真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

聖書のミニメッセージ

皇太子の家庭教師

2017年9月5日(火)

第二次世界大戦後、昭和天皇は皇太子明仁様の教育について悩んでおられました。新しいスタートを切ったばかりの日本において、天皇陛下の象徴としての責任を果たすために、今までとは違った教育を受けさせる必要があると考えました。また、国際化が急速に進むであろう世界の様々な舞台において、平和の架け橋として十分に活用できるように、特に英語を覚えさせなければならないと痛感されたようです。
そこで、1946年に、明仁様の家庭教師として、米国より、エリサベス・ヴァイニングという44歳の女性作家を日本に招待しました。日本ではヴァイニング夫人の名で知られていますが、プロテスタントの一派クエーカー派に属する敬虔なクリスチャンでした。平和、男女や民族の平等、質素な生活、個人の誠実さを強調する群れです。ヴァイニング夫人はその著書『皇太子の窓』の中で詳細に述べていますが、4年間、明仁様の家庭教師として働きながら、皇后様、また明仁様のお姉さんにあたる重子様、和子様、厚子様にも英会話を教えました。その中で、聖書の話をする機会も多数ありました。ヴァイニング夫人は天皇一家とかなり親密な関係を築き、皇居や葉山御用邸などに何度も呼ばれて、食事をしたり、ゲームをやったりもしました。とても充実した4年間でしたが、宮内省(後の宮内庁)の縛りとの戦いが絶えない四年間でもあったのです。
ヴァイニング夫人が最初に驚いたのは、ついて来る職員の数の多さです。皇太子の世話をする人、守る人、助言をする人も、授業に参加して来ます。皇太子に質問をして、意見を求めても、一三歳の明仁様はすぐに、アドバイザーの方に視線を送って、助けを求めます。これでは皇太子の英語教育は進まないと判断したヴァイニング婦人は、辛抱強く宮内省と交渉して、少しずつ助っ人の数を減らしてもらい、ついに一対一の授業が可能になったのです。宮内省にとっても、また明仁様にとっても、かなり思い切った決断でしたが、明仁様が自立した大人になるための大きなステップとなりました。
ヴァイニング夫人が次に挑んだのは、色々な国の同年齢の少年とどのように出会わせることができるかという問題です。これも、皇太子の視野を広げ、英会話の力を向上させるために必要不可欠なことでしたが、これにも宮内省は難色を示しました。今までの慣例にないことだからです。「皇太子様に悪い影響を与えるのではないか」という不安の声も上がりましたが、結局、ヴァイニング夫人の強い要求が受け入れられて、オーストラリアやアメリカの少年たちとの交流の場が持たれるようになりました。こうして、ヴァイニング夫人の指導によって、皇太子明仁様は堂々と世界各国の首脳と英語で会話を交わし、日本と諸外国との架け橋的な役割を果たすことができるようになった訳です。
昭和天皇は、ヴァイニング夫人を日本に招待したことについて、こう述べられました。
「私が生涯、決断したことで、一番賢明な決断だと思っているのは、ヴァイニング夫人を日本に呼んだことです。」
確かに、ヴァイニング夫人の功績は大きいかも知れませんが、明仁様が宮内省の古いしきたりを破り、勇気をもって新しい世界に挑戦されたことも非常に重要な意味を持っています。
私たち人間は、新しいものを得るためには、まず古いものを捨てなければならないことがあります。
 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ人への手紙4章22―24節)。
 あなたも勇気をもって、新しい人生のスタートを切ってみませんか。

信じる者の力

2017年5月7日(日)

エッセル・シンメルというハンガリー人の話です。第2次大戦の時に、ユダヤ人としてナチス・ドイツの激しい迫害に耐えた方ですが、ユダヤ人が不当な差別を受けたり、財産を奪われたり、虫けらのように殺されたり、収容所に強制送還されたりする中、女手一つで、3人の子どもを守りました。どんなに苦しい状況に置かれても決して弱音を吐かず、毎晩、子どもたちと一緒に祈り会を開きました。また、口癖のように、「神様は必ず、助けてくださる。この試練には神様の目的があるはずだ」と、信仰を失いかけていた子どもたちに言い聞かせました。
ついに、1944年の冬、シンメルさんの家族も、ドイツの収容所に送られることになりました。ブダペストからオーストリアにある収容所まで、極寒の中で、6週間、歩かせられました。与えられた食べ物は、何倍も水で薄められたスープだけです。歩けなくなった人が続出しました。彼らはその場で、銃殺されました。シンメルさんは、弱った体に鞭を打ちながら、また病弱な息子を負んぶしながら、更に希望を失った二人の娘を励ましながら、歩き続けました。「神様がきっと守ってくださる」と言い続けました。やっと、収容所にたどり着くと、またしばらく地獄のような生活が続きましたが、「もう限界だ」と諦めかけた時に、アメリカ軍が現れて、解放れたのです。
聖書は、信じる者の力について、次のように述べています。
「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」(ヘブル書11章33―34節)。
一般的には、信仰心を持つのは弱い人間だけだ、と思われがちです。確かに、神を求める人は、悩みを抱えたり、深い傷を負ったり、どうすることもできないコンプレックスを持ったりすることが多いのですが、その弱さの中で神に出会い、人間の理解を越えた不思議な力を体験します。上記の聖句のように、「弱い者なのに強くされ」るのです。
使徒パウロも、今まで通って来た数々の試練を列挙した後、こう語っています。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への第2の手紙12章9節)。
普通の人間は、自分の力、学歴、財産、地位等を誇りますが、パウロは、自分の弱さを誇ると言っています。何か、逆説的な言葉のように聞こえるかも知れませんが、ここに真の力を得る秘訣があるのです。

飽食の時代

2017年3月6日(月)

 今は「飽食の時代」と言われています。街の中を歩くと、クレープ、牛丼、ハンバーガー、ラーメン、たこ焼きなど、あらゆる食べ物の店が立ち並んでいます。食糧輸入大国の日本では、どこの国の食料品でも手に入ります。それは素晴らしいことですが、その一方で、とても憂慮するべき問題も起きています。ホテルのパーティーや旅館の宴会場などでは、大量の食品が食べ残され、廃棄物として処理されています。家庭でも買い過ぎや料理の作り過ぎで廃棄されている食品も少なくありません。日本で一日に捨てられる賞味期限切れの食料は3000万食です。年間、1700万トンの量になります。
しかし、飽食の日本から世界に目を向けると、全く違う世界が見えて来ます。国連食糧農業機関の報告によると、世界人口の8人に1人に当たる8億6800万人が餓死人口であり、慢性的な栄養失調状態にあるそうです。毎日、餓死する人は4万人にのぼります。毎日、3食を食べている人は世界人口の2割に過ぎません。このような現実を直視すると、日本で大量の食べ物が捨てられていることは非常に罪深いことであると、言わざるを得ません。インドのスラム街で1か月を過ごせば、あるいはタイムマシンに乗って70年前の日本に戻ることができたなら、食べ物を無駄にしないことの大切さを学ぶことができるかも知れません。あるいは、1週間の断食をすれば、食べ物のありがたさが分かるかも知れません。ちなみに、学校給食のレベルに文句を言う小学生がいると聞いています。
 聖書は、感謝することの重要性を強調すると共に、感謝する心を失った人々に対して、厳しい警告を発しています。
 「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄を、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」(ローマ書1章20―23節)。
 この個所にあるように、感謝をしないことは、恐ろしい連鎖反応を起こしてしまうようです。感謝しなくなった人間は、思いがむなしくなり、心が暗くなり、最後には愚かな者となります。まさに、多くの現代人の姿そのものではないでしょうか。神から与えられた様々な恵みを正しく管理できず、浪費しています。そのために、世界各地に苦しんでいる人々が大勢いるのです。彼らは、豊かな日本に住む私たちを、どのように見ているのでしょうか。
 今こそ、認識の改革が必要です。食べ物やその他の祝福を当り前なもののように見なすのではなく、神からの贈り物として感謝して、またその宝物を託されたことへの責任を自覚して、日々の生活を送ることです。経済的に恵まれた国の人々がそのような心構えを持つなら、世界は少しずつ、変わって行くはずです。

アルフレッド・アドラーという名前を聞いたことがありますか。欧米ではフロイト、ユングと並ぶ心理学の3大巨頭の1人として評価されている人で、「自己開発の父」とも呼ばれている人物です。アドラーは1870年にオーストリアで、7人兄弟の二男として生まれました。中流階級のユダヤ人家庭に生まれた彼は、自身が幼い頃に病で苦しんだことや、3歳下の弟が生後1年で亡くなったことから、医師になる決心をしました。やがて、ウィーン大学医学部を卒業し、目標通り医師になったのですが、1903年には、精神分析の分野で既に名声を得ていたジークムント・フロイトに招かれ、彼の研究グループに参加するようになります。しかし、考え方の違いから1911年にフロイト派と決別し、自由精神分析協会を設立しました。後に個人心理学会という名前に変わりますが、こうしてアドラーは日中、お医者さんとして働きながら、夜は心理学に関する講演・著作活動に積極的に取り組むことになった訳です。
アドラー心理学の大きな特徴の一つは、「自己決定性」にあります。これは、生まれや遺伝、トラウマなどが人生を決めるという宿命論を否定し、「どんな環境であっても、自分の道は自分で決められる」という考え方です。その考え方を代表する、次のような「アドラー名言」があります。
「性格は死の一日前まで変えられる。」
「重要なのは、何を与えられたかではない。与えられたものをどう使うかだ。」
今、日本において、アドラー・ブームが起こっています。アドラーの考え方を紹介する本などは、飛ぶように売れています。アドラー心理学を学ぼうとする人の大半は、仕事や人生に悩みを抱えています。中には、長引く不況や貧富の拡大など暗いニュースを見て、「自分には明るい未来など来ない」と思い込んでいる人も、かなりいるようです。隣の韓国においても、アドラー・ブームが起こっています。韓国の若者たちは自分の国のことを「ヘルチョソン(地獄の朝鮮)」と呼ぶほどの閉塞感を抱え、「生まれた家庭によって人生は決まってしまう」、「一生懸命、頑張っても報われない」という意識を強めているそうです。
こうした悩める若者に対して、アドラー心理学は一つの明白な答えを提示しています。うまくいかない理由を、遺伝やトラウマ体験などの過去や自らが置かれた環境のせいにしていては、問題はいつまでも解決しない。過去の出来事や環境を受け止め、未来に向けてどう行動するかを自分自身で選ぶ。ここに、問題を解決し、人生を切り開くカギがある、というのです。
確かに、力強い言葉です。アドラーがユダヤ人として旧約聖書を信じていた信仰が、彼の心理学にどれだけの影響を及ぼしたか定かではありませんが、「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」という申命記30章19節のような聖書個所が彼の考え方のベースにあるかも知れません。勿論、アドラーが人間の意志の力を強調しているのに対して、聖書信仰では個人の意思決定に神の全能の力が後押しをすることになりますが、いずれにしても、現代人にとって、プラス思考を持つということは、極めて重要なことだと言えましょう。
 「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです』」(マルコによる福音書9章23節)。

私のように黒い夜

2016年8月29日(月)

先日、ジョン・グリフィンというジャーナリストの体験談を読んで、大変な衝撃を受けました。題は”Black Like Me”(和訳の題名は『私のように黒い夜』)です。グリフィン氏は白人ですが、アメリカの南部に住む黒人に対する差別問題に深い関心がありました。1950年代の話になりますが、当時の黒人たちは凄まじい差別の対象になっていました。一流の大学に入りたくても、入学が許されません。人気のレストランに入ろうとすると、「黒人、お断り」と書いてあります。バスに乗る時に、必ず、一番後ろの席に座らなければならない。黒人男性が少しでも白人女性に目線を向けると、袋叩きにされる。選挙権登録をしようとすると、妨害される。とにかく、あらゆる所で黒人は白人より劣る人種として見下されて、差別されていました。そしてその差別の根底にあったのが、一つの根強い固定観念、あるいは偏見です。つまり、黒人という人種は怠け者であり、知的能力も乏しく、道徳的にも堕落している、ということです。南部の白人たちは、こうした偏見によって、黒人に対する差別を正当化していた訳ですが、グリフィン氏はそのことに大きな疑問を抱き、白人の考え方が本当に事実に基づいているかどうかを確かめようと思いました。そこで、差別を受けている黒人にインタビューを試みました。ところが、黒人たちは白人である彼を警戒して、本音で話をしてくれません。自分たちが受けている差別の実態についても、白人の偏見についてどう考えているかということについても、話そうとしないのです。
調査が全く進まない中で、グリフィン氏は悩みに悩んで、ついに、ある大決心をします。「黒人になろう」と覚悟を決めるのです。薬を服用して、日焼けマシンも使って、肌を黒くすることに成功します。すると、見事に黒人に生まれ変わるのです。黒人も白人も、彼を黒人として見るようになる訳です。その時から、彼は二つのことを経験するようになります。一つは、黒人と全く同じように、白人から差別を受けるようになることです。もう一つは、黒人に受け入れられて、また親切にされ、黒人たちの本当の気持ちを聞き出すことができるようになることです。調査を終えた彼の結論は、黒人は白人に劣る人種ではなく、むしろ、白人よりも優れているところが沢山ある、ということです。1960年に『私のように黒い夜』が出版されると、物凄い反響を呼びました。そして、その4年後に、ジョンソン大統領が公民憲法に署名し、人種差別制度はすべて連邦法で禁止され、公共施設での人種差別はすべて撤廃されることになったのです。こうして、グリフィン氏はアメリカの差別問題に戦いを挑み、自ら黒人になることによって、アメリカの建国以来200年も続いていた差別問題に終止符が打たれることになった訳ですが、それは、使徒パウロも自ら示した模範です。
 「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。…律法を持たない人々に対しては、律法を持たない者のようになりました。…すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(第一コリント9・19―22)。
 なかなか真似できる生き方ではないかも知れませんが、少しでも周囲の人々の気持ちを理解しようとするなら、彼らの苦しみを共有できるなら、私たちの人間社会にも、大きな変化が起きるのではないでしょうか。