真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

聖書のミニメッセージ

神が人間となられた日

2012年2月16日(木)

 昔、ペルシアを治めていた、シャーアビスという王の話です。シャーアビスは、国民をよりよく理解するために、時々、変装して、一般 の人の間に紛れ込み、皆と交わりを持つことにしていました。ある時、一人の貧しい男の人を見付けて、彼のそばに座りました。色々な話をしたり、また、男の人の粗末な弁当を分けてもらって、一緒に食べたりもしました。その後、シャーアビスは定期的にその男の人を訪ねるようになり、とても親しくなったのですが、しばらくしてから、自分が何者であるかを、男に明かしました。王だということが分かれば、きっと何かの願い事を申し立ててくるに違いないと思って、シャーアビスはじっと男の人の反応を見ていました。しかし、呆気にとられた男は、ものが言えなくて、しばらく黙ったままでした。やっと、口が聞けるようになると、彼はこう言ったのです。

 「貴方様は、私のために宮殿を離れて、御位をお捨てになりました。私の粗末な食事を共にされ、私の苦しみや喜びを分ち合ってくださいました。貴方様は、他の人には富や地位 などをお与えになるかも知れませんが、私にはもっともっと価値のある贈り物、つまり、あなた御自身を与えてくださったのです。願わくは、ずっと私の友達でいてくださいますように。」

 クリスマスの日に、私たちは、主の主・王の王なるイエス・キリストが、天の御位 を捨てて、人間として生まれてくださったことを覚えます。天地万物の造り主、神ご自身が人間の姿を取られ、私たちの世を訪れてくださったことをお祝いするのですが、このクリスマスの驚くべき出来事によって、私たちは本当の意味で神の姿を見、また、神を知ることができるようになりました。しかし、そればかりではありません。神との親密な交わりに入ることが可能になったのです。ちょうど、貧しい男がシャーアビスと親しい友達になったように、私たちも神との親密な関係が持てるのです。

 「初めに、ことば(注:キリスト)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・・・・この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。・・・・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネによる福音書1章1、11-12、14節)。 これがクリスマスの素晴らしいメッセージです。神はもはや、私たちから遠く離れたような、知り得ないような存在ではありません。主は自ら私たちの世を訪れてご自身を現してくださり、そして今も、信じる者と共に住んでいてくださいます。私たちの話を聞いてくださり、またいつでも、私たちに豊かな恵みを与えてくださるのです。

 メリー・クリスマス!

こいつは大物だ

2012年2月16日(木)

 ローマ法王がニューヨークで国連の事務総長との約束に遅れそうになっていました。そこで、リムジーンの運転手に、優しく声をかけました。
「悪いけどね、もうちょっとスピードを出してくれないか。」 
ところが、運転手は答えました。
「いや、申し訳ございませんが、もう一回スピード違反で捕まったら、免許が取り消しになります。妻も、3人の子供もいますから、職を失うと、本当に困ります。ご理解ください。」

 すると、車を停めるように言ってから、ローマ法王は車を降りて、運転主席のドアを叩きました。「どうされましたか」と聞くと、「あとは、私が運転するからどいてください。」と言うのです。驚いた運転手は、ハンドルをローマ法王に譲り、後ろの座席に移動しました。ローマ法王は猛スピードでニューヨークの町を走り抜けました。しかし、余りにも乱暴な運転だったので、パトカーに止められました。警官は、仲間に言いました。
 「何様だと思っているか知らないが、絶対に許さん。交通ルールを守らないやつがどうなるか、思い知らせてやる。」

 しかし、1分もしないうちに、警官は動揺した顔をして、仲間のところに戻ってしまいました。
 「どうした。チケットを渡さなかったか。」
 「いやー。こいつは大物だ。超大物だ。」
 「一体、誰だ。ニューヨーク市長か。」
 「いや、もっと大物だ。」
 「じゃー。ニューヨーク州の知事か。」
 「いやー、もっと大きい。」
 「まさか、大統領か。」
 「いやー、もっと大きい。」
 「えー、大統領よりも大きい人と言ったら、誰がいるの。」
 「いや、誰が乗っているかはよく見なかったけど、何しろ、ローマ法王が運転手を務めているんだから。」

 しかし、後ろに乗っていた運転手は、どんな気持ちで、ローマ法王と警官との会話を聞いていたのでしょうか。ローマ法王に対する申し訳ない気持ちと、感謝の思いで心が一杯だったのでしょう。

 クリスチャンも、神の恵みを経験する時に、同じような気持ちになることがあります。ダビデ王は、詩篇の中で、次のように歌っています。
 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(8章3~4節)。

 造り主なる神は、ただご自分の愛と哀れみのゆえに、人間を覚えてくださり、その祈りに耳を傾けてくださいます。一羽の雀でさえ、神の前で忘れられることはありません(マタイ10・29~31)。あなたも、神に愛されています。その力強い御手の中で、守られています。あなたの人生のハンドルを神に譲り、肩の荷を下ろしませんか。周りの人々も、わっと驚く人生になるでしょう。

何も思い煩うな

2012年2月16日(木)

 ある精神科医の調査によると、人が思い煩うことの40パーセントは絶対に起こり得ないこと、30パーセントはどうすることもできない過去の出来事、12パーセントは人から受けた批判(それもほとんど事実無根の話ばかり)、10パーセントは自分の健康のこと(心配すればするほど健康状態が悪くなるのだが)、8パーセントは実際に直面 する可能性のある問題だそうです。何というエネルギーの無駄づかいでしょうか。

 「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイによる福音書6章34節)。

 ここで、主イエス・キリストは、明日のことを神に委ねて、その日その日を精一杯に生きる生き方を教えておられます。明日は神のものであり、私たちは明日、起こるかも知れないことを心配してはなりません。明日の問題を今日に持ち込んではなりません。私たちは今与えられている今日という日を生きるべきです。明日は神のものです。ですから、明日の問題を今日に持ち込もうとする時、実際には神のものを盗もうとしていることになります。自分には持てないものを持ちたいと欲張る時、神が既に与えてくださったものでさえも、失ってしまうことがあるのです。

 北極地方に住むエスキモーは、絶対に自分の年齢を明かさないそうです。「何才ですか」と聞かれても、「知らないし、関心もない」と言います。それでもなお答えを迫られれば、時計を見てから、「そうだね。もうすぐ、一日だ」と返事をします。エスキモーは夜、眠りに落ちる時に、自分が現世に対して死ぬ と信じています。また、朝、目を覚ます時に、自分が甦って、そこから新しい人生が始まったと考えるのです。ですから、年齢を聞かれると、「もうすぐ一日だ」と答える訳です。北極地方での生活は、厳しさを極めるもので、一日、生存するだけでも、奇跡に等しいことです。一日、一日を生きるエスキモーは、明日への心配はありません。また、過去のことをくよくよすることも、全くないのです。

 思い煩うというギリシャ語は、「起こるかも知れないことによって引き裂かれる」という意味です。確かに、思い煩いは自己破壊的な態度です。人は自分の未知の将来に目を向けて、起こり得るすべてのことを想像しますが、想像することのほとんどは、否定的なことです。私たちは、未来の不確実性とか、過去の出来事の結果 として起こるのではないかと案ずる事柄で、自分を引き裂いてしまうのです。 聖書の中で、思い煩いを打ち消す秘訣が記されています。それは、感謝をもって祈ることです。

 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ書4章6~7節)。

 あなたは今日、神に祈りましたか。

中年女性の危機

2012年2月16日(木)

 数カ月前のことですが、テレビのニュースを見ていたら、平均年齢60歳という女性たちによって構成されたチアー・ガールのグループが紹介されていました。みんな、ミニスカートを履いて、踊ったり、大きな声で地元のフットボールのチームを応援したりしていましたが、「六〇代の女性にも色々な生き方があるんだなー」と思いました。彼女たちは、恐らく、チアー・ガールとしての活躍の中で、生き甲斐を感じていたのでしょう。

 「私は何のために生きているのだろう。」

 これは、多くの中年女性が悩むことだと思われます。20代から40代にかけて、子育てなどで忙しくて、さほど深刻に考えることはないかも知れませんが、子供が大きくなって、巣立って行くと、何か別 の生き甲斐が必要になります。

 また、もう一つ、中年の女性の悩みの種になる問題があります。つまり、年を取って、以前の外面 的な美しさが薄れて来るので、自分で自分がいやになってしまう、自分に対して不健全なイメージを持ってしまうということです。しかし、女性はどのように、この「中年の危機」と呼ばれている問題を乗り越えることができるのでしょうか。聖書の中に、一つの大切なヒントがあります。

 「同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい」( テモテ二章九~十節)。

 ここで、神が女性のために計画してくださった人生が要約されています。それはつまり、良い行いに富んだ人生です。自分に与えられた才能・賜物・財産を、人のために、神のために用いることです。どんな小さな奉仕でも、かまいません。

 カルカッタの聖女と呼ばれていたマザー・テレサは、かつてこんな言葉を語りました。 「小さな仕事は、誰もやりたがらないという理由で、それを避けてはなりません。事実、小さすぎる仕事というものはないのです。私たち自身が小さいために、それらの仕事を小さく見てしまうのです。偉大な神は、それらの仕事の価値をご存じです。目の見えない人のために代筆をすること、苦しんでいる人の相談相手になること、手紙を郵便ポストに入れてあげること、これらの仕事は、小さな仕事に見えます。しかし、そのようなへりくだった場に、私たちは自分を置くべきです。大きなことをする人はたくさんいますが、小さなことをする人は少ないからです。私たちのする小さなことが、それを受ける人々に重大なメッセージを伝えてくれるのです。私たちが彼らを愛していることと、必要な時には、私たちはいつでもそばにいるということを。」

 このような生き方に挑戦する女性は、どんなに年を取っても、充実した毎日を送ることができます。また、外面 的な美しさが薄れても、魅力的な女性でいられるのです。

お母さん、神様の肌は何色?

2012年2月16日(木)

 1921年に、ポーランドの保守的なユダヤ人の家で生まれ育った女性は、2歳の時に家族と共にアメリカに移民し、やがて黒人の牧師と知り合い、結婚することになりました。相手がクリスチャンであること、しかも黒人であることで、家族からの猛反対に遭いましたが、女性は自分の決心を貫きました。すると、縁を切られ、死んだかのような扱いを受けたのです。想像を絶する心痛の中にあっても、女性は幸せな家庭を築き、12人の子供に恵まれます。しかし、黒人の父と白人の母を持つ子供たちも、やがて、「私は何者なのだろうか」と悩み始めます。お父さんほど肌が黒くないし、お母さんのように白い訳でもない。ある日、一人の子供が母親に尋ねました。

 「お母さん、僕は黒人なの?それとも、白人なの?」

 お母さんは答えました。

 「あなたは、黒人でもなければ、白人でもない。あなたは人間なんだ。とにかく、一生懸命に勉強して、立派な人間になりなさい。」

 そこで、子供は再び、母親に質問をぶつけました。

 「お母さん、神様の肌は、何色?」

 母親はしばらく考えてから、言いました。

 「神様の肌はね、ちょうど水のように、色がないの。」

 何という名答でしょうか。この母親の言うように、神の肌色はまさに、水のようです。神は白人ではないし、黒人でもありません。また、黄色人種でもありません。すべての人種を同じように愛され、平等に扱ってくださいます。聖書に書いてあるとおりです。

 「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ書3章28節)。

 私たち人間はとかく、自分の人種や国籍や家の系図を重んじたり、誇ったり、それで優越感を持ったりしがちですが、そのプライドこそが、多くの争いの原因となっているのではないでしょうか。しかし、自分が神の前で罪人であることを悟り、キリストの十字架による赦しを体験する時に、肌色など、どうでもよくなります。十字架の前に立つなら、優越感が消え去り、憎しみの心も、打ち砕かれるのです。

 パウロは、長年、ユダヤ人と異邦人との間で続いていた争いが、キリストの十字架によって止んだ、と述べています。

 「ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々(注:ユダヤ人)からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。・・・敵意は十字架によって葬り去られました」(エペソ書2章11節~16節)。

 あなたも、キリストの十字架の前に立ち、「私の罪をお赦しください」と祈りませんか。きっと、肌色の違う人に対する見方が変わるはずです。