真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

聖書のミニメッセージ

何も思い煩うな

2012年2月16日(木)

 ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないこと、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面 する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。

 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイによる福音書6章34節)。

 ここで、主イエス・キリストは、明日のことを神に委ねて、その日その日を精一杯に生きる生き方を教えておられます。明日は神のものであり、私たちは明日、起こるかも知れないことを心配してはなりません。明日の問題を今日に持ち込んではなりません。私たちは今与えられている今日という日を生きるべきです。明日は神のものです。ですから、明日の問題を今日に持ち込もうとする時、実際には神のものを盗もうとしていることになります。自分には持てないものを持ちたいと欲張る時、神が既に与えてくださったものでさえも、失ってしまうことがあるのです。

 北極地方に住むエスキモーは、絶対に自分の年齢を明かさないそうです。「何才ですか」と聞かれても、「知らないし、関心もない」と言います。それでもなお答えを迫られれば、時計を見てから、「そうだね。もうすぐ、一日だ」と返事をします。エスキモーは夜、眠りに落ちる時に、自分が現世に対して死ぬ と信じています。また、朝、目を覚ます時に、自分が甦って、そこから新しい人生が始まったと考えるのです。ですから、年齢を聞かれると、「もうすぐ一日だ」と答える訳です。北極地方での生活は、厳しさを極めるもので、一日、生存するだけでも、奇跡に等しいことです。一日、一日を生きるエスキモーは、明日への心配はありません。また、過去のことをくよくよすることも、全くないのです。

 思い煩うというギリシャ語は、「起こるかも知れないことによって引き裂かれる」という意味です。確かに、思い煩いは自己破壊的な態度です。人は自分の未知の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことです。私たちは、未来の不確実性とか、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。 聖書の中で、思い煩いを打ち消す秘訣が記されています。それは、感謝をもって祈ることです。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ書4章6~7節)。

 あなたは今日、神に祈りましたか。

中年女性の危機

2012年2月16日(木)

 数カ月前のことですが、テレビのニュースを見ていたら、平均年齢60歳という女性たちによって構成されたチアー・ガールのグループが紹介されていました。みんな、ミニスカートを履いて、踊ったり、大きな声で地元のフットボールのチームを応援したりしていましたが、「六〇代の女性にも色々な生き方があるんだなー」と思いました。彼女たちは、恐らく、チアー・ガールとしての活躍の中で、生き甲斐を感じていたのでしょう。

 「私は何のために生きているのだろう。」

 これは、多くの中年女性が悩むことだと思われます。20代から40代にかけて、子育てなどで忙しくて、さほど深刻に考えることはないかも知れませんが、子供が大きくなって、巣立って行くと、何か別 の生き甲斐が必要になります。

 また、もう一つ、中年の女性の悩みの種になる問題があります。つまり、年を取って、以前の外面 的な美しさが薄れて来るので、自分で自分がいやになってしまう、自分に対して不健全なイメージを持ってしまうということです。しかし、女性はどのように、この「中年の危機」と呼ばれている問題を乗り越えることができるのでしょうか。聖書の中に、一つの大切なヒントがあります。

 「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい」( テモテ二章九~十節)。

 ここで、神が女性のために計画してくださった人生が要約されています。それはつまり、良い行いに富んだ人生です。自分に与えられた才能・賜物・財産を、人のために、神のために用いることです。どんな小さな奉仕でも、かまいません。

 カルカッタの聖女と呼ばれていたマザー・テレサは、かつてこんな言葉を語りました。 「小さな仕事は、誰もやりたがらないという理由で、それを避けてはなりません。事実、小さすぎる仕事というものはないのです。私たち自身が小さいために、それらの仕事を小さく見てしまうのです。偉大な神は、それらの仕事の価値をご存じです。目の見えない人のために代筆をすること、苦しんでいる人の相談相手になること、手紙を郵便ポストに入れてあげること、これらの仕事は、小さな仕事に見えます。しかし、そのようなへりくだった場に、私たちは自分を置くべきです。大きなことをする人はたくさんいますが、小さなことをする人は少ないからです。私たちのする小さなことが、それを受ける人々に重大なメッセージを伝えてくれるのです。私たちが彼らを愛していることと、必要な時には、私たちはいつでもそばにいるということを。」

 このような生き方に挑戦する女性は、どんなに年を取っても、充実した毎日を送ることができます。また、外面 的な美しさが薄れても、魅力的な女性でいられるのです。

お母さん、神様の肌は何色?

2012年2月16日(木)

 1921年に、ポーランドの保守的なユダヤ人の家で生まれ育った女性は、2歳の時に家族と共にアメリカに移民し、やがて黒人の牧師と知り合い、結婚することになりました。相手がクリスチャンであること、しかも黒人であることで、家族からの猛反対に遭いましたが、女性は自分の決心を貫きました。すると、縁を切られ、死んだかのような扱いを受けたのです。想像を絶する心痛の中にあっても、女性は幸せな家庭を築き、12人の子供に恵まれます。しかし、黒人の父と白人の母を持つ子供たちも、やがて、「私は何者なのだろうか」と悩み始めます。お父さんほど肌が黒くないし、お母さんのように白い訳でもない。ある日、一人の子供が母親に尋ねました。

 「お母さん、僕は黒人なの?それとも、白人なの?」

 お母さんは答えました。

 「あなたは、黒人でもなければ、白人でもない。あなたは人間なんだ。とにかく、一生懸命に勉強して、立派な人間になりなさい。」

 そこで、子供は再び、母親に質問をぶつけました。

 「お母さん、神様の肌は、何色?」

 母親はしばらく考えてから、言いました。

 「神様の肌はね、ちょうど水のように、色がないの。」

 何という名答でしょうか。この母親の言うように、神の肌色はまさに、水のようです。神は白人ではないし、黒人でもありません。また、黄色人種でもありません。すべての人種を同じように愛され、平等に扱ってくださいます。聖書に書いてあるとおりです。

 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ書3章28節)。

 私たち人間はとかく、自分の人種や国籍や家の系図を重んじたり、誇ったり、それで優越感を持ったりしがちですが、そのプライドこそが、多くの争いの原因となっているのではないでしょうか。しかし、自分が神の前で罪人であることを悟り、キリストの十字架による赦しを体験する時に、肌色など、どうでもよくなります。十字架の前に立つなら、優越感が消え去り、憎しみの心も、打ち砕かれるのです。

 パウロは、長年、ユダヤ人と異邦人との間で続いていた争いが、キリストの十字架によって止んだ、と述べています。

 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々(注:ユダヤ人)からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。・・・敵意は十字架によって葬り去られました」(エペソ書2章11節~16節)。

 あなたも、キリストの十字架の前に立ち、「私の罪をお赦しください」と祈りませんか。きっと、肌色の違う人に対する見方が変わるはずです。

造り主なる神

2012年2月16日(木)

 日本語の『神』という字は、「示」偏と「申」というつくりから成っているもので、「示」は元々祭器を指しており、供え物を入れる器のことです。「申」は霊の世界からの発言を意味するもので、シャーマン(霊媒)と深い関係があります。古来の日本人は、自然現象を「神」として崇めました。これは「アニミズム」と言って、あらゆる物の内に魂を認める思想です。人間も、動物も、植物も、山のような無生成物も、信仰の対象となる「神」でした。また、亡くなった先祖も「神」として崇拝されました。人間が死んでも、その「魂」が家から余り遠く離れないと考えられており、収穫を祝福してくれたり、災いから守ってくれたりすると信じられていました。そこで、「神」を迎え、「神」と交流することを目的とした祭りも行われました。この他に、古事記に登場するような、神々もありましたが、大体において、日本古来の宗教では、神と人間との隔たりがありませんでした。人は神であり、神は人だったのです。以上のような神観念は未だに、日本の現代社会に深く根差しています。

 「初めに、神が天と地を創造した」と、聖書の第一ページのトップに記されています。同志社大学の創立者新島讓は、十八才頃(一八六〇年)、初めて漢文で書かれたキリスト教の書物を読んで、創世記一章一節の聖句を見て考えさせられました。 「なるほど、この世界のあらゆる物は、これを造った神様がいなくてはできないはずだ。机は大工が作ったものだ。しかし、その机を作った大工も、大工が用いた材木も、元はと言えば、決して人間の業でできたものではない。するとこの書物にある通 り、この世には真の神様というものがおられて、この天地万物を造り、ご支配していらっしゃるに違いない」と納得し、信仰の道へ入ったということです。

 「初めに、神が天と地を創造した。」

 この神によって造られなかったものは一つもありません。神は、人間をはじめ万物の創造者です。神は創造者であり、人間は被造物です。ですから、神と人間との間には本質的な区別 があるのであって、人間が神であったり、神になったり、また神を造ったりなどできるはずがありません。人間は造り主の前で、実にちっぽけな者です。神が造られた大宇宙のことを考えても、そのことがよく分かります。私たちが住んでいる銀河系には、2000億個から4000億個もの星があると推定されています。銀河系の直系は、およそ100京(ゼロが18もある)キロもあるそうです。銀河系の中の個々の星と星の間の平均距離は、60兆キロと言われています。

 しかし、この銀河系という私たちの星雲は、全宇宙のほんの小さな一部分に過ぎません。宇宙には、1000億個の星雲があると、天文学者たちは推定しているそうですが、それらはすべて、法則に従って秩序正しく運行しているのです。数年前に、ハレー彗星が地球に接近して来ましたが、驚いた天文学者は一人もいませんでした。彼らはずっと前から、ハレー彗星がやって来ることが分かっていたのです。ハレー彗星は、76年かかる旅をずっと続けています。一日に十万キロも走っていますが、何年何月何日に肉眼に見えるほどに地球に接近するとどうして予測できるでしょうか。非常に正確に動いているからです。

 詩篇の中で、ダビデ王はこう語っています。

 「主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることができません。」

世界最大の出来事

2012年2月16日(木)

 3年前のことですが、米国の『ライフ』誌が、21世紀を迎えるに当たって、数百人の専門家に、「この千年間で、最も重要な出来事は何か」というアンケートを取りました。その結果 、歴史上世界最大の出来事に、「ドイツ人グーテンベルグによる一四五五年の聖書印刷」が選ばれたそうです。選考した専門家は、その理由として、歴史への影響を挙げています。活版印刷技術そのものの起源は、中国や朝鮮のほうが古いのですが、グーテンベルグの技術が宗教改革を刺激し、聖書の普及で読み書きの能力が大衆まで広がり、人類の情報改革の先駆となった訳です。

 「聖書の印刷が最大のニュース」など、日本人にとって分かりにくいことなのかも知れませんが、たとえそのことを意識してもしなくても、一四五五年以来、聖書は世界のベストセラーであり続けたということが現実です。また、世界中の何億人ものの人々によって愛読されていることも事実です。

 南太平洋のある島での話。ヤシの木陰で一人の土人が聖書を読んでいました。そこへ、神を信じない西洋人が通 り掛かり、「イギリスあたりでは、よほど時代おくれの者でなければ、そんな本を読まないよ」と言いました。すると、土人は顔を上げ、ニッと白い歯を見せながら、こう答えました。

 「しかし、私がこの本を読んでいればこそ、あなたは無事にここにおられるのですよ。私どもは人食い人種でしたが、キリストを信じてから、以前の悪習慣を捨てて、全く生まれ変わった人間となりました。もし私どもが聖書の教えを知らなかったら、今頃あなたは、私の腹の中にいることでしょう。」

 かの西洋人はぶるっと身震いしたまま、二の句もつけず、そのまま足早に立ち去って行ったということです。

 聖書は今も、人の人生を変えることのできる、神のみことばです。

 「預言は決して、人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(ペテロ1・21)。

 「預言」とは、聖書全体のことです。聖書は、四〇人ほどの人々によって書かれましたが、彼らは自分たちの考えを勝手に書いたのではなく、聖霊によって導かれました。ですから、聖霊の働きのもとにあって人々が書いた聖書は、彼らの著作ではなく、神の著書なのです。

 また、聖書記者たちを導かれた聖霊は、その聖書を読む人々をも導いてくださいます。ですから聖書は、敬虔なな態度で読む人に真理を教え、その罪を戒めて悔い改めに導き、救いを与えることができるのです。

 「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(テモテ3・15~16)。