真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

1914年「神の国は設立される」

2012年2月16日(木)

全国セミナー 2011年3月21日

 今回のセミナーのテーマは、『霊的指導者が信じられなくなった時』ということですが、信用していた人に裏切られることほど、辛い経験は余りないような気がします。私も身内に騙されて、亡くなった父の遺産を全部奪われた経験があります。数年も前のことですが、そのことを考えない日はありません。しかし、霊的指導者に裏切られるという経験は、また格別に苦しいものがあります。霊的指導者、つまり、神に仕える人、神の群れを導くために召されて、神の霊によって導かれ、神に用いられる器であるはずの人間が、その高貴な召命に反して、群れを傷つけてしまう。とんでもない過ちを犯してしまう。嘘をついてしまう。そのような場合に、私たちは言葉では言い表せないほどのショックを受けてしまうのです。
先月の『週刊新潮』に、離婚劇の渦中にある大川きょう子さんという女性の話が掲載されています。「幸福の科学」の総裁大川隆法の奥さんです。記事の中で、巨大教団となった「幸福の科学」の正体を暴露しています。きょう子さんは1987年、大学4年生の時に本屋さんで大川隆法の書籍を見つけて、2ヶ月で10冊ほど読みました。霊界の様子や死後の世界がありありと描かれて、心に響いたので、すぐに「幸福の科学」に入会しました。様々な個人的悩みを大川隆法に相談するようになっていきますが、そのうちに、デートに誘われます。喫茶店に入って、いきなりプロポーズです。「あなたが私の結婚相手だという霊示を受けている」と言うのです。それに対してきょう子さんは、「私もそうだと思う」と、初デートでプロポーズを即了解しました。この人について行けば幸せになれる。きょう子さんはそう信じて疑いませんでした。そして、二人の子供に恵まれて、教団も順調に拡大していきました。ところが、そのうちに「霊言」というものが夫婦間に深刻な問題を起こします。「霊言」とは、大川総裁の上に霊が降りて来て語らせる言葉だそうです。大川氏これを用いて、信者たちを自由自在に操っています。また、奇妙な話ですが、夫婦間のトラブルに守護霊が登場します。簡単に説明すると、こういうことです。つまり、大川隆法に奥さんの守護霊が降臨する。そうして奥さんの分身となった大川に、教団職員や大川の二人の子どもたちが質問を投げかける。それに答える形で大川総裁の口から出て来る言葉は、奥さんの内心であり、潜在意識だというのです。勿論、本人が実際には思ってもいないことが語られますが、次から次へと醜い言葉が出て来て、それがお前の本心だ、と言う訳です。実際にDVDに録画されていますが、質問者として長男と長女が登場します。長男の呼びかけに対して、奥さんの分身となった大川はこう言います。
「バカ息子が。あんたのおかげで離婚しそうになってるんじゃないの。」
長女に対しては、こんな具合です。
「なんか、あなた、変な存在ね?何、もう、豚面して、何よ・・・」
極め付きは、次のやり取りです。長女に対して、こう発言します。
「自殺しといた方が良いよ、もう、本当に。」そして、彼女からこう言われるのです。「逆に、先に、あなたが死んだ方がいいんじゃないですか。」
お母さんが娘に、「自殺しなさいよ」と言っている。娘もお母さんに向かって、「あなたこそ死んだほうが良い」と言い返している。親子で「死ね、死ね」と罵り合っているのです。大川きょう子さんは、「幸福の科学」教団での生活のことを「地獄そのものだった」と述べています。こんな子供だましのような田舎芝居をやって、人の人生を狂わせるようなことは、果たして宗教家のすることだろうかと、呆れるばかりですが、きょう子さんにとっては、大川隆法は教祖であると同時に、夫でもあるので、二重のトラウマを受けていると思います。しかし、彼女は決して黙ってはいません。恐れずに教団のカルト性を暴露しています。『週刊新潮』の記事は、「幸福の科学」の相当なイメージダウンにつながっているはずです。ちなみに、教団側は一生懸命に、大川隆法の新書の宣伝に力を入れて、ダメージを最小限に抑えようとしています。先日、電車内で見た広告には、こうありました。
「学校への信頼、熱心な人格者としての教師、伸びて行くことを喜びとする生徒。そんな理想の教育を、この日本でつくりたい。」
カルト化した宗教団体の恐ろしさを感じます。別の方の話ですが、2月25日に、お茶の水クリスチャン・センターにおいて、日本と韓国の異端問題の専門家たちによる交流会が開かれました。その時に、韓国の異端である「新天地」というグループの元幹部が証言をされました。「新天地」は急激に伸びている異端の一つで、創立者はイ・マンヒという韓国人です。彼は「聖霊」と呼ばれて、また、決して死なないと宣言している人です。81歳です。人々はイ・マンヒの比喩的な聖書解釈に引かれて入信するようですが、元幹部であるシン・ヒョンウックの話によると、イ・マンヒと27歳の女性信者とのスキャンダルが発覚されたそうです。そこで、イ・マンヒのことを徹底的に調べてみようと思ったシンさんは、次々と疑問を持つようになりました。会計報告が明らかにされていないこと、スタッフが無償で働かされていること、教団の献金が全部、イ・マンヒの金庫に入っていること、教団の教理はすべて、イ・マンヒ独自のものではなく他の団体の寄せ集めであることなどです。シンさんは、イ・マンヒに対して、教理の訂正と組織の改善を求めました。すると、こう言われました。
「これはクーデターだ。」
その後間もなく、シンさんは教団から追放されました。人前で自分の体験を語るのは、この間が初めてだったと思います。相当な勇気が必要だったのではないかと思うのですが、最後におっしゃった言葉が非常に印象的でした。
「私は異端を恐れない。恐れるのは、牧師たちの無関心だけだ。」
霊的指導者に裏切られるということは、私たちにとっては、とても大きなトラウマになります。怒りや悲しみが込み上げて来ます。憂鬱な気分になります。何とか立ち直りたいけれども、どうしたら良いか分からないのです。今日、お集いになられた皆さんの中にも、そのように感じている方がきっとおられるはずです。しかし、霊的指導者に裏切られた時に、どうしたら良いのでしょうか。しばらく、御一緒に考えてみましょう。
 聖書の中にも、指導者に裏切られた人物がいます。ダビデです。ダビデは羊飼いでしたが、イスラエルの初代の王サウルに気に入られて、サウルに仕えるようになりました。サウルは度々、悪い霊によって苦しめられましたが、ダビデが立琴を弾くと、王は元気を回復したと書かれています。また、ピリシテ人の陣営からゴリヤテという代表戦士が現われて、イスラエルを罵った時に、ダビデが彼を倒して、イスラエルに大勝利をもたらしました。そこでますます、サウル王の厚い信頼を得て、戦士たちの長に任命され、やがてサウルの娘と結婚し、サウルの義理の息子となる訳ですが、ある日、突然、サウルのダビデに対する態度が一変して、ダビデを殺そうとするのです。結局、ダビデはやむなく、外国に逃げたり、何年も荒野の洞窟に住んだりしなければならなくなりました。ダビデは、詩篇57篇の中で、その時の気持ちを表しています。
 「私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。神よ。あなたが、天であがめられ、あなたの栄光が、全世界であがめられますように。彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。私のたましいは、うなだれています。彼らは私の前に穴を掘りました。そして自分で、その中に落ちました」(4―6節)。
この詩の中に、ダビデの悲しみや悔しさがにじみ出ているように感じます。4節をもう一度、見てみましょう。
「私は、獅子の中にいます。私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。」
そのまま、カルトの被害者の気持ちを代弁しているような言葉ではないでしょうか。カルトの教祖はまさに、人を貪り食う人間です。信者を奴隷のようにこき使って、信者のエネルギーやお金を吸い取ってしまいます。『聖神中央教会』のことを思い出します。牧師の永田保という人が、教会の牧師室で未成年の女の子数十人に性的虐待を繰り返していたということで、6年前に逮捕されましたが、聖神中央教会』で被害を被ったのは少女たちだけではありません。献金を強要された信者も多くいると聞いています。月末になると、永田は「今月も全く献金が足りない」と講壇から語った後、個人的に「あなたも、もっと捧げられるでしょう」と信者に献金をアピールしました。そこで、信者が「お金がない」と言うと、「お金がないということは、信仰がないということだ」と言われます。罪責感を覚えた信者は、消費者金融から借りてでも献金をすることになりますが、返済が滞って困っている人が多い、という現実があります。私は教会を出た多くの方々と接していますが、彼らの受けたショックには、計り知れないほど大きいものがあります。
また、先日、沖縄のクリスチャンから、ある週刊誌に載っていた記事のコピーが送られてきましたが、ある著名な牧師が起こしたショッキングな事件のことが書かれています。その牧師は、カウンセリングを受けるために教会に来た37歳の女性に性的関係を強要すると共に、金の貸付を無心するようになりました。ホテルを買い取り、ボランティア活動の拠点とするためということでした。2007年のうちに6回で合計1080万円を、女性は牧師に手渡したり、振り込んだりしたということです。しかし、牧師は返還はおろか借用書を今も書いていません。女性はその後、牧師の金遣いの荒さや嘘、女性への言動に気付き、極度のうつ病に陥ってしまいます。2か月の入院生活を終えて、結局、牧師を訴えることにしました。訴えの内容は、強制わいせつと、金銭被害です。
「彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です」とダビデは言っています。これも、カルトの脱会者が必ず経験することです。カルトは、グループを離れた者に汚名を着せます。それまで、家族のように付き合っていた人々が、手のひらを返すように、冷遇したり、無視したり、根も葉もない悪い噂を広めたりします。カルト特有の、生存術です。脱会者の証言は、グループのイメージに多大なダメージを与えてしまうので、グループを守るために、離れた者を徹底的にやっつけます。しかし、考えてみると、そのような対応はカルトのもろさを暴露していると言えます。そして、その対応が裏目に出ることもあるのです。
今、ブラジルで一般市民の間で、エホバの証人に対する反発が強まっています。その理由は、脱会者の男性が、自分の家族から無視されるようになったことです。ブラジル人は、家族のきずなを大事にする国民性があるので、大切な家族を引き裂く宗教団体を容認できません。ブラジルのマスコミもこの問題を大きく取り上げました。その結果、一般のブラジル人も、ものみの塔協会を批判したり、デモ行進を催したり、広告版に人権の侵害を訴えたりするようになったのです。
今日のセミナーに参加しておられる皆さんも、霊的指導者に裏切られたという経験をされていると思います。先程の話にあったように、性的関係を迫られたとか、お金を奪われたというようなことではないかも知れませんが、皆さんの中で、深い傷となっているのではないでしょうか。また、裏切られているように感じつつ、自分を責めている方もいらっしゃるかも知れません。先程の話の女性は、牧師に対する疑問を抱くようになり、牧師と距離を置こうと決めた時に、牧師が「一緒に住もう」と言い出したそうです。その時点での気持ちを、彼女はこう回想しています。
「神様の愛を伝える牧師である人からの愛を、私はどうして信じ切れなかったのですが、信じて応えてあげなければならないのに、信じ切れない自分が悪い、自分は神に背いているのではないかと、自分を責め始めました。」
これは、カルトの被害者によく見られる、典型的な思考パターンです。確かに、信者側にも問題があるというケースもあります。あるいは、信者が誤解しているとか、被害妄想をしているという場合もあるし、指導者には大きな落ち度が認められない、という場合も考えられます。なるべく多くの情報を集めて、色々な角度から状況を吟味し、冷静な判断を下すことが肝心です。では、何が裏切り行為に相当するのか、具体的に考えてみたいと思います。まず、霊的指導者が嘘をついた、あるいは約束を守らなかったというケースがあります。この場合、信者は間違いなく、裏切られたように感じますが、必ずしも「裏切り行為」とまで言えないかも知れません。誤解があったかも知れません。そんな約束をしていないのに、信徒が牧師の発言を勝手に解釈して、勝手な期待を抱いていたかも知れないのです。当然のことながら、その場合、「指導者に裏切られた」とは言えません。また、確かにそのような約束はしたけれども、その後の様々な状況が発生したために、どうしても約束を果たすことができなくなってしまったというケースも考えられます。先日の東北関東大震災が起きて、電車が動かなかったり、ガソリンが手に入らなくなったりして、今回のセミナーをキャンセルしなければならないかも知れないと思いました。しかし、傷ついた被害者の方々に、「ウィリアム・ウッドにも裏切られた」という思いを与えてはならないと思って、続行することにしました。勿論、キャンセルすることになってとしても、皆さんはきっと赦してくださったでしょう。想定外の状況が発生したからです。こうして、霊的指導者が約束を果たせなかった時に、その指導者を大目に見るべきだと言える場合もありますが、しかし、明らかに信者を裏切っていると判断せざるを得ないこともあると思います。様々な事情が関係しているにせよ、約束が果たせなかった時に、謝罪しない。自分を守るために、明らかに事実と違うことを言う。Aさんに対して言ったことと、Bさんに対して言ったこととが食い違っている。人によって話の内容を変える。人を動かすために、心にもないほめ言葉を言う。このような不誠実な行為が頻繁に見られるようだったら、信徒に対する裏切りだと言えるでしょう。
次に、指導者の実生活の矛盾が見られた場合、信徒が裏切られたように感じることがあります。牧師などは、神に仕える人であり、福音のために献身している人ですから、聖書に忠実に従って、清く歩んでいる人間だと、信徒から期待されます。当然なことです。もし、講壇から語られているメッセージが、説教者の実生活の中で実行されていなかったら、信徒は失望しますが、「神に仕える人」であっても、結局は人間ですから、たまに失敗をすることがあります。その都度、すぐに「裏切り者」というレッテルを張るべきではありません。しかし、明らかに聖書に反する行動が頻繁に見られるようになったとか、矛盾を指摘する信徒が怒鳴りつけられるとか、悔い改めるどころか平然と罪を犯しているなら、これは信徒の群れに対する裏切りだと断言できると思います。
3番目に、霊的指導者が信者を精神的に傷つける場合があります。よく聞くのは、講壇からの個人攻撃です。講壇は、本来、聖なる場所です。そこから人々を養い、力づけるための神からのメッセージが発せられるからです。しかし、残念ながら、講壇が強力なミサイルを発射する基地と化してしまうことがあります。名指しで人を中傷するケースもあるし、名前こそ出ないけれども、誰のことを言っているかが全会衆にはっきりと分かるような間接的な攻撃もあります。また勿論、講壇から下りた後、根も葉もないうわさ話を広めたり、信徒を中傷したりすることもあるでしょう。例えで言うなら、これは羊飼いが羊を叩くようなことです。羊の世話を任されている者が羊を傷つけている訳ですから、これも許しがたい裏切り行為です。
第4番目に、暴力の問題があります。10年ほど前に、静岡県にある教会の噂を聞きました。牧師が信徒に暴力を振っているという話でした。初めは信じられませんでしたが、数週間後に、実際に被害者の方々と会って、直接、彼らから話を聞いて、その恐ろしい現実を認めざるを得ませんでした。「牧師に殴られました。」「棒で頭を叩かれました。」「体中にお灸をすえられて、どれくらいの痛みに耐えられるかを試されました。」「『食べ方が遅い』と牧師に怒られて、お仕置きとして、私たちのまだ2歳の子どもが真っ暗な鶏の小屋に入れられて、恐怖の余り絶叫しました。」これらは暴力の一例に過ぎませんが、その後、私は知識先生と一緒に、その牧師と話をするために教会に行きました。まず、暴力の話が事実であるかどうか、確かめました。「確かに、やっています」と言われました。そこで、「それは、犯罪になりますよね」と言うと、強く否定されました。「霊的訓練の一端だ」と言うのです。私たちは呆れて、言葉も出ませんでした。暴力は例外なく、犯罪であり、教会に対する裏切り行為です。
第5番目に、信徒が献金を強要されているように感じることがあります。これはある意味では、かなり微妙な問題です。というのは、教会は非営利団体であり、信者の献金によって運営されているからです。牧師は、献金の話をしない訳には行きません。教会のビジョン達成のために、献金を促すこともあるかも知れませんが、献金の強要になるとは限りません。ある人は、献金袋が回ってきただけで「献金を強要された」と憤慨しますが、それは極端なリアクションです。献金の強要とは、圧力をかけたり、脅したりして、献金を迫ることを言います。「献金をしない者は救われない。」「もっと献げなければ神の祝福を失う。」献金の強要には、このような言葉が伴います。また、献金の強要が行なわれている教会では、領収証が発行されません。献金の使い方も不透明です。一方、健全な団体は、会計がガラス張りになっています。以上、幾つかのケースを見ましたが、少し、整理ができたのでしょうか。
では、確かに裏切られたと判断した時に、どんな行動を取るべきなのでしょうか。まず、考えられるのは、直接、霊的指導者に対して自分の気持ちをぶつけることです。「私は裏切られたように感じているし、あなたの行動が聖書に反していると思います」と訴えることです。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタイ18・15)。

パウロも、このみことばを実行しました。

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました」(ガラテヤ2・11)。

勿論、これは大変な勇気の要ることです。自分がこれまで、神の器だと尊敬していた人間と面と向かって、問題を指摘するというのは、なかなかできることではありませんが、自分がイエス・キリストの命令に従っているという確信があれば、力が湧いてくるはずです。
22年前の話ですが、ブリティッシュ航空のボーイング737型の飛行機が墜落して、47名の方が亡くなりました。左側のエンジンから火が出ていたという目撃証言がありました。専門家が機体を詳しく調べた結果、確かに原油漏れが原因で、左側のエンジンに火がついて、操作不能になっていたことが判明しました。しかし、まだ大きな謎が残っていました。ボーイング737型の飛行機は、片方のエンジンだけで十分、飛べるはずだったからです。では、なぜ、飛行機が落ちたのでしょうか。調査が更に進んで、驚くべき事実が出て来ました。パイロットたちが誤って、問題のない右側のエンジンを切ってしまっていたのです。飛行機のコックピットから、エンジンが見えません。つまり、パイロットは、火が出ているほうのエンジンを切ったかどうかを目で確認することができなかったのです。しかし、乗客席からエンジンが見えます。そして乗客の中に、おかしいと思った人が数人いたのです。なぜ、火が出ているエンジンを切らずに、問題のないエンジンを切るのだろうかと疑問に思う人がいましたが、誰も何も言いませんでした。パイロットはプロだから、間違いを犯すはずがないと、考えたからです。その考え方のために、47名の命が失われたのです。教会においても、同じような現象が度々、起こります。
「私はただの平信徒で、牧師は神の選ばれた器だ。牧師の間違いを指摘するようなことはできない。」
こうして、霊的指導者の勝手な振る舞いが容認されて、被害者の数がどんどん増えてしまうのです。言うまでもなく、霊的指導者に聞く耳がなかったということがよくあります。しかし、そうであったとしても、私たちは声を上げるべきです。
次に、霊的指導者を赦すべきかどうかという問題について考えてみましょう。霊的指導者に裏切られて、傷つけられた人が、他のクリスチャンに相談すると、大抵、「赦してあげなければならないよ」と言われます。何か、非常に聖書的なアドバイスであるかのように聞こえますが、場合によっては、更に被害者を苦しめる助言です。自分を傷つけた人間を赦す気持ちになれず、自分を責めることになるからです。もう一度、「赦す」という言葉の聖書的意味をよく考える必要があると思います。
まず、確認しておきたいのは、聖書で使われている「赦す」という言葉は、「赦免する」の「赦」が使われています。「許可する」の「許」ではありません。ですから、クリスチャンが人の罪を赦す際、それは人の罪を許可することではありません。「罪を犯していいんですよ」ということを言っているのではないのです。赦すとは、自分に罪を犯した人に対する報復の権利を放棄することです。ひどいことをされたり、言われたりした時に、通常、人は何らかの形で仕返しをしようとします。自分がこれだけ苦しんだのだから、相手にも同じだけの苦しい思いを味わわせてやろうと考える訳です。また、そのようにするのはごく当然の権利だと思っています。そこで、相手に肉体的、精神的、あるいは経済的なダメージを与えようと具体的な行動を起こします。相手を殴るケースもあります。人の前で相手を罵ることもあります。あるいは法的に訴える場合もあるでしょう。更に、徹底的に相手を無視することによって、相手に反省をさせることもありますが、人を赦すということは、こうした報復を断念して、相手に罪の代価を求めないことなのです。つまり、前と同じように、何もなかったかのように、相手と付き合うことです。言うまでもなく、このような赦しや交わりの回復が可能なのは、罪を犯した人が悔い改めた場合です。

「気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3-4)。

クリスチャンがこのようなことを行なうことができるのは、神の豊かな愛と恵みによって、自分の罪を赦していただいているからです。イエス・キリストの十字架によって、私たちの罪が赦され、罪の刑罰が免除されました。この恵みを受けている者は、自分に罪を犯した人間に向かって、「あなたを赦します」と言うことができるのです。しかし、相手に罪の自覚がなく、悔い改めも見られない場合はどうでしょうか。そのような人に対して、「あなたの罪を赦しました」と言っても、それは全く意味のない言葉です。本人は、自分が罪を犯しているなどとは全く思っていないからです。反論のある方もきっといらっしゃると思いますが、私のところにカウンセリングに来られる方々に対して、「悔い改めない霊的指導者を赦さなくても良いんですよ」と話します。勿論、ずっと指導者に対する憎しみや恨みを抱き続けることはよくありません。その気持ちを神に委ねるべきですが、何もなかったかのように装って、指導者と付き合う必要はないと、私は思っています。そのような偽善的な振舞いによって、何の良いものも生まれないのです。
続いて、自分を裏切った霊的指導者のグループに留まるべきかどうかという問題を取り上げましょう。これも、被害者からよく相談されることです。皆さんは純粋であり、また非常に真面目なので、グループに留まって、指導者のために祈ったり、あるいは残っている人々を助けるべきではないかと考えたりします。確かに、希望を捨てずに、聖霊の奇跡を待ち望むという信仰も素晴らしいと思います。しかし、私の経験から言わせていただくと、カルト化してしまった指導者が自分の罪に気付いて悔い改めるということは、ほとんどありません。勿論、留まるべきだと思っている方々にはそのようなことは申し上げませんが、留まることによる精神的なストレスに耐えられるかどうかを確認します。権威主義的になっている指導者との交わりを続けることには、かなりの精神的な疲れが伴います。もし、それに耐えるだけの力があるなら、留まっても良いでしょう。しかし、精神的な限界に近付いているように感じたら、自分自身を守るために、離れるべきです。ここでまた、被害者は戸惑います。自分がどうなっても良いから、とにかく指導者と中にいる人々の救いのために何とかしなければならないという責任感が働くのですが、その「私はどうなっても良い」という心は、余り健全な心ではありません。多くの場合、権威主義的な指導者の影響によって、自尊心、あるいはセルフ・イメージが低くなっているのです。ですから、被害者にとって最大の課題は、その自尊心を取り戻すことですが、カルト化した指導者と一緒にいる限り、そのプロセスはなかなか進まないのです。「私はどうなっても良い」ということはありません。あなたは、神の前で貴重な存在です。人を大事にするように、自分をも大事にしなければなりません。
第4番目に、自分の体験を公にすべきかどうかという問題があります。今、インターネットには、多くのカルトに関する情報が流れています。そして、その情報によってカルトの実態が暴かれて、被害を受けずに済んだという方も大勢いらっしゃると思います。先程、紹介した週刊誌の記事には、沖縄キリスト福音センターのことも書かれています。写真も出ています。特に興味深いのは、「インド方面霊的戦線出陣壮行会」の写真です。献身者の一人がインドへの宣教活動に出発する時、仲原牧師や本人は米軍払い下げの軍服を着用して壮行会を行ないました。なぜ軍服なのでしょうか。仲原牧師は「コンバット」などの戦争映画を中核信者によく見せていたといいます。「彼への従順を教え込むために映画を見せていました」と、ある元信者は証言しています。このような情報が流れていれば、誰でも、「おかしい」と感じるはずです。今、ヤフーで「沖縄キリスト福音教会」を検索すると、まず、トップに出て来るのは、「沖縄キリスト福音教会暴行傷害事件」とか、「沖縄キリスト福音教会のカルト化」というような見出しです。沖縄の元信者たちは本当によく頑張っておられると思います。言うまでもなく、これは大変なエネルギーを要することです。また、勇気も必要です。もし、ある程度まで傷が癒されて、精神的に安定したなら、公の場で証言することも良いと思います。そうすることによって、人の役に立ち、カルトの危険性に関する警鐘を鳴らすという貴重な役目を果たすことになるので、自分のカルト経験は無駄ではなかった、この経験も神のご計画の中で用いられるという確信が得られるかも知れません。
第5番目に、法的に訴えるべきかどうかという問題について、一言、お話をしましょう。これも非常に難しい問題で、慎重な判断が求められますが、指導者が明らかに犯罪を犯している場合、迷わずに、警察に被害届をすべきです。そこで、警察の方で立件できると判断されたなら、法的手続きを進めるべきだと思います。復讐するためというより、被害者の数が増えることを阻止するためです。もし、6年前に、一人の被害者のお母さんが勇気を出して、警察に被害届をしなかったら、聖神中央教会の永田牧師は未だに、10代の女の子たちに性的虐待を繰り返していることでしょう。勿論、霊的指導者を法的に訴えようとすると、「人を裁いてはいけないと聖書に書いてあるから、止めた方が良い」というトンチンカンなことを言う人がいます。犯罪を犯している人を訴えた場合、私たちはその人の裁きを国に求めます。私たちが裁くのではないのです。極めて常識的な話ですが、クリスチャンは犯罪を容認してはならないのです。
では、最後に、傷つけられた方々が癒されるためには、どうしたら良いのでしょうか。まず、信用できる人に、自分の悲しみや怒りを正直に打ち明けることです。誰かに、自分の気持ちを受け止めてもらうだけで、随分、楽になります。ついでに、被害者の相談を受ける方々にお願いしたいのですが、とにかく彼らの悲しみを受け止めてあげてください。説教もアドバイスも要りません。肝心なのは、受容です。「大変でしたね」と、悲しみを共有できればそれで十分です。先日、あるカルト化した教会で被害を受けた方から、メールをいただきました。とても長いメールの中で、これまで経験してこられたことを詳しく説明してくださったのですが、それに対して、「大変なところを通られたのですね」と返事をしました。すると、次の日に、こんなメールを送って来てくだいました。
「昨日いただいたウッド先生のメールに『大変なところを通らされましたね。』とあるのを読んで涙が止まらなくなってしまいました。あ~大変だと感じていいのかと・・・。感謝します。ありがとうございました・・・。」
次に、カルト問題に詳しい人間に、カウンセリングを受けることです。カウンセリングを受けることによって、自分の気持ちや考えを整理することができます。カルトで教わったことのどこが正しいのか間違っているのか、なぜこんなことになってしまったのか、少しずつ、分かるようになります。その中で、自分のカルト脱会の決意が間違っていなかったと確信が持てます。その確信は、新しい人生を始めるためには、とても重要です。マンツーマンのカウンセリングも良いですし、グループ・カウンセリングも効果的です。私たちのカルト研究リハビリ・センターで、元カルト信者のためのグループ・カウンセリングを定期的に行なっています。
第3番目に、新しい交わりを求めることです。人間不信に陥って、人との接触を避けるようになる方もいますが、それではなかなか、回復が進みません。何とか、希望を捨てずに、チャレンジ精神をもって、新しい出会いを求めていただきたいと思います。きっと、仲間として受け入れて、支えていてくれる人々がいるはずです。最後に、決して裏切るようなことはなさらない、真実な神を見上げることです。人間は私たちを裏切ります。約束を破ります。嘘をつきます。しかし、主は人間とは違います。

「聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない』」(ローマ10:11)。

主は失望させません。必ず、最善に導いてくださいます。また、すべてを働かせて、益としてくださ
います。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

この聖句は、元カルト信者のリハビリの鍵となるような個所だと思います。この約束を信じることができれば、早く立ち直ることが可能になります。カルトによって多くのものを奪われた。名ばかりの霊的指導者の身勝手な言動によって、死ぬほどの苦しみを経験した。しかし、主はそのすべてを御存じです。そして、その苦しみを益に変えることがおできになるのです。あなたの悲しみを、決して無駄にはなさいません。必ず、ご自身の目的のために、生かしてくださるのです。

真の権威とキリスト者の自由

2012年2月16日(木)

日本福音同盟・信教の自由セミナー 2009年11月13日

 本日のセミナーの講師を務めさせていただくウィリアム・ウッドです。どうぞ、よろしくお願いいたします。皆さんも御承知だと思いますが、21回目を迎えた今年の信教の自由セミナーのテーマは、これまでのテーマとはかなり異なっています。今までは、戦争の問題や、靖国神社の問題や、公立学校における国歌斉唱および国旗への敬礼の強制など、様々な社会問題が取り上げられてきました。しかし、今回は、『真の権威とキリスト者の自由』ということで、信教の自由を教会の内面から考えることになりました。私は30年前から、異端またはカルト問題に取り組んでおります。エホバの証人の訪問を受けたことが最初のきっかけでしたが、これまで幾つものグループの研究をすると共に、救出やリハビリ・カウンセリングに当たらせていただいて参りました。被害者家族へのカウンセリングもさせていただいております。その数は1000件ほどになるかと思います。また日本各地、ならびに海外の10カ国において、セミナーを開催させていただいてまいりましたが、こうした活動の中で、世界の至る所で宗教の名のもとに信教の自由が侵されている現実を目の当たりにしています。日本であっても、中国であっても、ロシアであっても、インドであっても、アメリカであっても、そのパターンはほぼ同じです。
1989年に起きた坂本堤弁護士一家殺人事件など七つの事件で殺人罪などに問われたオウム真理教元幹部の早川紀代秀被告の上告審で、最高裁は7月19日、「刑事責任は極めて重大」として、被告側の上告を棄却する判決を言い渡しました。一連のオウム真理教事件で死刑確定となったのは、彼が6人目です。新聞記者の取材に対して、早川被告は判決に納得できない理由を、次のように説明しています。「人殺しにかかわったのだから、厳しい刑を受けるのは当然かも知れません。しかし、私が事件の主役だという検察官の主張は事実とは違います。グル麻原の宗教的絶対性を認めようとしないのは納得がいきません。」更に、早川被告は、麻原の予言するハルマゲドンから人々を救済しようと無私の心で働いたに過ぎない、と主張しています。ですから、計4人の殺害にかかわったのは、「信徒としてすべての判断を麻原に委ね、絶対服従していたからであって、皆に言われるほど自分は悪い人間ではありません」と言うのです。
早川被告の発言の中に、特に注目すべき点が二つあります。「すべての判断を麻原に委ねていた」ということと、「絶対服従していた」ということです。つまり、早川は、自分は奴隷状態にあって、自由に行動することができなかったと主張しているのです。その主張は裁判官に認められませんでしたが、彼の言っていることには、かなりの信ぴょう性があると言えると思います。早川は間違いなくマインド・コントロールされて、精神的な束縛を受けていました。
「マインド・コントロール」という言葉は、あのオウムによる東京地下鉄サリン事件以来、日本においても市民権を得ていますが、ごく簡単に説明させていただくと、人に依存して、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする能力が著しく低下する精神状態のことを言います。早川被告は、「すべての判断を麻原に委ねていた」と言っていますが、別の言い方をすれば、彼は思考停止になっていたのです。しかし、一体なぜ、そのような精神状態が生まれるのでしょうか。二つの要素が関係しています。一つは、本人の自信の無さです。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。ですから、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるかも知れません。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。
マインド・コントロールに欠かせないもう一つの要素は、自分の優越性を主張する指導者の存在です。麻原教祖の場合、インドでの長年の厳しい修行に耐えて、悟りを開いたと言っています。「私はあなたがたよりも、はるかに上の霊的レベルに達している。私は神のような存在だ。だから、自分で考えないで、私の言うことを聞いていれば、救われる。」と教える訳です。他の宗教団体では、指導者は特別の霊的体験や啓示や幻の話をして、「私は神の代弁者である。私は神に油を注がれた器だ。私に従うことは、神に従うことである。しかし、私に逆らえば、神に逆らうことになる。」と主張します。このように、権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教指導者には、若者は非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
「私はすべての判断を麻原に委ねて、絶対服従していた」と早川被告は述べています。多くのカルト脱会者は、自分がリモコンで操作されていたと証言していますが、「彼らが自分の意志で選んだ道なんだから、彼らの責任だ」ということで片づけられる問題なのでしょうか。いいえ、一概にはそうとは言えません。勿論、何の責任もないということにはなりませんが、考慮すべき、大事な一面もあります。カルトの被害者は巧妙な心理的トリックによる影響を受けています。「マインド・コントロールの法則」とも呼ばれていますが、そのうちの一つは、「恐怖心の法則」です。言い換えれば、脅しです。「私は神の代弁者であるから、無条件で従いなさい。私の言うことを疑ってはならない。私に逆らう者は必ず、神に見離される。」信者はこのような言葉を徹底的に叩き込まれて、無意識のうちに思考停止になります。これは彼らの責任でしょうか。必ずしも、そうとは限りません。例えで説明しましょう。今夜のセミナーの後で、あなたが帰宅される途中、強盗に襲われたとします。胸に包丁を突き付けられて、「お金を出せ」と脅されます。皆さんはどうされますか。恐らく、財布を渡すでしょう。その後、強盗が警察に捕まったとします。取り調べを受けた男は、罪を認めますが、次のような説明を始めます。「確かに、お金を受け取りました。しかし、相手の人は自分の意志でポケットに手を入れて、財布を出しました。私が取ったのではありません。」このような主張は通るのでしょうか。あなたは確かに自分の意志で財布を出したと言えるかも知れませんが、それは、包丁を突き付けられて、命の危険を感じたからなのです。カルトの信者も、指導者の脅しに対して、同じように反応しているにしか過ぎないのです。
マインド・コントロールのもう一つの心理的トリックは、「情報コントロール」です。教祖は、自分にとって都合のよい情報だけを与えて、都合の悪い情報を禁止します。このような情報統制によって、偉大な指導者としてのイメージを保つのです。言うまでもなく、情報コントロールを使うのは、宗教指導者だけではありません。情報統制をする政治家もいます。その最たる例は、北朝鮮の金正日書記長です。彼は、国民の大多数の人々に、神のように崇められています。しかし、実際はその数々の身勝手な政策によって国民を苦しめています。では、どうして、それでも偉大な指導者として崇められるのでしょうか。外部からの情報が入ってこないようになっているし、金正日を批判することが禁じられているからです。北朝鮮の方々は、決して自由だと言えません。むしろ、束縛されている、あるいは利用されていると言わざるを得ません。カルト化した宗教団体においても、これと全く同じ現象が起きます。指導者の主張の真実性を確かめるための情報収集は許されません。指導者を疑うこと自体が、とんでもない罪とされているのです。こうして、信者は物事を知る権利、自分で考える権利、自分で判断する権利を奪われるのです。
 2ペテロ2章1-3節を読みましょう。
 「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなた方の中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることがありません。」
この聖句から、私たちはカルト化した宗教団体の教祖の特徴について、幾つか、学び取ることができます。一つは、彼らの聖書から逸脱した教えによって、滅びをもたらすということです。30年ほど前に、世界中の人々を震撼させた、前代未聞の大事件が起きました。南米のガイアナという国のジャングル奥で、913人もの人々が集団自殺を図ったのです。彼らは、“People’s Temple” という宗教団体に属する信者たちで、教祖のジム・ジョーンズの指示に従って、自ら尊い命を投げ捨てました。毒入りのジュースを飲んで死んでしまった訳ですが、このショッキングな出来事によってカルトの危険性が認識されるようになりました。カルトはまさに、滅びをもたらします。それはまず第一に、霊的な滅びですが、それだけではありません。肉体的な滅び、家庭の崩壊、人格の崩壊などもあるのです。
次に、カルトの教祖は主を否定します。人によってその否定のし方が異なりますが、キリストの神性を否定する人や、十字架による贖いの完全性を否定する人もいます。また、キリストの神性や贖いを認めながらも、自分の霊的立場を強調する余り、教祖の存在が大きくなり、信者とキリストとの個人的な関係が育たない、というケースもあります。本来なら、信者は主との交わりによって養われて、十分に満たされ、主のみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなるはずですが、カルト化した団体では、指導者の助けなくしては何もできない者とされてしまうのです。これはキリストの栄光を奪うことであり、キリストを見えなくさせることであり、「主を否定する」という言葉に含まれる間違った聖書教育です。
更に、カルトの教祖は、貪欲であり、人を食い物にします(3節)。分かりやすく言えば、彼らは自分の王国を築こうとしている人間です。自分の言うことを聞いてくれる人々に囲まれて、何でも自分の希望通りになる。これが教祖の描く夢であり、理想的な世界なのです。絶対的な権威を主張して、その権威が認められた場合、指導者はどんなことを要求しても、それが間違いなく満たされます。まず、偉大な指導者として崇められている者は、名誉欲が満たされます。「献金しなさい」と言えば、金銭欲も満たされます。勿論、誰もその献金の使い方について、口を挟む人などいません。更に、性欲も満たされます。2005年4月6日の朝、京都にある『聖神中央教会』の牧師永田保という人が、教会の牧師室で未成年の女の子数十人に性的虐待を繰り返していたとして逮捕されるという、非常にショッキングなニュースが報道されました。皆さんはそのニュースにとても驚かれたと思いますが、私も複雑な心境で、永田牧師が逮捕される場面を見ていました。実は、彼が逮捕された直接の原因は、私が書いた本にあったからです。被害者の方々は長い間、「誰にも言ってはいけない。ばらしたら地獄に落ちる」と口止めされていました。しかし、2004年の11月に、被害者の一人が、私が著した『教会がカルト化するとき』を読んで、独裁的な指導者の言いなりにならなくても良いんだということが分かり、連絡をしてきました。何度か、カウンセリングを受けているうちに少しずつ、マインド・コントロールが解けて、声を上げなければならないと理解し、警察に被害届けを出した訳です。『聖神中央教会』で被害を被ったのは少女たちだけではありません。献金を強要された信者も多くいると聞いています。月末になると、永田は「今月も全く献金が足りない」と講壇から語った後、個人的に「あなたも、もっと捧げられるでしょう」と信者に献金をアピールしました。そこで、信者が「お金がない」と言うと、「お金がないということは、信仰がないということだ」と言われます。罪責感を覚えた信者は、消費者金融から借りてでも献金をすることになりますが、返済が滞って困っている人が多い、という現実があります。更に、極端な教えにのめり込むことで、家庭崩壊を招くケースも報告されています。
聖神中央教会のニュースを受けて、多くの牧師は、「あれは極めて、特殊なケースだ」という受け止め方をされたようですが、私はそのようには考えませんでした。それは、他にもカルト化した教会の情報を得ていたし、カルトと同じようなマインド・コントロール的な手法を用いる教会を個人的に知っていたからです。その後も、教会関係指導者による暴力、セクシュアル・ハラスメント、財産の奪取などの不祥事が発生し、一般のメディアでも取り上げられました。裁判でその真偽が争われているケースも多数あります。申し上げるまでもなく、このようなニュースは測り知ることのできないほどの深刻なダメージを教会に与えています。「真理の道がそしりを受ける」とペテロが述べているのは、まさにこのことです。私は、教会が完全にカルトになることはさほどないと思っています。しかし、教会がカルト化する、すなわち、カルトのような体質になるとか、カルト的特徴を持つようになるということは、十分にあり得ます。日本福音同盟も、昨年の12月に、教会のカルト化問題に関する警鐘を鳴らすための手紙を、加盟諸教団、教会、および宣教諸団体に出しています。また、9月に開かれた第5回日本伝道会議で採択された『札幌宣言』も、教会のカルト化問題に言及しています。今こそ、この問題について十分に検証し、自己吟味をし、悔い改めるべきことを悔い改める時です。特に、今夜のセミナーのテーマである「真の権威とキリスト者の自由」が大きな意味を持つ課題だと考えますが、これまでお話しをしてきたように、カルト問題を検証する時に、二つのキーワードがあります。それは権威とコントロールです。カルトの教祖は特別の権威を主張して、自分の野望達成のために人を奴隷にします。「指導者に従いなさい」という聖書個所を引用して、信者に対する絶対服従を要求します。一方、キリスト教会の牧師も、霊的な権威をもってみことばを語り、群れを牧します。どこが、どう違うのでしょうか。カルトにおける権威は、人を指導者に依存させ、指導者の要求を通すために使われます。これに対して、聖書的な牧会における霊的権威は、人をキリストに引き合わせ、霊的な大人に育てるために用いられるのです。
エペソ書4章11-15節を開きましょう。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

皆さんもよくご存じの聖句だと思いますが、ここに記されているように、イエス・キリストは御自分の教会のために、五つの賜物を与えてくださいました。教会が健全な成長を遂げるために、五つの務めに励む教職者が立てられる訳ですが、当然のことながら、その務めを果たすために、賜物と共に、キリストからの霊的権威も与えられています。教職者は、自分が神によって立てられた器であるという確信がなければ、務めを果たすことなどできません。確かに、講壇に立つ時に、「主はこう言われる」という、権威に満ちたメッセージを語ります。主の奉仕には、権威は欠かせません。しかし、何のための権威なのか、正しく理解する必要があるのです。
まず第一に、権威は、信徒を成長させ、自立した霊的大人に育てるためにあります。13節には「完全におとなになって」、14節には「もはや、子どもではなくて」、15節には「あらゆる点において成長し」とあります。成長を遂げた霊的な大人とは、どんな人のことを言うのでしょうか。それは、自立している人だと言えると思います。つまり、自分で物事を考えて、判断し、また決断することのできる人です。新生したばかりのクリスチャンは、赤ちゃんと同様に、分からないことも多いし、できないことも色々とありますが、教職者の助けを受けながら成長し、神との交わりの中でみこころをわきまえることのできるクリスチャンとなっていくはずです。何年たっても牧師離れができない、つまり、牧師に相談してからでないと何も決められない、牧師の助けがなければ何もできない状態に留まることは、決して神のご計画ではないはずです。ですから、聖書的な教職者は決して、信徒を自分に依存させません。「あなたは未熟だから、何も考えないで、神の器である私の言うことを聞きなさい」というように、霊的権威を悪用しません。普通の親が自分の子供にそうするように、あくまでも信徒の自立を促す指導を行なうのです。何度も説明しているように、カルトは人を子供のままの状態にしておきます。これがマインド・コントロールの最大の悲劇です。人間の成長が止まってしまうことです。正しい教育、あるいは聖書的な訓練は、人をコントロールするために行なわれるのではありません。その目的は、成長であり、自立なのです。
1ペテロ5章2-4節を開きましょう。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」

「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく」という言葉に注目してください。聖書的牧会は支配ではありません。支配は成長を促しません。「私は牧師だから、私に従え」と命令しても、自立した人間は育ちません。依存型の人間になるのです。一方、模範を示すことは、自立を促します。命令しない。圧力をかけない。脅さない。模範を示して、人が自ら判断して、自ら納得して、応答するまで、聖霊のみわざを待ち望むのです。勿論、権威の問題を考える時、5節の「若い人たちよ。長老たちに従いなさい」という聖句も考慮に入れなければなりません。ヘブル書の13章17節にも、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」とあるので、私たちは指導者に従うべきです。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下したなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書の教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならない。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずもありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、多くの聖句にはっきりと書かれているからです。
 それでは、エペソ書に戻りましょう。霊的権威が与えられている二つ目の目的は、13節にあるように、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達」するように群れを導くことです。申し上げるまでもなく、信仰も、キリストに関する知識も、みことばから来ます。ですから、教職者は権威をもって、みことばを語らなければなりません。「神はこのようなお方である。神はあなたにこう望んでおられる」と、聖書から示していくなら、それは間違いなく、神からのメッセージになります。信徒はそのメッセージによっていよいよ、キリストを深く知るようになり、健全な成長を遂げていくのです。しかし、そこで牧会者は勘違いをしてはなりません。権威があるのは、聖書のみことばだけです。牧師の個人的な思いであっても、希望であっても、願望であっても、あるいは神から与えられたとされるビジョンであっても、それに聖書と同等の権威があるかのように、信徒に押し付けてはなりません。「牧師のビジョンに反対する者は、神の権威に反対しているのであって、聖霊に逆らっている」というような発言は、聖書に対する甚だしい曲解です。勿論、牧会者に神からのビジョンが与えられるということは、当り前なことです。まず、指導者が群れの進むべき方向を見定めなければ、群れは導けませんが、そのビジョンは、聖書と同等の権威のあるものではありません。祈りの中で示されたものであると思われたとしても、聖書と同じように神の霊感によるものだとは言えません。牧会者はあくまでも人間ですから、神のみこころを完全に把握しているとは限りません。ですから、「私はこうするように、聖霊に導かれている」と宣言するのではなく、ビジョンを語りつつ、祈りのうちに、群れと共に、その内容がみこころにかなっているかどうかを確認するのです。勿論、そのプロセスを踏んでいく中で、色々な疑問が浮上するでしょう。指導者にとっては、忍耐が試される時ですが、一つ一つの質問に答えて、群れが納得できるまで説明をするということは、群れの成長のためには、非常に重要な意味を持っています。例えどんなにしんどいことであっても、このプロセスを避けてはなりません。いちいち、みんなの質問に答えなくても済むように、「牧師に従え」的な牧会をしてはならないのです。
 霊的権威が与えられる最後の目的は、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」ように信徒を導くことです(13節)。3章19節にも、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」とパウロは祈っていますが、これこそクリスチャンの目指すべき究極的ゴールです。いよいよ主を深く愛する者となり、どのような状況の中にあっても主に信頼する者となり、喜んで主のみこころに従う者となり、全く聖霊に満たされた者となり、主の御姿に似た者となることです。こうして、健全なクリスチャン生活を送っている者は、いつも主を見上げています。信仰の対象は主なるキリストです。ですから、教職者は権威をもって、「主に目を留めなさい。主は決してあなたを失望させるようなことはなさらない。主が共におられれば、恐れることはない。」と信徒を指導するのです。一方、再三、お話しをしているように、カルトにおいては、必ず、指導者が注目され、信頼され、崇められていきます。これは教会の中でも、十分に起こり得ることなので、教職者は細心の注意を払うべきです。「私ではなく、キリストである!」というメッセージは、どんなに強調しても、強調し過ぎることはないと思います。牧師は教祖になってはなりません。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルで、2列に並び、その真ん中を通る永田に、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。私は永田の逮捕後、そのようにしていた信者たちと何度も交わりを持ちましたが、あるレストランで食事をしている時のことです。突然、一人の姉妹が私に尋ねました。「先生の飲み残した水をいただいても良いですか。」最初は、その意味を理解できませんでしたが、彼女はこう説明しました。「牧師先生が口を付けたものをいただくと、神からの特別の恵みが与えられます。」永田がそこまで信徒を訓練していたとは驚きです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、パウロが述べている教会のあるべき姿ではありません。健全な教会では、キリストが崇められるように指導されて、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)というのが牧師の口癖になっているのです。
 最後に、もう一度、今夜のテーマについて考えましょう。『真の権威とキリスト者の自由』ということについて、ご一緒に考えてきましたが、エペソ書にあるように、霊的権威は信徒を自立させ、みことばによって群れを養い、キリストが崇められるようにするために与えられます。この霊的権威が正しく用いられると、自由が生まれます。それは、成長する自由です。自分でみこころをわきまえる自由です。キリストを知り、キリストを崇める自由です。また、それは質問をして、納得するまで確かめる自由です。残念ながら、日本の多くの教会には、このような自由はないと言わざるを得ません。信徒たちは独裁的な指導者のもとで、束縛されており、苦しんでいます。今こそ、聖書的な牧会のあり方について、よく考えて、反省すべきところを反省しようではありませんか。6年前に、『教会がカルト化するとき』という本を出した時に、「日本の教会を混乱させている」と批判されました。「あなたの本のせいで、権威をもって、みことばを語ることができなくなってしまいました」という声もありましたが、今晩の講演で、私がどのような趣旨で問題提起をしているか、ご理解いただけたかと思います。教会の健全化は、日本のリバイバルの大前提です。聖書の基本的真理に立ち返って、この国でイエス・キリストが崇められるように、共に祈り求めていこうではありませんか。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月9日

 数年前から、私は三つのブライダル事務所のために、東京都内でキリスト教の結婚式の司式をしています。家族を養うために引き受けた仕事ですが、途中から素晴らしい伝道のチャンスだと考えるようになりました。これまで、1千件以上の結婚式をやっていますが、平均して、60人ほどの方々が集います。ほとんど未信者です。賛美歌も歌うし、祈りもするし、聖書からのメッセージも語ります。真の愛とは何か、結婚とは何か、などのテーマで3-4分、お話をするのですが、新郎新婦は勿論のこと、ご家族の方々や友人たちも、聖書のみことばに感動します。間違いなく、キリスト教に対するイメージが格段に良くなるのです。日本の福音化のために、欠かすことのできない種蒔きではないかと思います。ざっと計算して、これまで6万人の方々の心に、みことばの種が蒔かれたということになります。主なる神は、不思議なみわざをされるお方だと、つくづく思います。伝道集会を開いて、チラシを何千枚も配っても、数人の人しか来ないのに、一般の企業が建てたチャペルに、何百人もの未信者が集まって、喜んで聖書の話を聞くのです。不思議です。どんなに伝道が困難な国であっても、主のみわざを待ち望むなら、必ず道が開かれます。私はそう信じています。大事なのは、人間的な知恵や肉的な方法に頼らずに、聖霊を待ち望むことです。
昨日から、お話ししているように、私がセカンド・チャンスを受け入れられない第一の理由は、それが聖書から逸脱していると考えるからですが、この教理に関して気になる点が他にもあります。その一つは、セカンド・チャンスが日本のリバイバルの鍵とされていることです。セカンド・チャンスの支持者たちは、この教えを説くことによって、「キリスト教は、亡くなった先祖を地獄から救うことができない不条理な宗教だ」という一般人のイメージを打ち破ることができると言います。地獄の教理につまずいてクリスチャンにならない人や、親族・先祖と別の場所に行くのは申し訳ないという気持ちが強くてキリスト教への回心をためらう人に対して、納得のいく説明をし、亡くなった先祖にも確かな希望があると語れば、キリストを信じる者の数が急増するはずだ、と言うのです。こう主張する牧師たちの中に、私が長年、親しく交わりをさせていただき、尊敬させていただいていた著名な先生もいらっしゃいます。名前を言うのは控えさせていただきますが、その先生の教会の礼拝に、1000人以上の人々が参加しています。「キリスト教は暗い、ダサい、つまらない」というイメージを変えるために、一生懸命に働いてこられた先生です。極力、未信者に分かりやすく、受け入れやすいメッセージを語ってこられた先生です。また、教会の新来者に対する配慮を決して忘れない方です。成功した牧師として、一目置かれています。確かに、見習うべき所が沢山あると、私も思っています。しかし、いくら人々に受け入れやすいからといって、セカンド・チャンスの教えを広めても、それが非聖書的な教理であるなら、神に祝福されるどころか、聖霊を悲しませる結果を招いてしまうのです。エペソ人への手紙4章:11-15節をお読みします。
「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」
健全な伝道も、また健全な教会形成も、真理を語ることが肝心です。真理を語ることによって、信仰が成長します。真理を語ることによって、教会が様々な間違った方向に走らないように守られるのです。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語ろうとは、私は決して考えません。まず、聖書に基づいた真理であるかどうかを慎重に調べるべきです。真理だけが人々を救いに導き、健やかな霊的成長を可能にします。真理でない教え、つまり、異端は、滅びをもたらすだけです。「愛をもって真理を語り」とあります。人に対して愛を持っているなら、どうしてもその人に真理、真実を語らなければなりません。例え、相手にとって受け入れにくい話であっても、真理を語ることが本当の親切であり、本当の愛なのです。
言うまでもなく、真理を語ることは、場合によっては非常に難しいことです。私は、数百人のカルト信者とのカウンセリングの中で、そのことを実感しました。いわゆるカルト救出カウンセリングは、多くの場合、家族の協力のもとで行われます。家族は、本人がカウンセラーに会って、話を聞くように説得します。本人の承諾を得てから、カウンセラーが部屋に入るのですが、承諾をしたと言っても、本人は心からカウンセラーを歓迎する訳ではないのです。家族に頼まれたから、仕方なく、話を聞くというケースがほとんどです。カウンセラーのことを、自分の信仰を奪うために来たサタンの使者だ、敵だと見ています。そのような厳しい条件の中で、カウンセラーは相手の信用を得ながら、相手の信仰の問題点や、組織の欺瞞性を指摘していかなければなりません。これは至難の業です。「素晴らしい信仰ですね。きっと神様が喜んでおられることでしょう」というようなことを言っては、全く埒が明きません。知恵と配慮をもって、真理を語らなければならないのですが、真理には力があります。真理を語る時に、奇跡が起こるのです。ちょうど10年前(1998年)に手掛けた救出カウンセリングのケースを思い出します。エホバの証人になっていた久住聡子さんという30代の女性の救出です。聡子さんは数年前からエホバの証人との勉強を始め、1997年の秋に、エホバの証人として洗礼を受けられた方ですが、そのご家族、特にご主人が聡子さんの異常な言動を見て危機感を覚え、私に奥さんの救出を依頼して、私のところに来られた訳です。家族の保護の元で、説得が始まりました。最初はおもに、エペソ書から、講解説教をしました。エペソ書が好きだと、聡子さんがおっしゃっていたからです。徐々に、ものみの塔の教理の矛盾、組織の欺瞞性について話し始めました。すると、三日目から拒絶反応が出て、奥さんがトイレに逃げ込む場面もありました。しかし、皆でトイレの前に集まって何とか話が出来ました。ところが、5日目に元エホバの証人を連れて行くと、ものすごい抵抗が始まったのです。それから三日間、私たちに背を向けたり、顔を背けたり、全く口を聞いてくれなかったりしました。そしてついに、自殺未遂を図ったのです。食器用の洗剤を飲んでしまいました。幸い、大事に至らなかったのですが、その後しばらくは、生きているのか死んでいるのか分からないような虚脱状態で、質問を投げかけても、「どうでも良い」、「分からない」の言葉を連発するだけです。こちらも精神的にも肉体的にも疲れて来て、「これはもう、駄目なのかも知れない」と思い始めました。しかし、10日目の夕方、レーナ・マリヤさんのビデオをかけてみることにしました。すると、大きな変化が起きたのです。勿論、本人は見ようとしないのですが、レーナ・マリヤさんの証しや賛美が耳に入りました。ビデオが終わった後、四日ぶりに、聡子さんが顔を見せてくれました。そして、自分から色々と、質問を始めたのです。質問をするということは、マインド・コントロールが解けてきていることのしるしで、自分で考え始めているという意味ですが、次の日の夕方、「エホバの証人をやめる」と言ってくださったのです。久住ご夫妻は、救出カウンセリングが始まる1年半以上も前から、別居しており、カウンセリングが失敗に終わったら、確実に離婚して家庭が崩壊するというシナリオになっていたのですが、聡子さんのマインド・コントロールが解けた後、ご主人との関係が修復して、まるで新婚夫婦のような感じでした。久住ご夫妻には、3人の小さな男のお子さんがいます。話し合いをしていた部屋に、お子さんたちの写真が飾ってありました。その写真を見るたびに、何とか、子供たちのためにも、カウンセリングを成功させなければならないという責任感、大きな重荷を感じましたが、主の恵みによって家族がもう一度、一つになれたのです。真理には力があります。
ですから、私たちの語るメッセージが、聖書の真理に基づいているかどうか、常に細心の注意を払うべきです。真理でない言葉を語って、人々を喜ばせても、あるいは人々を集めることができたとしても、それは決して真の救いや成長にはつながりません。真理でない言葉によって、立派な霊的家を建てても、それは砂を土台としているものなので、やがては崩壊します。聖書の真理に基づいていない伝道方法や牧会も同じです。25年前から、日本各地の教会から異端セミナーの依頼を受けて、御用をさせていただくことになりました。色々な牧師の方と交わって、また、沢山の教会を見させていただいて、自分の中で少しずつ、あることがとても気になりだしました。それは、一部の教会に、カルト的な体質が見られるということです。具体的に言うと、牧師が絶対的な権威をもって、またマインド・コントロール的な手法によって信者たちを支配しているという問題です。私は長年、エホバの証人などと接して、また彼らの出版物を読んで、マインド・コントロールの仕組みやテクニックを熟知しているつもりです。まず、神の権威を主張する指導者がいます。その人は神の代弁者、あるいは神の油注がれた器とされているので、そのリーダーの言うことを聞いていれば、神のみこころにかなった生き方ができて、神の祝福に預かることができるというのです。しかし、その人に逆らえば、それは神に逆らうことになるので、不従順な人は必ず、神に裁かれるということになります。こうした脅しに屈して、神の器に依存するようになった信者は、自分で物事を考えたり、判断したり、決断したりする力が低下していきます。やがて、リモコンで操作されるロボットのような存在になるのです。ここに、マインド・コントロールの最大の悲劇があります。人間としての成長が止まってしまうことです。私は、このような巧妙な手を使って、自信のない現代人を奴隷にするのは、エホバの証人やモルモン教、あるいは統一協会だけだと思っていました。しかし、驚いたことに、マインド・コントロールを使う牧師たちもいたのです。
先日、30代と思われるあるクリスチャン男性から電話がかかってきました。その方は、健全なプロテスタント教会に属していましたが、同じ職場に別の教会に通っている人がいて、その人に誘われて、その人の教会の礼拝に一度、出てみたそうです。すると、礼拝後すぐに、牧師にこう言われたというのです。
「あなたは、聖霊に導かれて、この教会に来ました。ですから、今後も続けて、この教会の礼拝に出れば神に守られますが、来るのを止めてしまえば、あなたの身の安全は保障できません。来なくなった人がよく死ぬのです。」
電話をかけてくださった男性は、不安そうに「本当に、そういうことがあるのでしょうか」と尋ねてきたのです。私はその偽牧師に対する憤りが込み上げてきました。また、これもつい最近、聞いた別の教会の話ですが、このように公言している牧師がいるそうです。
「私は何人もの死人を、祈りによって生き返らせました。そのしるしが、私が神から特別に油を注がれた器であることの証拠です。私の言うことを聞いていれば、あなたも神の祝福に預かるでしょう。」
こう主張してはばからない牧師の教会に、多数の在日中国人がいるそうです。彼らはビザが切れていますが、牧師の命令によって日本に不法滞在を続けています。その目的は、日本で働いて、献金を牧師に捧げるためだということです。昨日、聖神中央教会の話をしましたが、牧師が10代の女の子数十人に性的虐待を加えたという前代未聞のスキャンダルは、永田保の権威主義にその原因があります。彼は教会の中で、神の偉大な指導者として崇められて、その言うことは絶対でした。ですから、女の子たちも、何を求められても、「ノー」とは言えなかったのです。このような話は山ほどあります。だからこそ、日本のマスコミも教会のカルト化問題に注目し始めた訳ですが、牧師たちは一体なぜ、権威主義に走ってしまうのでしょうか。
一つの大きな理由は、効果が抜群だからです。自信のない現代人は、権威をもって指示してくれる人を求めています。「自分で考える必要はない。私の言うことを聞いていれば良い」という人が現れれば、喜んでついて行きます。「奉仕をしなさい」と言えば奉仕をします。「早天祈祷会に出なさい」と言えば、出ます。「伝道しなさい」と言えば、伝道します。「献金しなさい」と言えば、献金をするのです。それが正しいことだと納得して、喜んで教会に仕えているのであればいいのですが、喜んでいるように見えて、実は単なる演技であり、神の器に認められるように、無理をしているだけなのです。また、言うまでもなく、何も考えずに、指示どおりに動いているだけですから、そこには何の成長もないのです。しかし、勘違いをしている牧師は、立派な信徒が育っていると思っています。自分の牧会が成功していると考えています。また、「素晴らしい牧師だ」と、外部から評価されることもよくありますが、教職者の務めは、何も考えない奴隷を作ることではありません。霊的に自立した大人の養成です。もう一度、エペソ書4章13節を見てください。「おとな」とは、人に頼らずに、自分で考えて、自分で判断して、自分で決断を下せる人です。人に言われなくても、自ら進んで行動できる人です。また、自分でやったことに対して、最後まで責任が持てる人です。教職者は、このような自立した大人の養成に力を注ぐべきです。言うまでもなく、このような弟子作りには、大変な時間とエネルギーと忍耐が必要です。また、一度に、沢山の弟子を養成できる訳ではありません。そこで、私たち人間は、「もっと簡単な、効率の良い方法はないだろうか」と模索するようになります。聖書の真理ではなく、効率アップが優先されます。ここに、セカンド・チャンスの問題と、教会のカルト化問題との共通点があります。伝道上、都合が良いから、セカンド・チャンスを語る。より多くの人を集めて、動かすことができるから、牧会にマインド・コントロール的な手法を取り入れる。非常に危険なことです。真理への愛を失うと、惑わしの力が働くようになるからです。

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます」(2テサロニケ2:9-11)。

牧師は、成功や名誉や実績を追求するあまり、真理を追究しなくなるようなことがあってはなりません。先生方もよく分かっておられることだと思いますが、これは、牧師にとっては大きな誘惑です。牧師も傷ついています。そのために、セルフ・イメージも悪くなっています。できることなら、大きな教会を作って、立派な会堂を建て、成功した牧師として認められたいのです。余談になりますが、500人以上の教会を作った牧師たちのエリート・クラブがあるという噂を聞いています。入会している人には申し訳ありませんが、そのことにどれほどの意味があるのだろうかと思ってしまいます。一生、その仲間入りが果たせそうにないという悔みからそう言っている訳ではありません。この世的な基準の設定に反発をしているのです。大勢のファンを集めることに成功した人よりも、地道に弟子作りに励んでいる無名の牧師のほうが立派だと思います。
何年か前の話になりますが、日本のキリスト教会でかなり期待されていた有名な伝道者と親しく交わりをしていました。彼の教会に招かれて、メッセージや異端セミナーもさせてもらいました。ある日のこと、彼との会話の中で、私が協力牧師をしている教会のことを聞かれました。開拓何年なのか、礼拝出席者数は何人なのかなどと質問されたので、何も考えずに、正直に答えました。
「開拓が始まってから、10年経っています。今のところ、30人くらい、集まっています。」
すると、「早く、100人教会にしなさい」と言われました。勿論、私を激励するために言ってくださった言葉だと思いますが、それをどう理解したら良いか、戸惑いました。100人教会になれば、それは嬉しいことですが、私は教会の成長は、聖霊のみわざだと信じていたので、「100人教会にする」というのは、とても傲慢な言葉に感じられるようになりました。有能な牧師は、何が何でも、とにかく努力をして、100人教会を作る。強いリーダシップを発揮して、信者たちを引っ張っていく。そこで初めて、一人前の牧師として認められる。もしかしたら、一部の牧師たちの間で、これが常識とされているのではないかと思うようになったのです。ちなみに、その伝道者は数年後に、女性スキャンダルを起こして、ほとんど、名前を耳にすることがなくなりました。

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです』」(マルコ10:42-45)。

ここに、聖書的な指導者の姿が描かれています。イエス様の足跡に従う指導者は、人々を支配しません。人々の上に権力をふるったりもしません。しもべとなって、人々に仕えるのです。

「あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてそうするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:2-4)。

ここにも、「その割り当てられている人たちを支配するのではなく」と書かれています。これはつまり、自立したクリスチャンの養成に関する勧めです。牧会者は、奴隷を作るように言われているのではありません。むしろ、そのような楽な牧会を避けるように戒められているのです。今あえて、「楽な牧会」という言葉を使わせていただきましたが、考えてみれば、独裁者のように命令を出して、人を動かすということは、ある意味では簡単なことです。人々に動機づけを与え、納得させて、自ら喜んで行動するように指導することのほうが、はるかに難しいと言えるのではないでしょうか。そのために、まず、指導者が自ら、模範とならなければならないからですが、これこそ、主から与えられたチャレンジです。「むしろ群れの模範となりなさい」と3節の後半に書かれている通りです。
6年前に、『教会がカルト化するとき』の著書を出した時に、「牧師の霊的権威はどうなるのか」と、多くの方から聞かれました。「指導者に従いなさいと聖書に書いてあるでしょ」と言われることもありました。確かに、今読んだ個所の次の5節にも、「長老たちに従いなさい」とあります。ですから、私は「牧師に従うな」と語っている訳ではなく、霊的権威の乱用について警鐘を鳴らしているだけです。
私がカウンセリングをした、ある姉妹の話です。その女性は、独裁者のように振る舞っている牧師の行動に対して、何度か声を上げようとしましたが、その後、教会の公の文書の中で、名指しで「サタンの手先」と書かれてしまったそうです。また、講壇から、こんなメッセージが語られているということです。
「例え牧師が間違っていても、教会員は従わなくてはいけない。神は、教会員にその責めを負わせない。負うのは牧師だから。神は牧師にビジョンを与え、信徒を導くよう、その器を選んだのだから。牧師が間違っていて、信徒が正しい、ということもある。しかし、神は、信徒ではなく、その牧師を器として選んだのだから、神が結果的に『牧師が正しい』という結果をくださる。」
このような屁理屈によって、沈黙させられている羊が沢山いると思いますが、それにしても、霊的権威を乱用して、羊を痛めつけているにせ牧師たちにとっては、非常に都合の良い考え方です。また、言うまでもなく、これは聖書の曲解です。確かに、聖書は指導者に従うように、私たちに教えています。しかし、それは、指導者が聖書的な指導者としての条件を満たしている場合のみです。しもべとして群れに仕え、群れの模範となり、聖書を忠実に語っているなら、私たちは勿論、指導者に従うべきですが、権威を振りかざし、人の話に耳を傾けず、勝手な要求を出し、みことばに反する命令を下すなら、その指導者に従ってはならないのです。つまり、聖書的な従順は、自分の頭を捨てて、自分の人生に対する責任を放棄し、何も考えずに、ただ闇雲に従うということではないのです。もし、それが聖書が教えていることであれば、私たちは「神の器だ」と主張する、どのような人間にも従わなければならなくなってしまいます。そうです。神学的な教育を受けていようといまいと、新生体験があろうとなかろうと、精神状態がどうであろうと、「私は神の選んだ器です」と主張する人がいれば、従わなければならないということになってしまうのではないでしょうか。果たして、主がこんなことを私たちに望んでおられるのでしょうか。そんなはずはありません。なぜなら、「にせ使徒、にせ預言者、にせ教師に注意せよ」と、沢山の聖句にはっきりと書かれているからです。結局、私たちは偽物と本物とを見分けられるようにならなければならないのです。
ペテロのみことばに戻りますが、私はこの3節に、聖書的牧会の原点があると思っています。独裁者となる誘惑を振り切って、しもべに徹することです。しかし、牧会に伴う傷が多くなればなるほど、疲れやストレスが溜まれば溜まるほど、世的な知恵が身に付けば付くほど、私たちは権威を振るいたくなります。
「牧師の言うことが聞けないのか。」
「私は、あなたがた一般信徒よりも、聖書がよく分かっているのだから、くだらない質問をしたり、疑問を抱いたりしないで、素直に私の考えに従えばいい。」
「牧師の言うことを聞かない人は、聖霊に背いている。分派の霊に取りつかれている。」というような言葉を言いたくなります。また、一旦、絶対的な権力の味を占めてしまうと、また王様扱いを経験すると、なかなか、やめられなくなります。余談になりますが、永田保が海外に出かける時など、教会のスタッフ数十人が先に空港に行き、ターミナル・ビルに入り、2列に並び、永田はその真ん中を通りますが、その時、スタッフ全員が深々とお辞儀をして、「行っていらっしゃいませ」と大きな声で見送ったそうです。しかし、上には上がいます。東北のある大きな教会では、スタッフが牧師室の前を通る時に、お辞儀をするようにと訓練されています。牧師がいても、いなくても、です。その教会で牧師が何かに視線を向ければ、みんな、「先生は何を見ておられるのだろうか」とその視線を追います。牧師が指を動かせば、みんな、飛び上がるのです。これは、大袈裟な話ではありません。神の権威を主張する人は、その権威を認める人々に対して、驚くほどの影響力を持つようになります。神の代弁者とされている訳ですから、その言うことは絶対です。どんなことを言っても、返って来る返事は、「はい」です。どんな要求をしても、「ノー」と言う人はいません。極端な話のように聞こえるかも知れませんが、「新しい車が欲しい」と言えば、何日もしないうちに、新しい高級車が家に届けられるのです。ペテロは、このような異常事態が発生する可能性があるということを知っていました。だからこそ、2節で、「卑しい利得を求める心からではなく」と牧会者に注意を与えています。このような誘惑に打ち勝つためには、どうしたら良いのでしょうか。「私は主と共にいる者だ。私はキリストにある者だ」という信仰の原点、聖書的アイデンティティーに立ち返ることです。第3セッションの復習になりますが、キリストの十字架のゆえに、完全に神に受け入れられて、義と認められている恵み、主と共に歩んでいれば、主が私たちの手のわざを祝福してくださり、みこころにかなったことをなしてくださるという恵み、人の評価がどうであろうと、主が私たちの奉仕を喜んでくださり、それに報いてくださるという恵みに立つことです。

「そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです」(1ペテロ5:4)。

20世紀の初め頃の話ですが、ある有名な伝道者がニューヨークから舟に乗って、ヨーロッパに行きました。そして、ヨーロッパの各都市で伝道集会を行なったのですが、その一つ一つが素晴らしく祝福されて、多くの人々が救われました。いよいよ、集会のスケジュールを終えて、アメリカに帰ることになりましたが、舟の中で、伝道者は考えました。「ニューヨークのクリスチャンたちはヨーロッパの集会のうわさを聞いているだろうから、きっと港まで迎えに来てくれているだろう。」 港に着くと、大勢の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちもいました。皆、手を振ったり、大きな声で叫んだりしています。伝道者は思っていた以上の出迎えに、感動しました。しかし、次第に、この人々が自分を迎えに来たのではないということに気が付きました。たまたま、アフリカの狩猟旅行から帰る、ルーズベルト元大統領が同じ舟に乗っていたのです。がっかりした伝道者は、電車に乗り換えました。そして、電車の中で、彼は思いました。「教会の人たちはきっと、駅まで迎えに来てくれているだろう。そうだ。みんな、駅で待っているに違いない。」駅に着いてみると、やはり、沢山の人々が集まっていました。ブラス・バンドの人たちも並んでいました。ところが、分からなかったのは伝道者ばかりで、また大統領が同じ電車に乗っていて、同じ駅で降りることになっていたのです。そうです。人々はルーズベルト元大統領を迎えに来ていたのです。伝道者は一人で、自分の家に向かって、歩き始めました。重い荷物を持って、既に暗くなっていた町の中を歩きながら、彼は祈りました。「神様、これは不公平ではありませんか。人々は狩猟旅行から帰った大統領のために大勢で迎えに来るのに、主の御用のためにヨーロッパまで行って来た私を迎える人は一人もいません。故郷に帰っても、何の出迎えもないのは、寂しすぎるのではありませんか。」 こうして泣きながら祈っていると、聖霊の声が、彼の心に響きました。「我が子よ、あなたはまだ、自分の故郷に帰ってはいない。」そうです。私たちはまだ、故郷に帰っていません。私たちの故郷は、天国です。この世にあっては、私たちを迎えに来てくれる人はいないかも知れません。私たちの労は報われないかも知れません。しかし、それは天に帰るまでの話です。天の故郷に帰ったら、私たちは主からのねぎらいの言葉をかけていただけるでしょう。豊かな報いがいただけるでしょう。
 「愛をもって真理を語り」とエペソ書に書かれています。ここに、日本の福音宣教の希望があると私は信じています。真理の伝達と、真理の実践です。セカンド・チャンスは伝道に使えそうな教えに聞こえるかも知れません。素晴らしい教えだと、多くの人々に歓迎されるかも知れません。しかし、聖書に基づいた真理ではないので、セカンド・チャンスを語ったところで、日本に真のリバイバルが起こるはずはありません。聖霊は、真理の御霊です。真理が語られる時にだけ、働いてくださるのです。また、教会に権威主義的な体質を作ったほうが、教会員もまとまるし、みんな奉仕熱心になるし、多く捧げるようになるし、大きな働きができるという考え方がありますが、沢山の人を動かすこと、あるいは大きな働きをすることが必ずしも、主の栄光を現すとは限りません。主のみこころは、信徒が健全なみことばによって養われ、自立した霊的おとなに成長することなのです。

アドバンスト・スクール・オブ・セオロジー2008年9月8日

 最近、自分のアイデンティティーのことで悩むことがあります。「あなたはハーフですか」と、何度も人から聞かれることがあります。また、不思議なことに、真顔で「日本人ですか」と質問してくる人もいるのです。アメリカに帰る時には、「東洋人っぽい顔だね」と言われたりします。32年も日本に住んで、ずっと日本語で生活をしていれば、多少、顔も変わるのでしょうか。実は、最初に来日した時、私はそのように望んでいました。いかに日本人のようになり、日本人のように日本語を話し、日本人に受け入れてもらえるか、そのことばかりを考えていました。しかし、今、「あなたは日本人ですか」と聞かれると、びっくりすると同時に、戸惑いを感じます。「私は何人なのだろうか。アメリカの国籍を持っているのに、日本人になってしまっても良いのだろうか」と悩んだりしますが、いつも、慰めになる聖句があります。

「私はすべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」というパウロの言葉です(1コリント9・22)。

私の出した結論は、主から与えられた才能を生かし、人々に仕え、神のみこころを行なうことができれば、何人であっても良いのではないか、ということです。神と共に歩む限り、胸を張って、また自信を持って、堂々と生きていけます。モーセが主の召命を受けた時に、「私はいったい何者なのでしょうか」と主に尋ねています。主の答えは、「わたしはあなたとともにいる」です。「私は主と共にいる者だ。」これが私のアイデンティティーです。
アイデンティティーの話と、セカンド・チャンスの話は関係がないと思われるかも知れませんが、実は、深い関係があるように私は感じています。セカンド・チャンス論が浮上して、また広がっている一つの理由は、日本人のアイデンティティーの危機にあるのではないかと思うのです。28年間、カルトの問題とかかわってきた中で、私は多くの若者と接したり、カウンセリングをしたりしています。色々なケースがありましたが、ほとんどの人に共通している問題が存在しています。自信がない、自分のアイデンティティーが分からない、これといった信念がない、自立していない、ということです。現代人の主だった特徴は、自信の無さだと思います。自信がないからこそ、カルトに引っ掛かってしまうのです。彼らは、精神的な安定、心の平安を求めて、カルトに入信します。この世の中が複雑になり、洪水のように情報が氾濫している中で、多くの人々は不安を覚えています。何を信じたらよいか、どんな生き方をすれば良いか分かりません。多くの現代人にとっては、自分で考えて判断し、自分の人生に対して自分で責任を持つということは、とても苦手なことなのです。その理由については、様々な説が唱えられています。まず、情報社会が受け身の人間を作っていると言われます。また、詰め込み教育が考えない人間、自分で考えようとしない人間を生み出してきたとも言われています。さらに、生活が便利になるに連れて、面倒臭いことには手を出したくない、なるべく楽をしようという若者が増えていると聞きます。こうしたことを考えますと、現代人は影響されやすく、またコントロールされやすい性質を持っていると言えるでしょう。彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのです。複雑な今の世の中で、多くの人間は迷っています。特に、経験に乏しく、人生問題を真剣に考える機会を持ちにくい若者たちは、自信を失っています。権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には、彼らは非常に弱いのです。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する宗教団体があると、その言葉に飛び付くのです。自分で考える苦悩を省くこともできるし、安心感を覚えることもできるからです。
しばらく前に、とても奇妙な話を聞きました。ある宗教団体に属する若者が、グループの指導者と共に、長野県に行ったそうです。そして、「せっかく信州に来たのだから、おいしいソバでも食べよう」と指導者が誘うと、若者は黙って、一緒にある店に入ったのですが、その若者は、実は、おソバに対するアレルギーがあったのです。さて、その青年はどうしたのでしょうか。おソバを食べて、救急車で病院に運ばれることになってしまった、というのです。「神の人の誘いだから、断ってはいけない」と、若者は考えたそうです。そして、その「命懸けの従順」が教団の中で美談になっています。
このように、自分で考えることも、判断することもできない、若者が実に多いのです。自分のアイデンティティーなどなく、教祖のリモコンで操作されるロボットのような存在になっているのです。勿論、これはカルトだけではなく、日本社会のあらゆる所、つまり家庭においても、学校においても、職場においても見られる現象です。自分の個性を抹消し、自分をグループに合わせ、グループの権威に従うように圧力がかかります。個人の問題、個人の気持ち、個人の希望などは二の次です。グループの利益やグループの和が最優先されます。そして、グループの方針に従わない者は、切り捨てられるのです。これは言い過ぎになるかも知れませんが、日本という国そのものが、一つの巨大なカルトになってしまっていると感じることさえあります。自分を否定して、グループのために多大な犠牲を払っている人々は、それなりにグループからの評価を得たり、報酬も与えられたり、あるいは生き甲斐を感じたりします。しかし、色々な方とカウンセリングをしていると、彼らは本当に幸せなのだろうかと考えてしまいます。会社の利益のためにあくせく働くサラリーマンがいます。子供がまだ起きないうちに家を出て、早朝の満員電車で会社に通う。納得がいかなくても、何も言わずに、上司の命令に従わなければならない。残業させられても、文句が言えない。休暇が取れるはずなのに、皆の顔色を見て、遠慮する。最終電車で家に帰って、子供の寝顔を見てから布団に入る。このような生活では、健全で幸福な夫婦関係も、親子関係も、築けるはずがありません。しかし、会社のためだから、仕方がないということで片付けられてしまいます。皆さん、個人の犠牲がどんなに大きくなっても、グループの利益や拡大が優先されるというのは、これはまさにカルト的体質です。今現在、日本人の大多数は、この体質に疑問を感じながらも、仕方のないこととして受け入れています。しかし、この体質に反抗している人々の数も増えています。日本のひきこもり人口がどれくらいになっているか、ご存知でしょうか。ひきこもりは120万人もいると推定されています。彼らは自分の部屋に閉じこもって、何ヶ月も、あるいは何年も出て来ません。テレビを見たり、マンガを読んだり、ビデオ・ゲームで遊んだりして、時間を過ごします。親が食事を作って、ドアの前に置きます。あるいは、食費を与えて、好きなものを出前で頼んでもらったりしますが、顔を合わせることがほとんどありません。ひきこもりの原因として、幾つかのことが考えられます。学校でいじめられたこと、親との共依存的な関係の中でアダルト・チルドレンにされてしまったことなどですが、かなりのケースに共通している問題は、自分の個性を否定して、自分をグループに合わせることができなかったということです。自分らしく生きようとしたけれども、村八分にされてしまった。傷つけられてしまった。だから、自分の個性を無くして、グループのためにひたすら犠牲を払う人生は嫌だと思って、また、自分でない自分を演技することがもうコリゴリだと言って、自分の世界を作ってしまう訳ですが、日本の社会の在り方に対する、彼らなりの抵抗だと言えるのではないでしょうか。「私という一人の人間を見てください。私のアイデンティティーを認めてください」と、彼らは叫んでいるのですが、学校や保険所は全くと言って良いほど、彼らの叫びに耳を傾けません。訪問することもしません。
聖書教育が進んでいる国では、人の個性が尊重されます。人が個人として自立した人間になることが、教育の目標とされます。そして、それが民主主義、あるいは資本主義の基本であると言われているのです。今、激変する世界で生き残る企業は、従業員をロボットのように動かしている企業ではなく、独創的な発想ができる人間を養育している企業です。人間はそれぞれ、ユニークな者として、神に造られています。人と違って、当たり前です。顔も、声も、才能も、考え方も皆、違います。ですから、人間としてのアイデンティティーというのは、神から与えられた賜物を発見して、それを神のために、また人のために活かす時に確立されます。アイデンティティーは、神と共にいる私です。しかし、日本の社会では、アイデンティティーは、グループと共にいる私です。あるいは、グループの中に埋もれて、見えなくなった私です。グループのために自分を完全に否定した私です。前置きがとても長くなってしまいましたが、アイデンティティーの問題と、セカンド・チャンスの問題との関連について、考えてみたいと思います。日本人は幾つかのグループに所属することによって、アイデンティティーを見出そうとしますが、その一つは、日本という国家です。日本人という国民の一人として、生きています。このグループの中で、自分がどうあるべきかという責任を持つと同時に、ある種の安心感、または誇りを持っています。この国民的プライドに、セカンド・チャンスが広がった要因があるのではないかと思うのです。つまり、セカンド・チャンスを支持することによって、「私たちの先祖はクリスチャンではなかったけれども、立派な生き方をしていたから、きっとハデスの慰めの場所で福音を聞き、やがて救われるはずだ」という論理が成り立ちます。一方、セカンド・チャンスがないとした場合、キリストを信じなかった先祖たちは滅びたということになるので、日本人としてのプライドに傷が付くのです。もっと具体的にお話ししましょう。これは、日本人の過去の偶像崇拝の歴史を罪として認めるか、認めないかという問題なのです。ローマ人への手紙1章18-25節を読みましょう。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」

このまま、日本という国に当てはまる聖句ではないかと思います。日本はこれまで、造り主なる神に背き、偶像を崇拝し、神の怒りを買ってきました。そして今も、悔い改めないこの国の上に、神の怒りが臨んでいるのです。このことを事実として受け止めるかどうかによって、今後の福音宣教に大きな影響が出ると考えます。勿論、私は別に、日本人を責めている訳ではありません。私も一人のアメリカ人として、自分の国の罪を恥じています。奴隷問題、ベトナム戦争やイラク戦争での虐殺や数々の悲劇があります。私の所属する教団の八ヶ岳中央高原キリスト教会の信者さんで、広島の被爆者の方がいます。森本さんとおっしゃる姉妹で、3年前に、初めて森本さんの体験談を聞きました。私は2度ほど、広島の原爆の資料館を訪ねているので、知識として原爆の恐ろしさを知っているつもりでしたが、実際に被曝された方の話を聞いて、大きな衝撃を受けました。原爆が投下された時、森本さんは中学生で、爆心地からわずか3キロしか離れていない学校の教室で、掃除をしていたそうです。たまたま、しゃがんで雑巾で床を拭いていて、教壇の大きな机の後ろにいたために無事でしたが、原爆が投下された瞬間は、教室が紫色の光に包まれて、目の前でフラッシュをたかれたように感じて、数分間、目が見えなくなったそうです。他のクラスメートは教室の窓ガラスの破片を全身に受けて、血だらけになっていたそうです。また、校庭に出ると、皮膚が焼け爛れている人がいたり、死体の山があったりしたそうです。森本さんは結局、奇跡的に外傷はなかったのですが、放射能を浴びていたので、2ヶ月間、下痢と歯茎の出血で、寝たきり状態になりました。更に、その数年後に健康診断を受けると、子宮や卵巣などが全く発達しておらず、子供が産めない体になっていることが判明しました。しばらく後で結婚されますが、御主人も被爆者で、長野県の原村でペンションを経営することになります。ところが、原村に引っ越してまだ間もない時に、御主人が末期の腎臓ガンであることが分かります。御主人は数ヵ月後に亡くなりましたが、森本さんはその時、心の底から「なぜ、こんなに不幸なことばかりが続くのか」と思われました。しかし、幼い時からクリスチャンとしての信仰を持っておられる彼女は、やがて、「何か、神の目的があるはずだ」と信じられるようになりました。結局、私たちの教団の代表が原村で開拓伝道を始めて、やがて、会堂を建設することになった時に、森本さんは教会員となり、会堂の建設をするにあたって、大きく貢献してくださり、やがて、「原村に導かれたのは、このことのためだった」と確信するようになったということです。
森本さんの証を聞いた後、一アメリカ人として、お詫びをしなければならないと思って、その旨を伝えました。すると、森本さんはすぐに、こう言ってくださったのです。
「いやいや、良いですよ。私はアメリカ人を恨んでいません。神の御手の中で守られて、感謝な日々を送っています。」
私はこの言葉に、深い感動を覚えました。また、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです」という、イエス様の十字架上のみことばを思わずにはいられませんでした。私は小さい頃から、耳にタコができるくらい、「原爆は、戦争を終わらせるために必要なものだった」と、何度も聞かされました。実は、第二次世界大戦の時に、私の父が海軍に入っていて、日本本土に侵入するはずの部隊にいました。結局、原爆が落とされて、戦争が終わったから、日本の地を踏まずに、そのままアメリカに帰ったのです。ですから、原爆がなかったら、私は今、ここにいないと言えるかも知れませんが、私は長いこと、父から聞いた論理をそのまま信じていました。「原爆を落とすしかなかった。それで何百万人もの命が救われたんだ。」しかし、森本さんに出会ってからは、アメリカの罪の重さを認識するようになったのです。正直なところ、私は今、自分がアメリカ人であるということに誇りを持っていませんが、特に、そのことを大きな問題として捕えていません。私のアイデンティティー、あるいはセルフ・イメージに何の影響もありません。なぜなら、私のアイデンティティーは、神と共にいるという事実に基づいているからです。別の言い方をするなら、私はキリストにある者です。アメリカ人であるからではなく、キリストにある者だから、胸を張って生きていけるのです。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8:1)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(2コリント5:21)。

クリスチャンは、罪に定められることはありません。神の義となる、あるいは、神から義と認められます。素晴らしい行いをしたからではありません。キリストにある者だからです。キリストにある者は、罪が赦されています。キリストにある者は、神の豊かな恵みと祝福に預かることもできます。キリストにある立場は、特別なのです。そのことを分かりやすく表している話が、第2サムエル記9章にあります。メフィボシェテは、ダビデの命を狙おうとしたサウル王の孫に当たります。ですから、本来なら、ダビデの敵です。また、サウル王の子孫なので、ダビデの王位を脅かす存在にもなり得ます。しかし、ダビデはメフィボシェテに対して、恵みを施しました。なぜでしょうか。メフィボシェテの父、ヨナタンのためです(1、7節)。ヨナタンはダビデの親友でした。ダビデはヨナタンのことを愛し、尊敬し、その勇気ある生き方を高く評価しました。ですから、王になっても、ヨナタンに王国の重要なポストを任せようと考えていたのですが、ヨナタンはピリシテ人との戦いで、殺されました。しかし、それでもダビデはヨナタンのために、何かしてあげたいと思って、その息子メフィボシェテを宮殿に呼び、彼に恵みを施した訳です。メフィボシェテは、一生涯、王の食卓で食事をすることが許されました。彼は、足が不自由で、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいます。皆さん、死んだ犬には、どれくらいの価値があるのでしょうか。何年か前のことですが、ある日、信号待ちをしていると、電柱に張ってある、一枚のポスターが目につきました。『犬を探しています』と書いてありました。一見、どこにでもあるような感じのポスターでしたが、よく見ると、なんと、飼い主が犬を見付けてくれた人に十万円の賞金を出す、というのです。「よほど犬を愛している人だなー。きっと高価な犬だったんだろうなー」と思いながら、犬に関する細かい説明を読んでいきましたが、驚いたことに、「老犬」、「耳が聞こえない」と書いてあったのです。そのポスターを見た時、私は色々なことを考えさせられました。冷静に考えれば、耳も聞こえず、何の役にも立たない老犬のために、十万円もかけるなどということは、非常識なことです。しかし、飼い主は、犬を愛しています。たとえ、年を取っていようが、耳が聞こえなくなっていようが、そのいなくなった犬を見付けるためには、お金を惜しまないのです。メフィボシェテは、自分のことを「死んだ犬」と呼んでいますから、老犬よりも、更に評価額が下がります。メフィボシェテは、ダビデのために、何ができるのでしょうか。何もできません。普通に考えると、彼はダビデからの恩恵を受ける資格はないのです。しかし、それにもかかわらず、メフィボシェテは、ダビデの恩恵に預かりました。素晴らしい特権を与えられました。一体、なぜでしょうか。ヨナタンとの親子関係にあったからです。他に、何の理由もないのです。すべて、ヨナタンの人格の良さ、ヨナタンの立派な行い、ヨナタンの勇敢な生き方、ヨナタンがダビデに示した親切のお陰です。ヨナタンの実績なのです。
私たちクリスチャンは、神の豊かな恵みをいただきます。その資格がないのに、堂々と、恵みの御座に近づくこともできるし、王の食卓に付くこともできます。どうしてですか。私たちが何か、良いことをしたからでしょうか。いいえ、キリストにある者だからです。父なる神は、キリストの十字架の功績のゆえに、あふれるばかりの恵みを注いでくださるのです。私たちは今、キリストにあって、全く100パーセント赦されて、受け入れられて、愛されています。この恵みの福音にしっかりと立つ時に、言葉では言い表せない平安を経験します。健全なセルフ・イメージを持つようになります。神の愛の中で守られながら、神の力によって、神と共に、積極的に生きていけるようになるのです。
こうして、クリスチャンは神との個人的な関係の中で自分のアイデンティティーを確立させる訳ですが、グループに所属することによってアイデンティティーを見出そうとする者は、本当の平安を味わうことは決してありません。それは、自分に対するグループの評価がいつ変わるか、分からないからです。グループから求められる厳しい条件を満たすことができなくなる恐れがあるからです。「グループに迷惑をかけないように」、「グループの和を乱さないように」、「グループに嫌われないように」といつも気を使いながら、緊張の中で生活しています。少しでも、グループから批判されると、あるいはグループが外部の人に問題を指摘されて、否定されたりすると、不安になるのです。ここで、誤解されないように、一言、説明を加えさせていただきますが、私は別に、何かのグループに所属することを否定している訳ではありません。人間社会で生きていくうえで、どうしても、色々なコミュニティーのメンバーとして責任を果たさなければならないのですが、私がここで問題にしているのは、どこにアデンティティーを見出すかということです。どの関係の中で、生きる意義を見出すかということです。「私はまず、第一に、日本人です。」「私はまず、会社の人間です。」このように考えるなら、私たちは必然的に、そのグループの計画や利益を優先していかなければならないということになります。神が何を望まれるかではなく、グループが何を望むかを考えるようになります。いかに私のユニークな才能をフルに用いられるかではなく、いかに自分をグループに合わせられるかということが重要課題になります。また、場合によって、グループを擁護するために、真理に目をつぶらなければならないという問題も出て来るのです。セカンド・チャンス論が持ち上がって、人気を集めているのは、「日本人のプライドを守らなければならない」という思いが強いからではないでしょうか。久保氏は、『聖書的セカンドチャンス論』の中で、盛んに、欧米の人々の「個人主義」に言及しています。強い個人主義に生きる欧米人は、「イエス・キリストを信じない者は地獄に落ちる」というメッセージを聞いて、何のためらいもなく信仰の決心をする。しかし、日本人は自分さえ救われれば良いとは考えることができず、自分の亡くなった先祖はどうなるのかということが気になる。それだからこそ、日本人をクリスチャンにするためには、「セカンド・チャンス」を説くことが必要であると言います。こうして、久保氏は欧米社会の個人主義を批判し、「日本人には優しい心がある」と言って、日本国民の弁明をしたり、優秀性を訴えたりする訳です。私はここで、その点を論じるつもりもないし、欧米社会を擁護するつもりも全くありません。問題にしたいのは、聖書の真理です。久保氏は、日本人としてのアイデンティティーを重要視するあまり、聖書の真理を曲げ、聖書の中に、セカンド・チャンスを裏付ける個所がないのに、無理な解釈をして、「聖書的セカンド・チャンス論」を掲げていることに対して、口を閉ざす訳にはいきません。
私は、30年余りの働きの中で、何度も、このパターンを見てきました。その一つの実例をお話しします。15年ほど前から、JEAの社会委員会の委員となっております。社会委員会は、靖国神社の問題などの社会問題を取り上げると同時に、カルト問題にも取り組みますが、5年ほど前に、静岡県のある教会で、信徒が牧師から暴力を受けているという情報を入手しました。その後、直接、被害者たちとも会って、事実であることを確認しました。私は以前から、教会のカルト化問題に注目していましたが、社会委員会の中で、教会内の権威主義やセクハラや暴力の問題について、JEAから声明文を出して、警鐘を鳴らすべきではないかということになりました。私が書いた声明文はまず、社会委員会の承認を得てから、理事会に回されました。「牧師は独裁者ではない。群れに仕える者だ。お互いにそのことを確認して、悔い改めよう」というような内容の声明文でしたが、意外にも、理事会で、却下されてしまいました。その2年後に、今度は京都にある聖神中央教会の問題が明るみに出ました。これは、皆さんの記憶にもまだ新しいと思いますが、永田保という牧師が、10代の女の子に性的虐待をした疑いで、逮捕された事件です。余談になりますが、どのように逮捕されるようになったかと言うと、一人の被害者の母親が私の著書『教会がカルト化するとき』を読まれ、勝手に振る舞う独裁的な牧師の言いなりになることはないと考えて、勇気を出して、警察に被害届を出し、結局、それがきっかけとなって永田牧師の逮捕に至った訳です。永田牧師が逮捕された直後から、私たちのところには、日本のマスコミからの問い合わせが殺到しました。「日本のキリスト教会は、この問題をどう捉えていますか。対応策はどうなっていますか」と何度も聞かれました。そこで、再び、社会委員会から声明文を出すことになりました。今、手を打たないと、日本のキリスト教会はますます、世の人々の前で恥をさらすことになると警告しましたが、再度、理事会で却下されることになってしまいました。その理事会に出席していた社会委員会の委員長の説明によると、「理事の中にも権威主義的な牧師が多過ぎたために、却下されてしまった」のだそうです。確かに、権威主義を批判する声明文を出すと、自分の立場が危うくなると心配した先生がおられたのでしょう。しかし、理由はそれだけではないはずです。臭いものに蓋をして、JEAの名誉を守りたいという思いも働いていたのではないでしょうか。このことに対して、私が深い失望感と共に、憤りを感じたのは、いうまでもありません。ニュースレターの中で、声明文が実現に至らなかったことを記事にしたところ、こう言うと語弊があるかも知れませんが、後から当時の会長に呼び出され、お説教をされました。「日本人でもないのに、日本のキリスト教会を批判するとは」といった内容のことを言われたのです。その時、私は「先生、カルト問題について、何かご存知ですか」と聞いてみたのですが、「あなたの本を持ってはいるけど、まだ読んでいない。『悪魔の顔を見たら、悪魔のようになる』と諺にあるから、カルト問題にはかかわりたくないんだ。」という答えが返ってきました。
もう一度、言わせていただきます。私たちがキリストにあるアイデンティティーを確立させる時に、絶対的な平安を持ちます。また、人にどう思われようと、神の前で正しいことを実行する力が与えられます。しかし、自分の所属するグループにアイデンティティーを見出そうとすると、どうしてもそのグループの利益や都合が優先され、真理や真実がないがしろにされてしまうのです。今年に入ってから、また、幾つもの教会や牧師の問題が一般の雑誌に掲載されました。もう一度、JEAの社会委員会から声明文を出そうということになりました。正直なところ、私は余り期待していません。残念なことですが、日本のキリスト教会は、自浄作用がなくなってきていると言わざるを得ません。社会の悪を糾弾するという預言者の役目が果たせなくなっています。「まーまー、あまり波風が立たないようにしよう。あたたかく見守ってあげよう。赦してあげよう」という対応しかできないのです。
私は、カルトとの戦いで疲れを覚えた時など、よくエレミヤ書を開きます。ご承知のように、エレミヤは25年間、神から導かれた通り、ユダの民の罪を指摘して、悔い改めを促しましたが、エレミヤのメッセージを受け入れて、神に立ち返った人は、一人もいませんでした。エレミヤは民から拒絶されただけでなく、激しい迫害も受けました。牢屋に入れられたりもしました。しかし、エレミヤは何をされても、主から与えられたメッセージを最後まで、忠実に語り続けました。どうして、そのことができたのでしょうか。彼のパワーの源は何だったのでしょうか。
「次のような主のことばが私にあった。『わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。』そこで、私は言った。

『ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいか分かりません。』すると、主は私に仰せられた。『まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ』」(1章4-8節)。

「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ。」ここにエレミヤの信仰生活の秘訣がありました。主が共におられるのであれば、人からどう思われようと、何をされようと、そんなことは問題ではありません。「受け入れられても、受け入れられなくても、理解されても、されなくても、主のみことばを語ろう。」彼はこの決意に立って、委ねられた任命を全うしたのです。
私はエレミヤのようになりたいと望んでいます。うるさがられることがあっても、「日本の教会を混乱させている」と批判されるとしても、「日本独特の事情が分かっていない」と言われたとしても、妥協せずに、真理のみことばを語り続けるつもりです。
聖神中央教会の問題が報道されて、1ヶ月もたたないうちに、東京のお茶の水クリスチャン・センターで、教会のカルト化問題セミナーの講師として招かれました。集まった50人ほどの牧師や信徒に向かって、力の限り、教会の問題点を指摘しました。かなり、力が入っていたと思います。終わった後、一人の知り合いの牧師が寄って来て、こんなことを耳元で囁きました。「この頃、『ヒットラーに似ている』って言われることない?」ちなみに、その当時、私は口ひげをはやしていましたが、それにしてもショックでした。「イエス様のような顔に見えた」と言われたら嬉しいことですが、「ヒットラーに似ている」と言われて平気ではいられません。落ち込んでしまいます。もしかしたら、カルト問題に関わってきて、いやがうえにも厳しい顔つきになっていたのかも分かりません。しかし、後で思いました。「カルト化した宗教団体の人々や聖書を曲解する人間の目から見て、ヒットラーと同じくらい、恐れられる存在になったとしても良い」とさえ思う、ある種開き直った気持ちもあります。てやろうじゃないか。」私は人気コンテストで優勝するために、献身したのではありません。主のみこころを行なうために生きています。皆さんも、きっとそうだと思います。私とはまた別の戦いをされている方もいると思います。牧師として、感謝されることも、評価されることも、報われることもなかなかないかも知れませんが、妥協することなく、この世に迎合することなく、真理のみことばをまっすぐに説き明かしていきましょう。使徒パウロがテモテに言い残した言葉を思い出します。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」
あと何年、この働きができるか分かりませんが、最後の時には、パウロと同じみことばを告白しながら、この世を去りたいと思っています。

カルトの脱会者による自助グループ
元カルト信者の集い
 カルトの脱会者による自助グループ『いたんだ葦の会』が11月28日(月)午前10時半より、東京都東久留米市にあるカルト研究リハビリ・センターで開催されます。
学びのテーマは、『カルトと聖書 パート4』です。カルトはどのような目的で聖書を使うのか、カルト脱会後にどのように聖書を読めば良いかを学びます。参加ご希望の方は、真理のみことば伝道協会の本部まで、お問い合わせ下さい(090―8044―5751)。

マインド・コントロール問題対策DVD発売へ
 日本脱カルト協会より、『カルト:すぐそばにある危機』というDVDが制作され、発売されることになりました。若者はなぜカルトに惹かれるのか。どうして入信してしまうのか。そして、いったん、入ったらなかなか抜け出せないのはなぜなのか。ドラマ、シミュレーション、また実際の元カルト信者の体験談などから、カルト問題の謎を明らかにして行きます。定価は8,000円で高めですが、カルトの勧誘から学生を守るため、高校や大学などの現場で使えるDVDです。
ご注文は、ファックス046-263-0375、メール info@jscpr.org までお問い合わせください。

真理のみことば伝道協会主事
ウィリアム・ウッド
東京都東久留米市幸町
電話:090-8044-5751

「カルト宗教にだまされないために」ウィリアム・ウッド氏fromHarvest Time Ministries on Vimeo.