真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

聖書のミニメッセージ

英会話ブーム到来か

2018年7月4日(水)

2020年の東京オリンピックが近付くに連れて、人々の外国語の習得に対する関心が高まってきているようです。確かに、外国から大勢の人々が日本にやって来るので、彼らをもてなすためには、英語をはじめ、諸外国の言葉に精通している人間の養成が急務だと言えます。

私も42年前に、何としてでも日本語をマスターしなければならないと燃えていました。それは、一人でも多くの日本人に福音を宣べ伝える使命感を持っていたからです。私はつくづく思いますが、外国語の習得には、二つのことが必要です。一つは、明確な目的を持つことです。なぜ、外国語をマスターするのか、はっきりとした理由がなければ、長続きしません。

もう一つ大事なことは、外国語を話さなければならない状況に自らを置くことです。外国に行くか、外国人との定期的な交流を求めて、自分にプレッシャーをかけることをしなければ、言葉は上達しません。後もう一つ、大切なことをあえて挙げるなら、間違いを気にせずに、堂々と喋ってみることです。

ある外国人が夜、東京にある自分のアパートの部屋でくつろいでいると、外から誰かのうるさい話声が聞こえて来ました。余りにもうるさいので、窓を開けて、注意しようとしましたが、咄嗟に口から出た言葉は、「うるさい!」ではなく、「嬉しい!」という言葉でした。「嬉しい!」でも、それなりの効果があったかも知れませんが、外国語に挑戦する者は、誰であっても、恥ずかしい思いをしたり、笑われたり、誤解されたりしながら、必死に頑張っています。また、周囲の人間から「子供扱いをされている」と感じながら、落ち込まないように戦うこともあります。

こうして、外国人とのコミュニケーションのことで私たちが苦労するようになったのは、実は、人間の罪の結果です。人類は元々、一つの言語を話していましたが、人類が「バベルの塔事件」を起こして神に逆らおうとしたために、主が全地の言葉を混乱させて、お互いに意思の疎通を図ることができないようにされたのです。

旧約聖書のモーセも、言葉でのコミュニケーションの難しさを理由に、神の召命を断ろうとしました。

「モーセは主に申し上げた。『ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。』主は彼に仰せられた。『だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう』」(出エジプト4章10-12節)。

モーセは神のみことばに励まされて、イスラエルの民を救うためにエジプトに出かけて行きました。そして、見事に召命を果たしたのです。

私たちも、明白な目標を持ち、神が共にいてくださり、助けてくださることを信じるなら、きっと外国語の上達を見るでしょう。また、外国人との交流によって、心も豊かになるはずです。

5人の殉教者が生み出した奇跡

2018年3月14日(水)

 南米のエクアドルに、アウカ族が住んでいます。アウカというのは「野蛮」という意味ですが、そう呼ばれていたのには、それなりの深い訳がありました。アウカ族の村同士で絶えず、殺し合いが行なわれていたのです。アウカ族における殺人率は60%でした。つまり、10人の内の6人が殺されていた訳です。この憎しみと怒りと殺意に満ちた世界が余りにも恐ろしくて、長い間、誰も近付こうとはしませんでしたが、1952年のこと、ジム・エリオットというアメリカ人宣教師がアウカ族に福音を届けようと立ち上がりました。命の危険を承知の上で、少しずつ、アウカ族へのアプローチを試しました。最初は小型飛行機を使って、食べ物や衣類など、彼らがプレゼントとして受け取ってくれそうな物資を、彼らの村の近くに落としました。しばらくそのことを続けた後で、他の宣教師と共に、自分の足で村のそばまで歩いて、会話を試みました。何とか、簡単な挨拶を交わし、少し意思の疎通を図ることができるようになりましたが、1956年一月に、恐れられていた悲劇が起きました。ジム・エリオット氏を含む五人の宣教師が、アウカ族の手によって殺されてしまったのです。
世界中の人々を震撼させたニュースでした。しかし、その後、世界の人々をもっと驚かせる話が報道されました。ジム・エリオット氏の奥さんのエリザベスさん、及び、エリオット氏と共に殉教したネート・セイント氏の奥さんのマージュさんが小さい子どもを連れて、再び、アウカ族とコンタクトを取り、一緒に住むようになったのです。そして、少しずつ、彼らの言語を学びながら、福音を伝えて行きました。すると、驚くことに、イエス様を信じる人々が続出し、恐ろしい殺人者から愛に満ち溢れた人間たちに生まれ変わり、殺人が行なわれなくなったのです。福音の力を鮮明に証しする話ですが、アウカ族が女性たちを受け入れた、最も大きなきっかけとなったのは、五人の宣教師を襲撃した時に、誰も抵抗しなかったことです。宣教師たちは、ジャングルに潜む野獣から身を守るためにライフル銃を持っていましたが、アウカ族が槍をもって襲って来た時に、誰も撃とうとはしなかったのです。エリザベスさんはその著書、『ジャングルの殉教者』の中で、次のように述べています。
「ジムを殺した人々に対し、憎しみはありませんでした。彼は生前、アウカ族の救いのために死ぬ備えができていると言っていました。残された家族も、自分たちの敵を祝福してくださいと、神様に祈り続けたのです。」
しかし、この話にはまだ続きがあります。アメリカのある大手製油会社が、アウカ族がおとなしくなったという情報を聞き付けて、石油の調査チームを派遣し、油脈を掘り当てました。そこで、どのようにアウカ族を追い払い、油田を開発できるかという話になってしまったのですが、危機感を覚えたアウカ族は、殉教者の一人だったネート・セイント氏の息子さんに連絡を取りました。息子さんのスティーブさんはアウカ族と共に幼少時代を過ごしましたが、成人した後アメリカに帰り、結婚し、成功したビジネスマンとして幸せな生活を送っていました。奥さんも子どもたちも、アウカ族の人間に会ったことがありません。そのようなスティーブさんとその家族に対して、アウカ族は、「私たちのところに来て、一緒に住んでください。私たちを追い払おうとする人間から守ってください。そして、自立できるように、色々な技術を学ぶための場を提供してください」という難しい要求をして来たのです。最初は、とても無理な話だと思っていましたが、祈っているうちに神の導きを感じ、スティーブさんたちは1995年にエクアドルに引っ越すことにしました。そして、アウカ族と一緒に住み、彼らに現代社会に適応するための知恵を教えながら、様々な法的手続きを取って、彼らが土地を失うことのないようにしたのです。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネの福音書12章24節)。
私たちは、殉教の死を遂げることはないかも知れませんが、自我に死んで、人のために犠牲を払う時に、素晴らしいことが起こるはずです。

SNSの落とし穴

2017年12月4日(月)

 最近、SNSという言葉を耳にしたことのある方が多いかと思いますが、インターネットのネットワークを通じて、コミュニケーションが図れるように設計された会員制サービスです。その中で、特に利用者が急増しているのは、フェースブック、ツィッター、ライン、インストグラムなどです。SNSでは、ユーザーがプロフィルや写真を公開することが多く、そのため実名でのやり取りが一般的になっています。投稿記事は、友達や家族に限定したり、グループ内のみでの通信することができます。投稿さて共有される内容は、日記などの日常の記録から、社会事象などに対する自分の意見、気になったウエブサイトへのリンクなど、様々です。また、写真や動画を合わせて投稿することもできます。他人の投稿に対してコメントしたり、自分の投稿に対する反応を知ったりするのがSNSの楽しみです。ところが、最近、こんなふうにつぶやく人も増えて来ました。
「SNSって便利だけど、疲れるなー。」
「劣等感を感じて何もやる気がなくなる。」
「SNS鬱」という言葉ができるほど、鬱病を発症する人も多くなっています。その一つの大きな理由は、自分を人と比較するからです。結局、フェースブックなどに投稿される記事というのは、ほとんど、自慢話です。「また、海外旅行をしてきました」とか、「どこそこの高級レストランでまた、食事をしちゃいました」とか、「また、ブランドのバッグを買っちゃいました」とか、「こんな作品が出来ました」とかいうような話ばかりです。劣等感を感じやすい人は、そのブログを見て、否定的な思考パターンに陥ってしまいます。
「こんな才能があって、経済的にも恵まれた人たちがいるんだ。しかも、僕より年下じゃない?自分なんかじゃ全然、歯が立たない。ダメだ。諦めよう。」
フェースブックで鬱になりやすくなるという研究結果がアメリカの大学の論文で発表されています。自分を人と比較して、落ち込んでしまう。あるいは、人の成功を妬ましく思い、人を恨んだり、人に危害を加えたりする。これは何も、ハイテックの時代になってからの問題ではなく、何千年も前からある問題ですが、その根本的な原因は、人間としての自尊心の欠落にあります。「私の存在には意義がある」という実感がないのです。このように悩む人には、その悪いセルフ・イメージを変えてしまうほどの力強いメッセージが必要です。「あなたにも素晴らしい才能があるよ」というような、周りの人間からの励ましも役に立ちますが、最も効果的なのは、聖書のみことばです。
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています」(詩篇139:13-14)。
ここでダビデ王は、自分が神のご計画どおり、ユニークな存在として神に創造された作品であることを賛美しています。私たちも同じような認識を持つと、自分を人と比較することには何の意味もないことが分かって来ます。「犬と猫と、どっちが可愛いか」、「薔薇とユリと、どっちが綺麗か」ということを議論する人はいません。それぞれ、違った可愛さ、あるいは美しさがあるからです。犬は犬で良いのです。猫は猫で良いのです。犬は猫になろうとする必要はありません。犬でいることに意味があるのです。
同じように、私たち人間も、お互いに違う所が色々あります。そのように、ユニークな形で神の栄光を現すために造られているからです。自信をもって、堂々と生きて行きましょう。

皇太子の家庭教師

2017年9月5日(火)

第二次世界大戦後、昭和天皇は皇太子明仁様の教育について悩んでおられました。新しいスタートを切ったばかりの日本において、天皇陛下の象徴としての責任を果たすために、今までとは違った教育を受けさせる必要があると考えました。また、国際化が急速に進むであろう世界の様々な舞台において、平和の架け橋として十分に活用できるように、特に英語を覚えさせなければならないと痛感されたようです。
そこで、1946年に、明仁様の家庭教師として、米国より、エリサベス・ヴァイニングという44歳の女性作家を日本に招待しました。日本ではヴァイニング夫人の名で知られていますが、プロテスタントの一派クエーカー派に属する敬虔なクリスチャンでした。平和、男女や民族の平等、質素な生活、個人の誠実さを強調する群れです。ヴァイニング夫人はその著書『皇太子の窓』の中で詳細に述べていますが、4年間、明仁様の家庭教師として働きながら、皇后様、また明仁様のお姉さんにあたる重子様、和子様、厚子様にも英会話を教えました。その中で、聖書の話をする機会も多数ありました。ヴァイニング夫人は天皇一家とかなり親密な関係を築き、皇居や葉山御用邸などに何度も呼ばれて、食事をしたり、ゲームをやったりもしました。とても充実した4年間でしたが、宮内省(後の宮内庁)の縛りとの戦いが絶えない四年間でもあったのです。
ヴァイニング夫人が最初に驚いたのは、ついて来る職員の数の多さです。皇太子の世話をする人、守る人、助言をする人も、授業に参加して来ます。皇太子に質問をして、意見を求めても、一三歳の明仁様はすぐに、アドバイザーの方に視線を送って、助けを求めます。これでは皇太子の英語教育は進まないと判断したヴァイニング婦人は、辛抱強く宮内省と交渉して、少しずつ助っ人の数を減らしてもらい、ついに一対一の授業が可能になったのです。宮内省にとっても、また明仁様にとっても、かなり思い切った決断でしたが、明仁様が自立した大人になるための大きなステップとなりました。
ヴァイニング夫人が次に挑んだのは、色々な国の同年齢の少年とどのように出会わせることができるかという問題です。これも、皇太子の視野を広げ、英会話の力を向上させるために必要不可欠なことでしたが、これにも宮内省は難色を示しました。今までの慣例にないことだからです。「皇太子様に悪い影響を与えるのではないか」という不安の声も上がりましたが、結局、ヴァイニング夫人の強い要求が受け入れられて、オーストラリアやアメリカの少年たちとの交流の場が持たれるようになりました。こうして、ヴァイニング夫人の指導によって、皇太子明仁様は堂々と世界各国の首脳と英語で会話を交わし、日本と諸外国との架け橋的な役割を果たすことができるようになった訳です。
昭和天皇は、ヴァイニング夫人を日本に招待したことについて、こう述べられました。
「私が生涯、決断したことで、一番賢明な決断だと思っているのは、ヴァイニング夫人を日本に呼んだことです。」
確かに、ヴァイニング夫人の功績は大きいかも知れませんが、明仁様が宮内省の古いしきたりを破り、勇気をもって新しい世界に挑戦されたことも非常に重要な意味を持っています。
私たち人間は、新しいものを得るためには、まず古いものを捨てなければならないことがあります。
 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ人への手紙4章22―24節)。
 あなたも勇気をもって、新しい人生のスタートを切ってみませんか。

信じる者の力

2017年5月7日(日)

エッセル・シンメルというハンガリー人の話です。第2次大戦の時に、ユダヤ人としてナチス・ドイツの激しい迫害に耐えた方ですが、ユダヤ人が不当な差別を受けたり、財産を奪われたり、虫けらのように殺されたり、収容所に強制送還されたりする中、女手一つで、3人の子どもを守りました。どんなに苦しい状況に置かれても決して弱音を吐かず、毎晩、子どもたちと一緒に祈り会を開きました。また、口癖のように、「神様は必ず、助けてくださる。この試練には神様の目的があるはずだ」と、信仰を失いかけていた子どもたちに言い聞かせました。
ついに、1944年の冬、シンメルさんの家族も、ドイツの収容所に送られることになりました。ブダペストからオーストリアにある収容所まで、極寒の中で、6週間、歩かせられました。与えられた食べ物は、何倍も水で薄められたスープだけです。歩けなくなった人が続出しました。彼らはその場で、銃殺されました。シンメルさんは、弱った体に鞭を打ちながら、また病弱な息子を負んぶしながら、更に希望を失った二人の娘を励ましながら、歩き続けました。「神様がきっと守ってくださる」と言い続けました。やっと、収容所にたどり着くと、またしばらく地獄のような生活が続きましたが、「もう限界だ」と諦めかけた時に、アメリカ軍が現れて、解放れたのです。
聖書は、信じる者の力について、次のように述べています。
「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました」(ヘブル書11章33―34節)。
一般的には、信仰心を持つのは弱い人間だけだ、と思われがちです。確かに、神を求める人は、悩みを抱えたり、深い傷を負ったり、どうすることもできないコンプレックスを持ったりすることが多いのですが、その弱さの中で神に出会い、人間の理解を越えた不思議な力を体験します。上記の聖句のように、「弱い者なのに強くされ」るのです。
使徒パウロも、今まで通って来た数々の試練を列挙した後、こう語っています。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(コリント人への第2の手紙12章9節)。
普通の人間は、自分の力、学歴、財産、地位等を誇りますが、パウロは、自分の弱さを誇ると言っています。何か、逆説的な言葉のように聞こえるかも知れませんが、ここに真の力を得る秘訣があるのです。