガニスタンでNGO活動に参加していた伊藤和也さんという31歳の青年がタリバンの手によって誘拐されて、殺害されてしまいました。アフガニスタンの復興のために自分をささげていた伊藤さんが殺されたというニュースを聞いて、私はショックを受けると同時に、タリバンに対する深い憤りを覚えました。どうして、あんな立派な青年が殺されなければならないのかと思いましたが、伊藤さんは、農業の支援をすると共に、イスラム教の神学校の建設をも手伝っていたようですから、クリスチャンではなかったでしょう。そこで、もし、久保氏に対して、「彼は死んだ後、どうなるんですか」と聞いたら、間違いないなく、このような答えが返ってくるでしょう。「勿論、ハデスで慰めを受けて、福音を聞き、やがて天国に入るでしょう。善良な青年だったからです。」恐らく、日本人の99.999%はこの答えに納得すると思います。「当然だ」と言うでしょう。しかし、これが聖書的な答えなのでしょうか。確かに、私たちの目から見れば、伊藤さんは立派な青年でしたけれども、聖書は「義人はいない。善を行なう人はいない。神からの栄誉を受ける人はいない」と述べているのです。また、聖書は、「立派な人が救われる」と言っているのではなく、「イエス・キリストを信じる者が救われる」と書いてあるのです。もし、善良な人が救われるのであれば、私たちは善良な人間になるように努力しなければなりません。「信じる者が救われる」というメッセージを捨てるべきです。しかし、ヨハネの福音書3章16-18節にあるみことばをそのまま受け入れて、その福音に堅く立つのであれば、「善良な人も神に顧みられるはずだ」という正反対の発想を否定しなければならないのです。「罪人を救ってくださるイエス様」と、「善良な人を省みてくださるイエス様」を混同してはならないのです。
久保氏の著書の中に、更に気になる個所があります。少し長いのですが、読ませていただきます。
「キリストの十字架が私たち人間の罪の贖いのためであった、と信じるだけでは、まだ回心ではありません。サタンや悪霊たちさえも、そのことを知って、認めているのです。回心とは、単に神の存在や、キリストが救い主であると認めること以上のものです。それは、神と共に歩み始めることなのです。信仰とは、神を愛し、御子キリストを愛することです。また自分の救いについてキリストに全面的に信頼し、彼に従うことです。そうすれば救われる――それが福音なのです。信仰の本質は、神の御教えと心を一つにすることにあります。回心の本質は、神とキリストに従うことにあります。回心とは、神の御前に忠実な者となることです。この点で『よみ』の人々は、福音を聞いて回心するかどうかを問われた時、心の純粋性が極めて厳しく試されたことでしょう。たとえば、『よみの苦しみから逃れるために信じる』とか、『最後の審判が怖いから、それから逃れるために信じる』というような気持ちで信仰を表明したとしても、それは回心とは認められないのです。彼らは、神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われたことでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われたことでしょう」(124-125頁)。
この言葉によると、救いは、厳しいテストに合格した者にだけ与えられるようです。純粋であるかどうか、忠実であるかどうか、従順であるかどうかが厳しく問われるというのです。皆さん、ここではっきりと申し上げましょう。これは福音の曲解です。忠実云々というのは、救われた後の課題であって、救われるための条件ではないのです。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:1-3)。

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」とあります。一つ、皆さんにお尋ねしたいと思います。死人に何か、できることがありますか。ここに、どなたかの亡骸があったとしましょう。声をかけても、反応がありません。「この重い荷物を運ぶのを手伝ってくれ」と頼んでも、手を貸してくれません。死んでいるからです。では、どうでしょう。私たち人間が霊的に死んでいるとすれば、その死んだ状態で神に従うことができますか。神のみこころを行なうことができますか。まず、神の命によって生かされなければなりません。それが救われるということなのです。救いに預かって、心が新しく造り変えられるなら、神を愛することも、神に従うことも、忠実に仕えることもできるようになるのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(8-10節)。

ここにあるように、救いは信じる者に与えられる賜物です。私には3人の子供がいます。3人とも、もう、成人していますが、小さい頃、海外の奉仕から帰って来た時など、プレゼントをしたことがあります。そのプレゼントを、鞄から出した時の子供の反応を、今でもはっきり覚えています。子供は何も遠慮せずに、「ありがとう」と言って、手を伸ばし、プレゼントを受け取るのです。しかし、もし、子供が緊張した顔をして、「お父さん、ずっと良い子でした。宿題も頑張ったし、お母さんの言うことも全部聞いたし、お手伝いもしました。だから、お父さんのプレゼントをもらう資格があると思うのですが、どうでしょうか」と言ったら、どうでしょう。「一体、どうしたんだろう」と考え込むと思います。とても心配になると思います。賜物は、人の一方的な好意によるものです。人が誰かにプレゼントをする時に、純粋かどうか、忠実かどうか、あるいは、従順な態度かどうかなどということを厳しくチェックしたりしません。感謝して受取ってもらえれば、それで良いのです。
久保氏の説く福音は、恵みの福音ではありません。非常に厳しい、戒律主義です。どうしようもない罪人が救われる福音ではありません。立派な者、忠実な者、テストに合格した者が救われる福音なのです。ちなみに、エホバの証人の福音もそうです。最後の最後まで忠実さを保って、自分が神の国にふさわしい者であることを証明すれば、神の楽園に入れてもらえるというものです。ですから、救いの確信を持っているエホバの証人はいません。どれくらい忠実であれば合格点がもらえるのか、どれだけ従順であれば神に認められるのか、分からないのです。彼らは常に、不安と緊張の中で生きています。久保氏の福音を信じる者も同じです。
しばらく前のことですが、福島県に住む、ある主婦から電話がかかってきました。その主婦は7年間ものみの塔とかかわっているけれども、途中から疲れてきたと話しました。初めの5年位、彼女は模範的なエホバの証人になろうと努力しました。ところが、頑張れば頑張るほど、自分が罪深い、滅んでも当然な者であるということがはっきりと分かってきたのです。神は遠い存在となり、自分は出口のないトンネルに入り込んでいるような感じがした、ということです。そこで、彼女は「聖書の本当のメッセージとは何なのだろうか」と、真剣に考え始めて、近くのキリスト教書店に行き、30冊もの本を買ったそうです。その中の一冊が、私の本でした。一番最後に私の本を読んだようですが、読んでいくうちにすべての疑問が解けて、エホバの証人から脱退する決心をすることができたそうです。私に電話をくださったのは、救われるためにどうしたら良いのかということを聞くためでした。私はすぐに手元の聖書を開いて、エペソ書2章8-9節を読みました。この聖句にあるとおり、救いは神の無償の賜物であり、私たちはただ信仰によって受け取れば良いということ、また、救われるに値する者になろうと努力するのではなく、ありのままの姿で神の胸に飛び込んでいけばいいのだ、ということを説明しました。すると、相手の女性は貴重な宝石を発見したかのように、本当に喜んでくれました。最後に、「イエス・キリストを信じ受け入れます。」と言って、電話を切ったのですが、その直後に洗礼を受けて、早速、エホバの証人に対する伝道を開始して、10人以上の人を導いたそうです。
恵みの福音に立っている者は、自分が救われたこと、神の子供とされたこと、永遠の命を持っていること、死んだのち神の国に入れることに対して、絶対的な確信が持てます。その確信はどこから来るのでしょうか。自分の行いがしっかりしているから確信を持っているのでしょうか。一生懸命に、忠実に神に従っているから、大丈夫だと思っているのでしょうか。いいえ、違います。「イエス・キリストは十字架の上で、私の罪の代価を完全に支払ってくださった。だから、私は救われて、神の永遠の愛の中で、守られている」という信仰です。自分の行いではなく、キリストの十字架の功績に信頼しているのです。救いは信仰によるのであって、行いによるのではないとエペソ書に書かれています。勿論、行いによるのではないからといって、行いの重要性を軽視してはなりません。行ないも大切です。しかし、それは、救いを得るための手段として大切なのではなく、救われた証として重要なのです。救われた者は、救われた結果として、必ず、良い行ないに歩むようになります。主を愛し、主に従い、忠実に主に仕えるようになるのです。
久保氏は、ハデスで福音を聞かされた人々は、「神の御前に忠実な者となる決意をしているかどうかが、厳しく問われることでしょう。また神を愛し従っていく心でいるかどうかが、厳しく問われることでしょう」と言っていますが、このように、救いのハードルを高くしているのには、それなりの理由があります。つまり、さんざん、ハデスで苦しい思いをした人が、「イエス・キリストを信じれば天国に行けますよ」と言われれば、当然、全員、信じるに決まっているのではないかという疑問が生まれるでしょう。聖書には、滅びる人もいると明白に書かれているのですから、久保氏は、「すべての人は救われる」とメッセージを語る訳にはいかなくなります。それで、「信じるだけで救われる」という教えを否定して、救われるための条件を難しくするしかない、ということになる訳です。
 では、最後に、セカンド・チャンス論はカルトであると、断言できるかどうかについて考えてみましょう。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端を密に持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています」(2ペテロ2:1)。

異端」という言葉は、ギリシヤ語では、「ハイレシス」(“Heresy”)と言いますが、新約聖書の中で9回ほど使われています。そして、「分派」とか、「一派」とか、「宗派」と訳されることが多いのですが、この聖句で異端のおもだった特徴を見ることができます。まず、異端はにせ教師による福音の曲解です。福音の基本的なメッセージが変えられてしまうのです。その一つの具体例として、ガラテヤの異端を挙げることができると思います。にせ教師たちによって、律法主義的な福音が誕生しました。「キリストを信じるだけでは救われない。律法の行いも必要だ」という教えです。次に、異端は主を否定します。具体的に言うと、キリストの神性を否定するとか、十字架の完全性を否定することです。エホバの証人は、イエス・キリストはエホバによって最初に造られた御使いであると教えています。主の神たることを否定しているので、異端です。異端の3番目の特徴は、滅びをもたらすことです。これらの特徴を踏まえたうえで、私は異端を次のように定義づけています。
「自分達こそが真のキリスト教会であると主張していながら、イエス・キリストを否定するか、救いにかかわる聖書の最も基本的な教えを曲解するグループです。」
では、「セカンド・チャンス」はどうでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。まず、これを支持すると、「セカンド・チャンス」の教えによって、キリストを信じる決心を後回しにして、結局、生きている間にイエス様を信じない人々が出て来るということになります。「セカンド・チャンス」というのは、「死後でも間に合う」というメッセージになります。そうです。最終的に行き着くところは、「今、イエス・キリストを救い主として受け入れなくても、滅びることが決定する訳ではない」ということです。こうして、「セカンド・チャンス」は、人々を信仰の決心から遠ざけてしまう恐れがあります。「後でも間に合うなら、今はクリスチャンにならないで、この世での生活を楽しもう」と考える人間が、必ず、出て来るでしょう。そして、「セカンド・チャンス」が実際になかったとしたら、この教理は人々を滅びに追いやるものとなってしまうのです。
もう一つ、救われるための条件が変えられているということ、信じるだけでは不十分であるということになります。忠実さ、純粋さ、従順も求められています。これは、聖書的福音の曲解です。
『セカンド・チャンスは本当にあるのか』の原稿を書かせていただいた時、はっきりと、「セカンド・チャンスは異端である」という言葉を入れました。しかし、編集の段階で、いのちのことば社のハサミによって、そこがカットされてしまいました。「セカンド・チャンスの支持者を刺激しすぎると、読んでもらえなくなる」という方針のもとで行われたことですが、時々、「それで良かったのかな」と考えたりします。ですから、今ここに、いのちのことば社の方もいらっしゃらないようですので、断言したいと思います。今述べた二つの点から、セカンド・チャンスは異端だと、私は判断しています。その判断を受け入れるかどうかは、皆さんの自由です。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 初めに、アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー集中講座の講師として、私のような者をお招きくださり、心から感謝いたします。与えられたテーマは、「セカンド・チャンスを検証する:未信者の死後の救いはあるのか」ということですが、ご承知のように、これはかなり前から、日本のキリスト教会の中で議論されてきた問題です。私がこの議論に引き込まれたのは、2006年の1月です。出所不明の小包が我が家に届きました。実は、それ以前にも差出人の名前も住所も書かれていない郵便物を受け取ることはしばしばありました。「おまえとおまえの家族を殺す」という脅迫状だったり、「『異端だ』、『カルトだ』と人を裁くあなたは何様だ。悔い改めよ」という内容のものであったりすることが多いので、今度は何だろうと思いつつ、小包を開けてみました。すると、本が1冊だけ入っていました。久保有政氏が書かれた『聖書的セカンド・チャンス論』という本でした。未だに、どなたが、どのような意図で送ってくださったか、分かりません。私は以前、久保氏が発行しておられる『レムナント』誌の記事を読んで、その教理のことを知ってはいましたが、詳しい内容の本を見るのは初めてでした。正直なところ、挑戦状を叩きつけられたような思いがしました。この本を読み終えた後、この教えにかける久保氏の並々ならぬ執念を痛烈に感じました。何とか、一人でも多くの日本人をキリストへ導こうとする熱意も伝わってきました。しかし、それと同時に、「セカンド・チャンス」の聖書的根拠への大きな疑問を抱かずにはいられませんでした。その数ヵ月後、私の所属する「ニューライフ・ミニストリーズ」の役員会で、その懸念を打ち明けました。すると、役員の一人である中川健一先生が、「セカンド・チャンスに反論する本を書きなさい」と言われました。その時、内心、「また、日本の牧師たちに嫌われるようなことはしたくない」と思いました。2003年に『教会がカルト化する』という本を出して、相当、恨まれるようになりました。また、セカンド・チャンスを支持する牧師がかなりおられるということを知っていたし、その中に私が20年前から親しくさせていただいている有名な牧師もいました。ですから、「ノータッチ」という立場を貫きたかったのですが、中川先生に「本を書きなさい」と言われたら、なかなか断る訳にはいきません。「先生、本が売れなかったら、どう責任を取ってくれるのですか」と聞いたら、「その時、またチャンスを上げます」と言われました。この本が出来上がるまでには、1年以上をかけて、その間3回も原稿を書き直すように、いのちのことば社の編集者から要求されました。途中で、完全に行き詰って、その作業を投げ出すこともありました。「もう、どうでも良い」と思ったのです。しかし、ある朝、祈っていると、聖霊が知恵を与えてくださいました。そこで、9か月ぶりにワープロの前に座って、原稿を書き上げることができたのです。
本論に入る前に、申し上げておきたいのですが、私は「セカンド・チャンス」という言葉が好きなのです。私自身、今までの歩みの中で、神の恵みによって何度もセカンド・チャンスが与えられています。30年以上も前の話になりますが、私が新米の宣教師として、大阪の豊中にある開拓教会で奉仕をしたことがあります。奉仕と言っても、片言の日本語しか話せなかったために、できることがとても限られていましたが、日本語でメッセージをする日がやって来るのを夢見ながら、芦屋にある日本語学校で、日本語の勉強に励んでいました。6か月ほどたった時点で、多少の自信がついたので、水曜日の祈り会で、初の説教にチャレンジすることにしました。自分としてはまずまず、よくできたほうではないかと思いました。ところが、集会の直後に、宣教団体の責任者の事務所に呼び出されて、次のような厳しいことを言われたのです。「聞くに耐えない、ひどい日本語だった。今後は、必ず、英語で話をして、誰かに日本語の通訳をしてもらいなさい。」私にとっては、たった一つのビジョンをぶち壊される、実にショッキングな言葉でした。しばらく、英語でメッセージをする屈辱的な日々が続きました。しかし、そんなある日、埼玉県で開拓伝道をしていた宣教師から、電話がかかって来ました。「一緒に働かないか」という誘いでした。「先生の教会には、英語を日本語に通訳できる方はいますか」と尋ねると、彼は「ノー」と答えました。「じゃ、行きます」と即答しました。その時以来、誰にも止められることなく、今日に至るまで日本語で聖書のメッセージを語り続けています。これはまさに、神の恵みによって与えられたセカンド・チャンスだったのです。
誰でも、人生の中で、このような経験をすると思います。しかし、未信者も死んだ後、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。生きている間に、イエス様を救い主として信じなくても、ハデスで悔い改める機会があるのでしょうか。その答えを知るためには、私たちは聖書を注意深く検証する必要があります。
 今日の第一セッションの中で、まず、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な聖句を、ご一緒に見ていきたいと思います。時間の関係で、3か所に絞らせていただきます。それでは、初めに、ペテロの第一の手紙3章18-20節を開いてみましょう。
 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。」
ご承知のように、この聖句に関して、幾つもの解釈が主張されます。一つは、「ノア宣教説」と呼ばれるもので、キリストが聖霊によって、かつてのノアの宣教の中におられ、ノアを通して、ノアの時代の人々に宣教をされたという解釈です。この解釈では、キリストがハデスに下られたことが否定されます。次に、「断罪説」という解釈があります。キリストはハデスにいる魂に福音を伝えたのではなく、ただ、断罪の言葉を述べられたに過ぎない、ということになります。この説を支持する人々の中には、「捕らわれの霊たち」を堕落した御使いたちと取る人もいます。3番目の解釈として、「勝利宣言説」があります。これによると、「捕らわれの霊たち」は、旧約聖書の聖徒たちのことであって、彼らは十字架による勝利の宣言を聞いてから、ハデスから解放されて、キリストと共に天に帰ったということです。最後の解釈は、「セカンド・チャンス説」です。つまり、ノアの時代の人々に福音が語られて、彼らに回心のチャンスが与えられたとする解釈です。
マルチン・ルッターは、「ペテロがここで何を言わんとしているか、さっぱり分からない」とつぶやいたそうですが、確かに難解な個所です。私自身の考えについて、後で述べることにして、まず、ここに「セカンド・チャンス」を支持するものがあるかどうか、注意深く見ていきましょう。「捕らわれの霊たち」とあります。この言葉は、誰のことを指しているのでしょうか。20節には、「ノアの時代に・・・・従わなかった霊たち」と書かれています。ギリシャ語の「プニューマ」は、人間の霊に対しても、また御使いに対しても用いられますが、一つのグループとして、「霊」とか、「霊たち」、あるいは「霊ども」という表現は通常、悪霊を指しています(マタイ8・16、12・28、マルコ1・27、3・11、1テモテ4・1)。この「捕らわれの霊たち」が悪霊を指しているということは、2ペテロ2章5節を見ても、明らかです。
「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」
また、5節を見てください。
「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」
暗闇の穴の中に閉じ込められた御使いたちは、ノアの時代に神に逆らった「捕らわれの霊たち」なのです。4節の「地獄」は、「タルタールス」と言って、新約聖書のここにしか出てこない言葉ですが、ギリシヤ神話では、ハデスよりも下にある所と考えられていました。よく確認していただきたいのですが、ペテロは3章19節で、「ハデス」という言葉を使っていません。「捕らわれの霊たちのところ」と言っています。ですから、セカンド・チャンス説の釈義上の最初の問題は、無理矢理に、これを「ハデス」と読ませていることです。「ハデス」とは書かれていません。ユダも、その手紙の6節で、タルタールスに閉じ込められた御使いたちに言及しています。
「また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。」
「永遠の束縛」という言葉に注目していただきたいと思います。「捕らわれの霊たち」と同じグループであることをご理解いただけるかと思います。また、7節に、ソドムとゴモラのことが書かれているので、この御使いたちが自分のおるべき所を捨てたのは、その前のノアの時代のことだと考えても差し支えないでしょう。創世記の記述も、この御使いたちについて言及していると思われます。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」(6章1-4節)。
ここも、神学者の意見が分かれる所ですが、まず、「神の子ら」はセツの系列で、「人の娘たち」はカインの系列だとする説があります。セツの子孫は主を恐れ、主と共に歩んでいましたが、不敬虔なカインの子孫と結ばれることによって、堕落してしまったということです。非常に分かりやすい解説ですが、ペテロとユダが語っている言葉の説明にはなりません。つまり、御使いたちが人類の堕落とどう関わっていたか、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」とは何を意味するのかということです。そこで、もう一つの解説として、「神の子ら」は御使いを指しており、「人の娘たち」は地上にいるすべての女性を指しているという解説が出てきました。つまり、御使いは人間と性交渉を持ったということになります。これを主張する聖書学者の中に、ケネス・ウィーストがいます。彼は、「神の子ら」は言語学的には天使的な存在以外の意味をなすということはあり得ないとしています。その根拠として、彼はヨブ記(38・7)やペテロの手紙の聖句を挙げています。勿論、この解釈に問題がない訳ではありません。一つは、御使いはどのように人間と性交渉が持てるのか、ということです。これは確かに、大きな謎ですが、ノアの時代に、御使いの許される行動範囲が今よりも広かったということが言えるかも知れません。いずれにしても、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」という言葉から分かるように、普段はあり得ないような、不自然なことが行われたということになるのではないでしょうか。
では、再び、ペテロの第一の手紙に戻りましょう。次に、「捕らわれの霊たち」に伝えられたメッセージの内容ですが、「みことばを語られた」とあるだけです。これはギリシヤ語の「ケーリュソー」が使われており、単に「告げ知らせる」という意味です。ちなみに、「喜びのおとずれを伝える」という場合は、「ユーアンゲリゾー」が用いられます。久保氏は、その著書(『聖書にみる死後の世界』)の中で、「『ケーリュソー』は、新約聖書に約50回出てきますが、いずれの場合も『福音を宣べ伝える』の意味で使われています」と述べています(113ページ)。しかし、実際には、そうではありません(使徒15・21、ローマ2・21、ガラテヤ5・11)。キリストは捕らわれの霊たちにみことばを語られました。残念ながら、そのメッセージの内容は不明ですが、仮に「十字架による贖いが成し遂げられた」というメッセージだとしましょう。そこで、まず疑問に思うのは、地上の誰もこの良きおとずれをまだ聞かないうちに、どうしてノアのメッセージを拒んだ人々にその特権が与えられるのか、ということです。不可解に思われませんか。もう一つの疑問は、キリストによって福音が語られていたとするなら、どうしてその結果、何が起こったかということが記されていないのか、という疑問です。つまり、福音が語られていたのなら、救いのみわざがなされたはずです。しかし、救われる魂が起こされたとは、どこにも書かれていないのです。よく、ご確認ください。久保氏は、ハデスにいる人々がたくさん救われたはずだと述べていますが、聖書はそのように述べている訳ではないのです。では、キリストは捕らわれの霊たちに一体、どんなメッセージを送られたのでしょうか。勿論、断定はできませんが、彼らに対する勝利宣言だったと考えることが最も自然ではないでしょうか。22節を見てください。
「キリストは天に上り、御使いたちも、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。」
「イエス・キリストはその十字架の死によって、サタンとその諸々の悪霊どもに完全に打ち勝ってくださった。そのことは、タルタールスにいる霊たちにも宣言されて、動かぬ事実として認められた。」ペテロが言わんとしていたのは、このことではないでしょうか。実際に、このメッセージこそ、迫害によって苦しめられているクリスチャンたちの慰めになるメッセージなのです。これがもし、「ノアの時代に、神に逆らった人々にセカンド・チャンスが与えられた」というメッセージだったら、果たして迫害に耐える力になったのでしょうか。
ここで、もう一度、セカンド・チャンスを支持する人々の主張をまとめてみましょう。「捕らわれの霊たち」とは、ノアの時代に神に逆らった人間のことである。「捕らわれの霊たちのところ」とは、ハデスのことである。「みことばを語られた」とは、福音を伝えたということで、それによって多くの人々が救われた、ということです。私に言わせていただけるなら、乱暴極まりない釈義ですが、この解釈には、まだ大きな問題が残っています。ノアの時代の人々に福音が伝えられたとしましょう。では、ノアの時代以降の人々は、どうなるのでしょうか。彼らにだけ、セカンド・チャンスが与えられるのでしょうか。この問題に対して、久保氏は、黙示録11章3-11節を引用します。しかし、この個所は、あくまでも終末の時代に活躍する二人の預言者のことを述べているだけで、ノアの時代以降の未信者はどうなるのか、という問題にはふれていません。『聖書的セカンドチャンス論』から引用させていただきます。
「彼ら二人の預言者は、三年半にわたってエルサレムで宣教しますが、やがて横暴な独裁者によって殺されてしまいます。彼らの死体は大通りにさらされるのです。だが、彼らは三日半のうちによみがえるといいます。そして彼らはそののち昇天して天国に行くのです。彼らはその死んでいる『三日半』の間、一体どこに行くのでしょうか。聖書は、それを記していません。しかし天国ではないでしょう。なぜなら、彼らはそののち昇天して天国へ行くのですから、このときは天国に行く必要はありません。彼らは死んでいる三日間の間、陰府に下るでしょう。そして、かつてキリストが陰府で死者たちに福音を語られたように、彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません。つまりそのとき、ノアの大洪水以後の陰府の死者たちに、キリストの福音が語られるでしょう。」
皆さん、一つのパターンが見えてきたように感じませんか。聖書に書かれていないことについて、断言することが多すぎるのです。「彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません」と彼は言っていますが、二人の預言者による、ハデスでの福音宣教に関して、聖書は沈黙しているのです。ですから、100歩、譲って、ノアの時代の人々に福音が語られたと仮定しても、それ以外の時代の人々に対して、聖書は何の希望も提供していない、ということになります。セカンド・チャンスが与えられているのは、ノアの時代に神に逆らった人々だけです。
久保氏の解釈に対して、私はペテロの聖句を、このように理解しています。十字架の死によって贖いを成し遂げられたイエス様は、タルタールスに下り、堕落した御使いたちに対して勝利宣言、あるいは断罪の言葉を宣べられて、霊の世界においてすべての権威が与えられたことを明らかにされました。そこで、弟子たちに対して、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」とおっしゃってから、彼らを世界宣教に遣わされたのです。
 それでは、続いて、セカンド・チャンスの根拠とされている、もう一つの聖句を見ていきましょう。
 「このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした」(1ペテロ4・1-6)。
特に、この6節が議論の争点になりますが、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」とあります。言うまでもなく、久保氏は、この「死んだ人々」と3章19節の「捕らわれの霊たち」とを結びつけて、同じグループだと主張します。ご承知のように、この聖句は、3章19節と同じように、非常に難解なみことばとされており、種々の解釈があります。ある人は、「死んだ人々」とは、罪の中で霊的に死んだ人々のことであって、彼らはキリストを信じることによって新しい命を受ける、と理解します。また、「死んだ人々」はすべての死者を意味するとし、福音を受け入れずに死んだ人々にも死後に第2の機会が与えられると主張する学者もいます。その中の一人は、ウィリアム・バークレーという著名な聖書学者です。更に、「死んだ人々」は、今、この手紙が書かれている時には死んでいる人々、あるいは今は死んでいる人々であるが、生存中には福音を伝えられた人々のことだという立場もあります。この解釈は、『詳訳聖書に』よって支持されています。
「だから良い知らせ〈福音〉が死者にさえも〔彼らがまだ生存していた時に〕宣べ伝えられたのです。それは、彼らが肉のからだにおいては、人間がさばかれるようにさばきを受けるが、霊においては、神のように生きるためなのです。」
私が使っている”The Holman Christian Standard Bible”も同じように訳しています。
”For this reason the gospel was also preached to those who are now dead, so that, although they might be judged by men in the fleshly realm, they might live by God in the spiritual realm.”
私はこれを、次のように和訳してみました。
「こういう訳で、福音は既に死んでいる人々にも、宣べ伝えられました。それは、彼らが肉の領域において、人間によって裁かれても、例の領域において、神によって生きる者となるためです。」
ペテロの言わんとすることを、とても的確に表している訳だと思います。また、ペテロの手紙のテーマとも一致しています。先ほども申し上げましたが、ペテロの手紙を受け取ったクリスチャンたちは、激しい迫害を受けていました。彼らは命がけでキリストを告白し、伝道していました。既に、殉教の死を遂げた者も多数、いたことでしょう。私たちはこのテーマをしっかりと把握したうえで、ペテロの手紙を読まなければなりません(2:19-23、3:13-14、4:12-17)。有名な個所ですが、「さばきが神の家から始まる時が来ている」(4章17節)とは、当時のクリスチャンが未信者の手によって受けたさばきを指しています。つまり、信仰を持っているがゆえに受ける迫害であり、試練です。これは、罪に対する裁きのことではありません。後で、そのみことばを見ていきますが、クリスチャンは、罪の裁きを受けることはありません。しかし、未信者から不正な裁きを受けることはあるのです。
では、どの解釈がこのテーマに、より合っているのでしょうか。言い換えるなら、ペテロは当時の信者たちを慰めるためにペンを取っている訳ですから、どの解釈が迫害下にあるクリスチャンのより大きな慰めになるのでしょうか。セカンド・チャンス論にあるように、未信者は死後も救いのチャンスがある、というメッセージによって、当時のクリスチャンは、「よし、だからしっかり信仰に立って、殺されても福音を伝えよう」というふうに力づけられたのでしょうか。それとも、信仰のために命を落とした仲間は天に召され、今、主と共におり、神の御国で豊かな報いを受けているというメッセージのほうが、大きな力になったのでしょうか。『新共同訳聖書』から、4章6節をもう一度、読みます。
「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」
 それでは、最後に、黙示録20章11-15節を見てみることにしましょう。
 「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
これも、セカンド・チャンス論を支持する聖句とされています。久保氏は、最後の裁きの法廷に、「いのちの書」が提出されていることに注目し、それがハデスの死者に救われる者のいることを示していると主張します。つまり、ハデスの死者に回心者が一人もいなければ、なぜ回心者名簿である「いのちの書」が提出されるのか、というのです。
この個所で注目してみたいことが幾つかありますが、まず、ハデスの死者に回心者がいるとは、一言も書かれていないことです。久保氏の得意なパターンがまた、ここに現われています。「いのちの書」の提出は、必ずしも、ハデスのグループから人が救われることを保証していません。彼らを納得させるために、「いのちの書」に名前が書かれていないことを見せる、ということも十分に考えられます。もう一つ、注目すべき点は、「自分の行ないに応じてさばかれた」ということが2度も強調されていることです。神の裁きは本来、行いに応じて行われるものです。
「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです」(ローマ2:6-8)。
忍耐をもって善を行ない、栄光とほまれと不滅のものを求める者は、報いとして、永遠の命を受けます。一方、真理に従わずに、不義を行なった者は、その報いとして神の怒りと憤りを受けるのです。ですから、永遠の命を受けたいと希望する者は、立派な人間になって、善行を積み上げていかなければならないということになりますが、使徒パウロは次の3章で、「義人はいない。ひとりもいない」と断言しています。
「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない』」(10-12節)。
また、イザヤ書のみことばも有名です。
「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(64:6)。
私たちの行いは、神の御前では、何の価値もない、賞味期限が過ぎた腐った食べ物のようです。ですから、行いに応じて裁かれる者は、間違いなく、不合格とされて、有罪判決を受け、火の池に投げ込まれます。裁きの時に、自分の行いを差し出して、その行いに応じて御国に入れていただけると期待する者は、必ず、神の前で幻滅させられるのです。では、誰が義と認められるのでしょうか。パウロは、3章19節からその答えを明確に述べています。
「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(19-24節)。
ここにあるように、自分の行いに頼って、神の前に立つ者は、義と認められず、神の裁きに服さなければなりません。しかし、キリストを信じる者は、キリストの贖いのゆえに、義と認められるのです。こうして、神の前には、2種類の人間が存在します。自分の行いに応じて裁かれる者と、信仰によって神の裁きを免れる者です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)。
信じる者が裁きに会わないのは、キリストが既に、彼らの身代わりとなって、罪の裁きを受けてくださったからです。ですから、行いに応じて裁かれる人々は、キリストに対する信仰のない人々なのです。信仰があれば、裁かれずにすむのです。そうです。そのことを踏まえたうえで、もう一度、黙示録の20章の聖句を見てみましょう。この人々は、行いに応じて裁かれると、2度も強調されています。彼らは自分の行いを差し出して、自分が神の国にふさわしい者であるかどうかを証明するチャンスが与えられますが、その結果は明らかです。自分の行いによって義と認められる人は、一人もいないからです。ちなみに、久保氏は、『聖書にみる死後の世界』の中で、イエス様を受け入れずに亡くなったご両親のことで悩んでいる読者に対して、こう答えています。
「あなたは世の終わりに開かれる最後の審判の御座において、主の御前に立つご両親の姿をそこで見ることになるでしょう。それは、ご両親の救いのために祈る最後の機会です。あなたは思いを尽くし、力を尽くして、主に向かって祈らなければなりません。」
久保氏は、その著書の中で、しばしば、死人のための執り成しを推奨しておられます。イスカリオテのユダの救いのために祈っておられるということですが、決して、聖書の中で勧められている行為ではないと思おいます。
 以上、セカンド・チャンスの聖書的根拠とされている主な3か所を見てきましたが、果たして、聖書的な教理だと言えるのでしょうか。私は大きな疑問を持っています。ある時、モンゴルで一人の日本人宣教師が外国人宣教師とモンゴル人のクリスチャンと同じ席で食事をしていました。モンゴル人がその外国人宣教師に、「キリストについて聞かずに死んだ人はどうなるのか」と質問しました。すると、その宣教師は、「聖書には、福音を聞かずに死んだ人が地獄に行くとは書かれていない」と答えました。日本人宣教師は驚いて、聖書を取り出し、テサロニケ人への第2の手紙1章8-9節を読みました。この聖句を読んでから、「私たちの主イエスの福音に従わない人々だけでなく、神を知らない人々も永遠の滅びの刑罰を受けると書かれているではないですか」と言い、またその外国人宣教師に質問しました。
「もしあなたの言ったことが正しいのなら、あなたはモンゴルに来て、非常に悪いことをしています。この人たちは福音を聞かなかったなら、地獄に行かずに済んだのです。それなのに、あなたは彼らに福音を伝えに来ました。残念ながら、多くの人は聞いても、キリストを拒んでいます。ということは、あなたはこの人たちを地獄に落としに来たことになります。」
その外国人宣教師は何も答えずに、黙ってしまったということです。とても考えさせられる話ですが、実は、私もエホバの証人に対して、同じような疑問を投げかけたことがあります。彼らは、この世で聖書のメッセージが聞けなかった人は、必ず、復活して、地上の楽園でみことばを学ぶ機会が与えられると言っていますが、エホバの証人の話を聞いても信じなかった人は、復活の見込みはないというのです。そこで、私は質問します。「今のこの世と、やがて来る地上の楽園と、どちらがより信じやすい環境だと思われますか。」彼らは、「ま、地上の楽園でしょうね」と答えます。私はまた、そこで質問します。「では、もしそうであるなら、今は極力、人々に伝道しないほうが親切ではないでしょうか。」
いずれにしても、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問は、伝道していくうえで、どうしても乗り越えなければならないハードルだと言えます。言うまでもなく、久保氏は、その著書の中で、この問題を取り上げています。また、この問題で悩む何人かの読者たちの質問を紹介しています。例えば、次のような質問がありました。
「私は両親を愛していましたが、両親は数年前、キリストを信じることなく亡くなりました。未信者のまま死んだ両親は、救われないのでしょうか。」
久保氏は、この方に対して、「救われるチャンスがある。ご両親のために祈りましょう」という希望のメッセージを送っている訳ですが、このように、「セカンド・チャンス」を説くことによって、伝道の大きな妨げを取り除くことができるということです。確かに、セカンド・チャンスは、人々に安心感とか慰めを与えるメッセージだと言えるでしょう。問題は、それが本当の慰めになるのかどうかということです。聖書に基づいた希望でなければ、それは偽物の慰めになってしまうのです。
では、「福音を聞く機会のなかった人はどうなるのか」という疑問に対する聖書的な答えは何でしょうか。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン」(ローマ1:18-25)。
まず、確認すべき大切なことは、すべての人間に、自然界による霊的な光(自然啓示)が与えられているということです。また、これ以外にも、心に刻まれる律法、あるいは良心という光も与えられています(2章12-16節)。更に、伝道者の書に、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」という有名な聖句もありますが、問題は、与えられた光に応答するかどうかということです。光を受け入れて、創造者なる神を求めれば、必ず、更に多くの光が与えられます。主はどのような方法を用いても、ご自身を人に現すことがおできになります。聖書を手に入れることが不可能だった人には、幻か夢などによって、十字架による救いを啓示することがおできになるのです。また、逆に言うならば、救いについて詳しく知る機会のないまま死んでしまった人がいたと仮定した場合、それは、その人が与えられた光に応じずに、神を求めなかったからだということにもなるのです。厳しい言葉のようですが、パウロは、「彼らに弁解の余地はないのです」と断言しています。これが聖書の答えなのです。ですから、この問題で悩んでいる方々に対して、私はローマ書のみことばを引用しながら、「求めなさい。そうすれば与えられます」という霊的な原則を説明します。
「聖書のなかった時代のご先祖は、造り主なる神について知る機会が全くなかった訳ではありません。ちゃんと霊的な光が与えられていました。そして、もし、あなたの御先祖が心の中で神を求めたなら、きっと神から更に恵みを受けたことでしょう。息を引き取る直前であったかも知れません。心の中で、『私の造り主よ、私をあわれんでください』と叫んだかも知れません。結局、そのことは、天国に行ってからでないと、確認できないことですが、主に委ねましょう。」
このようにお話しをしてから、黙示録の15章3節を読みます。
「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って行った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。』」
主は必ず、正しいことをしてくださる。そう信じて、委ねる。これが聖書的信仰なのです。人に受け入れやすいように、聖書のメッセージを変えることは何の解決にもならないのです。

カルトの脱会者による自助グループ
元カルト信者の集い
 カルトの脱会者による自助グループ『いたんだ葦の会』が3月27日(月)午前10時半より、東京都東久留米市にあるカルト研究リハビリ・センターで開催されます。
今回は、特別ゲストとして、ジャン・ドウゲン師夫妻が参加されます。元カルト信者を励ますためのメッセージを語っていただく予定です。参加ご希望の方は、真理のみことば伝道協会の本部まで、お問い合わせ下さい(090-8044-5751)。

マインド・コントロール問題対策DVD発売へ
 日本脱カルト協会より、『カルト:すぐそばにある危機』というDVDが制作され、発売されることになりました。若者はなぜカルトに惹かれるのか。どうして入信してしまうのか。そして、いったん、入ったらなかなか抜け出せないのはなぜなのか。ドラマ、シミュレーション、また実際の元カルト信者の体験談などから、カルト問題の謎を明らかにして行きます。定価は8,000円で高めですが、カルトの勧誘から学生を守るため、高校や大学などの現場で使えるDVDです。
ご注文は、ファックス046-263-0375、メール info@jscpr.org までお問い合わせください。

真理のみことば伝道協会主事
ウィリアム・ウッド
東京都東久留米市幸町
電話:090-8044-5751

「カルト宗教にだまされないために」ウィリアム・ウッド氏fromHarvest Time Ministries on Vimeo.