真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

聖書のミニメッセージ

罪の重荷

2012年2月16日(木)

 スチューアートというアメリカ人の話です。スチューアートはある時、車を運転していて、スーザンという18歳の女の人を引いて、死亡させてしまいました。酔っ払っていて運転していたスチューアートは、事故の直後に逮捕され、刑務所に入ることになりました。しかも、スーザンさんの家族から民事訴訟を起こされて、150万ドル(約1億5000万円)の賠償を求められました。結局、家族の勝訴になったのですが、家族は最後に、奇妙な要望を出しました。150万ドルではなく、936ドル(約10万円)だけを払えば良いと言って来たのです。但し、18年間、毎週金曜日に、家族宛に小切手を書いて、1ドルずつ、払ってほしいと言うのです。金曜日は、スーザンさんが亡くなった日です。

 150万ドルという大金を払わずにすんだスチューアートは、ほっと胸を撫で下ろしました。とても得をした気分で、彼は毎週、1ドルの小切手を、スーザンさんの家族のところに郵送しました。初めはどうということはなかったのですが、この毎週、繰り返さなければならないということが段々と苦痛になって来ました。小切手を書くたびに、自分の罪を思い出すからです。彼はそのうちに、憂鬱になり、とうとう、小切手が書けなくなってしまいました。それで、また、裁判沙汰になりました。スチューアートは、この罰は重すぎると、裁判官に訴えましたが、裁判官の判決は、「毎週、1ドルずつ、お金を払え」ということだったのです。

 自分の罪をずっと、負い続けなければならないということは、確かに苦しいことです。私たちは、人の命を奪うという罪は犯していないでしょうが、人を傷つけたり、恨んだり、憎んだり、赦せなかったりしたことがあります。私にもあります。そして、人に精神的、肉体的な苦痛を与えてしまったことを思い出す度に、胸が痛くなります。恥ずかしくて、仕方がないのです。しかし、聖書は言っています。

 「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ人への手紙8章1節)。

 「罪に定められることはない」とは、つまり、神の前で有罪判決を受けることはないということです。キリストにある者は、一切の罪が赦されています。清められています。私たちは義と認められているのです。

 コーヒーカップに、コーヒーを入れて、ふたをすると、当然のことながら、中のコーヒーが見えなくなります。見えるのはカップだけです。同じように、キリストにある者は、その全存在が、キリストの力やキリストの臨在に包まれています。言い換えれば、クリスチャンはキリストと結ばれている、あるいはキリストと一つになっているのです。ですから、父なる神の前に立つ時、神は私たちの罪など見えません。見えるのは、キリストの義だけです。キリストが全人類の罪を背負ってくださり、その代価を完全に支払ってくださったという事実だけが重視されます。だからこそ、クリスチャンは何の恐れもなく、また自分の罪を意識することもなく、確信をもって神の前に出られるのです。

 「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」(ヘブル人への手紙10章19節)。

 あなたの罪の重荷は、取り除かれていますか。

ヤベツの祈り

2012年2月16日(木)

 数年前に、自分の子供に『悪魔』という名前をつけようとした人のことがマスコミで報じられて、多くの人々を驚かせましたが、聖書の中に、「彼は苦しみをつくる」という意味の名前をつけられた人物がいます。その名前とは、「ヤベツ」です。

 「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、『私が悲しみのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけた。(第一歴代誌四章九節)。

 大変なお産だったのでしょう。ヤベツの母親は、余りにも苦しい思いをしたので、そのことが絶対に忘れられないように、ヤベツという名前を考え出したと思われます。私たち人間は、何かの苦しみを経験する時に、どうしても、自分の気持ちを周りの人間に理解してほしいという強い願望を持ちます。「私があなたのために、どれだけ苦労しているかを覚えておきなさいよ」と、発言をしたり、振る舞ったりするのですが、自分の苦しい気持ちのことで頭が一杯になっているので、自分の言葉や行動が周りの人間にどういう影響を与えているかを考えないのです。ヤベツの母親も、とにかく自分が苦しかったということが永遠に覚えられるように、子供に「ヤベツ」という名前を付けた訳ですが、後で、後悔したことでしょう。

 しかし、物心が付いて、自分の名前の意味を知ったヤベツは、少なからず、ショックを受けたはずです。そして、恐らく、こう考えたに違いありません。

 「僕は苦しみをつくる者だ。僕には、どんな希望があるのだろうか。どんな一生になるのだろうか。きっと、苦しいことばかりだろう。」

 結局、ヤベツは、生まれた時から、その運命が定められていたような、人生のレールが既に敷かれていたような人間でした。これは、現代社会の中でも、よくあることです。「あなたはこういう者だ」とレッテルを張られることがあります。あるいは、「あなたにはたいした能力などない」と評価されることもあります。残念ながら、ほとんどの人は、張られたレッテルを剥がそうとせず、人から言われた言葉をそのまま信じてしまうのです。また、直接、人から言われなくても、自分で自分の人生の行方を決め付けてしまうこともあるでしょう。

 「私はこういう状況の中で育ったから、こういう性格であるのは仕方がない。こういう生き方しかできないのは仕方がない。たいした知識も経験もないから、この程度のことしかできなくて当たり前だ」と、諦めてしまうのです。

 ヤベツも、初めは、定められていた運命の前で、諦めるしかないと思ったことでしょう。しかし、彼はある時から、真の神を求めるようになり、考え方ががらっと変わりました。神の力によって、自分の人生を変えることができる、と考えるようになったのです。ヤベツは決して、自分に与えられた運命を受け入れませんでした。本来ならば、苦しみの人生を歩むことになるはずでしたが、彼は大いなる祝福や繁栄の人生を求めました。

 「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた」(十節)。

 こうして、ヤベツは祈りによって、自分の宿命を祝福に変えてしまいました。あなたも、同じようにできるはずです。

神が人間となられた日

2012年2月16日(木)

 昔、ペルシアを治めていた、シャーアビスという王の話です。シャーアビスは、国民をよりよく理解するために、時々、変装して、一般 の人の間に紛れ込み、皆と交わりを持つことにしていました。ある時、一人の貧しい男の人を見付けて、彼のそばに座りました。色々な話をしたり、また、男の人の粗末な弁当を分けてもらって、一緒に食べたりもしました。その後、シャーアビスは定期的にその男の人を訪ねるようになり、とても親しくなったのですが、しばらくしてから、自分が何者であるかを、男に明かしました。王だということが分かれば、きっと何かの願い事を申し立ててくるに違いないと思って、シャーアビスはじっと男の人の反応を見ていました。しかし、呆気にとられた男は、ものが言えなくて、しばらく黙ったままでした。やっと、口が聞けるようになると、彼はこう言ったのです。

 「貴方様は、私のために宮殿を離れて、御位をお捨てになりました。私の粗末な食事を共にされ、私の苦しみや喜びを分ち合ってくださいました。貴方様は、他の人には富や地位 などをお与えになるかも知れませんが、私にはもっともっと価値のある贈り物、つまり、あなた御自身を与えてくださったのです。願わくは、ずっと私の友達でいてくださいますように。」

 クリスマスの日に、私たちは、主の主・王の王なるイエス・キリストが、天の御位 を捨てて、人間として生まれてくださったことを覚えます。天地万物の造り主、神ご自身が人間の姿を取られ、私たちの世を訪れてくださったことをお祝いするのですが、このクリスマスの驚くべき出来事によって、私たちは本当の意味で神の姿を見、また、神を知ることができるようになりました。しかし、そればかりではありません。神との親密な交わりに入ることが可能になったのです。ちょうど、貧しい男がシャーアビスと親しい友達になったように、私たちも神との親密な関係が持てるのです。

 「初めに、ことば(注:キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・・・・この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。・・・・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネによる福音書1章1、11-12、14節)。 これがクリスマスの素晴らしいメッセージです。神はもはや、私たちから遠く離れたような、知り得ないような存在ではありません。主は自ら私たちの世を訪れてご自身を現してくださり、そして今も、信じる者と共に住んでいてくださいます。私たちの話を聞いてくださり、またいつでも、私たちに豊かな恵みを与えてくださるのです。

 メリー・クリスマス!

こいつは大物だ

2012年2月16日(木)

 ローマ法王がニューヨークで国連の事務総長との約束に遅れそうになっていました。そこで、リムジーンの運転手に、優しく声をかけました。
「悪いけどね、もうちょっとスピードを出してくれないか。」 
ところが、運転手は答えました。
「いや、申し訳ございませんが、もう一回スピード違反で捕まったら、免許が取り消しになります。妻も、3人の子供もいますから、職を失うと、本当に困ります。ご理解ください。」

 すると、車を停めるように言ってから、ローマ法王は車を降りて、運転主席のドアを叩きました。「どうされましたか」と聞くと、「あとは、私が運転するからどいてください。」と言うのです。驚いた運転手は、ハンドルをローマ法王に譲り、後ろの座席に移動しました。ローマ法王は猛スピードでニューヨークの町を走り抜けました。しかし、余りにも乱暴な運転だったので、パトカーに止められました。警官は、仲間に言いました。
 「何様だと思っているか知らないが、絶対に許さん。交通ルールを守らないやつがどうなるか、思い知らせてやる。」

 しかし、1分もしないうちに、警官は動揺した顔をして、仲間のところに戻ってしまいました。
 「どうした。チケットを渡さなかったか。」
 「いやー。こいつは大物だ。超大物だ。」
 「一体、誰だ。ニューヨーク市長か。」
 「いや、もっと大物だ。」
 「じゃー。ニューヨーク州の知事か。」
 「いやー、もっと大きい。」
 「まさか、大統領か。」
 「いやー、もっと大きい。」
 「えー、大統領よりも大きい人と言ったら、誰がいるの。」
 「いや、誰が乗っているかはよく見なかったけど、何しろ、ローマ法王が運転手を務めているんだから。」

 しかし、後ろに乗っていた運転手は、どんな気持ちで、ローマ法王と警官との会話を聞いていたのでしょうか。ローマ法王に対する申し訳ない気持ちと、感謝の思いで心が一杯だったのでしょう。

 クリスチャンも、神の恵みを経験する時に、同じような気持ちになることがあります。ダビデ王は、詩篇の中で、次のように歌っています。
 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(8章3~4節)。

 造り主なる神は、ただご自分の愛と哀れみのゆえに、人間を覚えてくださり、その祈りに耳を傾けてくださいます。一羽の雀でさえ、神の前で忘れられることはありません(マタイ10・29~31)。あなたも、神に愛されています。その力強い御手の中で、守られています。あなたの人生のハンドルを神に譲り、肩の荷を下ろしませんか。周りの人々も、わっと驚く人生になるでしょう。

何も思い煩うな

2012年2月16日(木)

 ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないこと、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面 する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。

 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイによる福音書6章34節)。

 ここで、主イエス・キリストは、明日のことを神に委ねて、その日その日を精一杯に生きる生き方を教えておられます。明日は神のものであり、私たちは明日、起こるかも知れないことを心配してはなりません。明日の問題を今日に持ち込んではなりません。私たちは今与えられている今日という日を生きるべきです。明日は神のものです。ですから、明日の問題を今日に持ち込もうとする時、実際には神のものを盗もうとしていることになります。自分には持てないものを持ちたいと欲張る時、神が既に与えてくださったものでさえも、失ってしまうことがあるのです。

 北極地方に住むエスキモーは、絶対に自分の年齢を明かさないそうです。「何才ですか」と聞かれても、「知らないし、関心もない」と言います。それでもなお答えを迫られれば、時計を見てから、「そうだね。もうすぐ、一日だ」と返事をします。エスキモーは夜、眠りに落ちる時に、自分が現世に対して死ぬ と信じています。また、朝、目を覚ます時に、自分が甦って、そこから新しい人生が始まったと考えるのです。ですから、年齢を聞かれると、「もうすぐ一日だ」と答える訳です。北極地方での生活は、厳しさを極めるもので、一日、生存するだけでも、奇跡に等しいことです。一日、一日を生きるエスキモーは、明日への心配はありません。また、過去のことをくよくよすることも、全くないのです。

 思い煩うというギリシャ語は、「起こるかも知れないことによって引き裂かれる」という意味です。確かに、思い煩いは自己破壊的な態度です。人は自分の未知の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことです。私たちは、未来の不確実性とか、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。 聖書の中で、思い煩いを打ち消す秘訣が記されています。それは、感謝をもって祈ることです。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ書4章6~7節)。

 あなたは今日、神に祈りましたか。