真理のみことば伝道協会

カルト宗教被害者の皆様の問題解決のお手伝いをさせて頂いております。

悩むエホバの証人へ

1.私は今、どのような信仰を持っているか
私はエホバの証人が偽りの宗教であるという確信を持ちました。また、イエス・キリストが救い主であり、私の神であると信じることができました。しかし、既に多くの元証人が実感しているように、まず信じるということは、比較的に簡単なのです。でも、この信仰を持続し、実践していくということが難しいのです。心で受け取る信仰は易しくても、実践していく信仰は難しいのです。
例えば、私は救われましたが、今でも疑い易く、問題や試練によって気力を失うことがあります。失敗したり、つまずいたりすることもあり、時には怠慢になることもあります。また、熱心になろうとし、いつの間にか律法主義に陥っている場合も多々あります。ですから私たちは、時々自分がよく分からなくなるのです。私には本当に信仰があるのか無いのか。どうすれば健全な信仰を得ることができるのか。また、どのように信仰生活を実践していけばよいのか。あなたはどのように考えますか。

2.信仰が弱くなったのか
ある元証人の方は、救われた後に、自分の信仰が弱くなったと言われます。証人の時には、もっと燃えていたし、もっと信仰が強かったのに、今は段々と無気力になっていく自分に不安を感じているし、どうすればよいか分からない、ということでした。恐らく、同じような疑問を持つ元証人は多いと思います。この問題を考えるに当たり、私たちは、もう一度、原点に帰り、「信仰とは何か」というところから深く考えてみる必要があると思うのです。  例えば、熱心に伝道すれば、地上の楽園で永遠に生きられるというのは信仰なのか。また、神を信じれば、富が与えられ、名誉が与えられ、病が癒されるというのは信仰なのか。あるいは、一生懸命、神に従順することによって、神からの見返りを期待するというのは信仰なのか、という問題です。勿論、心で信じているならば、信仰と言えるかも知れませんが、自分の願いを実現させるために神を信じる、というところに問題があるのです。  このような信仰は普通、教会に通い始めたばかりの人によく見られる初歩的な段階の信仰です。そのうち、少しずつ成長するようになれば、自分中心の信仰から、神中心の信仰へと変えられていきます。これが信仰の成長です。ところが、自分中心の信仰から始め、終始一貫譲らず、あくまで自分中心的な信仰の人もいます。そのような信仰は、いつか砕いて十字架に付けてしまわなければなりません。まず、健全なキリスト者が確かに信じなければならないことは、「私が罪人である」ということです。自分では到底、神の前に立つことができない罪人であるという確固たる事実です。これが信仰の第一段階であり、基礎となるべきです。  以前の私たち(証人の頃)には、それが分かりませんでした。本当に分からなかったのです。「私は罪人である」と口では告白しながら、実際には、何も分かっていませんでした。その頃は、自分の行いによって、自分の義をもって神に認められるように努力していました。また、認められると考えていました。これは無知であり、妄想です。この無知は、自分の義を立てることに熱心であり、誰の話も聞かず、とうとう高慢になります。自分の義を立てながら、賢いと思っている人には教育も無用になるのです。

3.エホバの証人の信仰の実態
使徒パウロは、このような熱心を自分のための熱心であり、世俗的であり、また情欲的熱心であると非難しているのです(ローマ十・三、ピリピ三・十八~十九)。これがエホバの証人の信仰なのです。このような誤った信仰を持っている以上、聖書的な正しい信仰を得ることはできないのです。  一つの例を考えてみましょう。暴君アンティオコス・エピファネスがイスラエルを占領した時のことです。彼はイスラエル人が豚肉を食べないのを知り、それを迫害に利用しました。人々の面 前に長老たちを引きずり出し、豚肉を強制的に食べるよう命じたのです。食べれば生かすし、食べなければ続けてむちを打ちました。ある長老は血まみれになって倒れながらも食べなかったので、それを見ていた一人の軍人が、この長老を哀れみ、牛肉を持って来て、静かに言いました。
「これは牛肉ですので、食べてください。」
この長老は言いました。
「あなたがくれたこの肉が牛肉であることを、私は知っています。でも、他の人々はこれを豚肉だと思い込んでいるので、食べられません。」
この長老は続けてむち打たれ、死ぬ間際に、「私はイスラエルの律法のために死ぬ !」と叫んで息を引き取ったのです。

4.歪んだ信仰を脱ぎ捨てる
さて、問題はここにあります。私たちは、この死を美化してよいのか、この死が果 たして聖なる殉教だと言えるのか、という問題です。輸血をすれば生きることができると知りながら、自らそれを拒否すること、あるいは、自分の子供や他の信者にそれを強要すること、また神意に逆らいながらも、「神に喜ばれる道だ」と自分が信じていれば、それが信仰と言えるのか、という問題です。これは妄想です。悲劇です。
言うまでもなく、エホバの証人の信仰は、神から与えられた信仰ではありません。それどころか、神の恵みを覆い隠そうとするサタンの働きです。私たちは、エホバの証人の信仰がどれほど歪んだ信仰であり、また、どれほど聖書から逸脱した教えであるかということをまず認め、今後とも、エホバの証人的な信仰からは、完全に決別 することを主の御前に宣言しなければなりません。

5.自分の力に頼りがち
私があえてこのことを述べるのは、救われた後にも証人的な信仰から抜け切れていない元証人が多いからです。自分の行いによって神に認められようとする信仰、自分の努力で義になろうとする信仰、それがどれほど醜く、また、どれほど無謀であるかということをはっきりと知るべきなのです。そしてキリスト者はまず、自分の罪を認めるのです。

6.資格がない自分
人は本来、自分の罪を深く悟ると、自分が義とされることも、義と思う心さえも持つことができなくなると言われています。しかし、それを悟る瞬間には真実になれるし、初めて主の恵みの大きさが分かるようになるのです。取るに足りない存在であるにもかかわらず、私はこのように生きているし、赦され、そして救いの約束を得たのです。本当に感動するようになります。まるでメフィボシェテと同じです。メフィボシェテはある時、ダビデ王の招待を受けました。彼は足なえであり、サウル王の孫なのですが、ダビデから驚くほど、多くの恵みを受けます。
「恐れることはない。私はあなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい」(サムエル九・七)。
メフィボシェテは足なえで体が不自由な人でした。そして、ダビデにとっては、敵の孫です。ただ一人残されたサウルの孫でした。資格うんぬ んと言われれば、何の価値もないのです。ですから、彼は「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか」(同九・八)と、痛みいっているのです。この態度は本当に大切です。もし彼が「私はしかくがある」とか、「ここにいる私は本来、王の孫であるから」という考えがあれば困ることです。問題は自分の愚かさ、自分の罪悪によっては到底ダビデの前に立つことができない、(主の御前に立つことができない、そんな)身分であることをはっきり知ることが重要なのです。それを知る時に、恵みを悟るようになるのです。完全に無資格であり、救済不可能な存在であることを悟る瞬間があるからこそ、恵みが恵みになるのです。
そのことを最も深く知ったのは、パウロでした。彼は平凡にキリストを信じたのではなく、迫害者でした。ステパノを殺害し、キリスト者が非難して行ったダマスコにまで彼らを捕らえようと、公文書を持って追いかけて行った人でした。こんな極悪な人がキリストを信じるようになりました。よく考えてみれば、パウロは雷に打たれて死んでも、文句を言えない立場でしたが、救われて使徒になりました。それ故、すべての人の中で一番大きな恵みを受けたのです。誰も考えられない程の大きな恵みを受けたというのが使徒パウロの心です。

7.本当の謙遜
聖フランシスコにも、よく似た話があります。ある日のこと、聖フランシスコの弟子が夢を見ました。そこには、いと高い御座がありましたが、空席になっていたのです。それで、ここには誰が座るのか、と御使いに聞くと、世で一番謙遜なフランシスコが座る場所だと言いました。弟子でありましたが、自分の先生がとても偉くなるという話に嫉妬しました。彼は夢から目覚めると、自分の先生を試したくなりました。それで聞いてみました。「先生、あなたは自分をどんな人間だと思っていますか。」彼は、「私はこの世で一番悪い人間だと思っている」と答えました。弟子は、「先生、それは嘘です。それは偽善者です。すべての人があなたを聖者と呼んでいます。世の中には強盗も多く、罪人があふれているのに、あなたがこの世で一番悪いというのは、話になりません。偽りです!」と反発しました。その時、聖フランシスコは、「君、それは知らないで言うことだ。私が神から受けた恵みがどれ程多いか知っているのか。私に下さった恵みを他の人にも下さったならば、その人達は私よりももっと良い人になったはずだ」と言いました。この言葉に弟子は何も言えませんでした。本当に謙遜な人でした。

8.恵みに寄り頼む
神の恵みの大きさ、広さ、深さを知るには、罪に対する敏感な意識がまずあるべきなのです。私にまだ可能性があって、自分で正しくなれると思っている間は、神の恵みが分かりません。極端に言えば、正しくなろうとする努力さえも放棄すべきです。私たちに正しくなろうとする努力があれば、それも恵みです。事実、恵みとして正しくなろうとする努力が与えられることであって、自分自らは正しくなろうとする心さえも持つことができない存在であることを完全に是認すべきです。「私」が完全に倒れ、はって行き着く所まで行った時に、本当に謙遜な心でキリストを迎えるようになります。ただ、ここまで来るのは勇気のいることであり、また難しいのです。

9.自分の問題の自覚
イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と語られましたが(マルコ二・一七)、これは、正しい人と罪人が別 にいるという話ではありません。人間はすべて罪人ですが、「私は罪人だ」と告白する罪人と、「私は正しい」と言い張る罪人がいるだけなのです。言い換えれば、人が病気であることに気付くまでは医者を訪ねることがないように、罪人であることをはっきり知るまでは、キリストを信じないということです。また、自分の病気を自分で治すことができると思っている人は医者を訪ねないように、自分で正しくなれると思っている人はキリストを信じないということです。こんな人は高慢という、もう一つの罪を犯しながら生きている人々です。 アウグスチヌスは、「正しくなろうとしたそれさえも罪だ」と告白しました。すなわち、私が正しくなろうと思うことが、既に大きな罪におぼれるということです。私がもっと正しく生きようとしたことは、とりもなおさず、深い罪におぼれていたのであって、「私が自分で正しくなろうとすることまでもが無効だということを悟った」と告白しています。事実です。私たちの経験から見ても、少し良くなれば、すぐ高慢になります。醜いほど自分をよく見せようとします。他人より少し知識があり、良い行いがあるようなら、もう肩に力が入ります。私は何時間伝道したとか、何人の研究生を持っているとか、『ものみの塔』誌を何冊配布したとか、色々言うようになります。教会は伝道していない、聖書に従っていない、一致していない、世的であるなどと言いたくなるのです。これは、キリスト者であっても、同じような過ちを犯すことがあるのです。そして、段々と他人を見下げるようになるのです。残念ですが、人は罪を犯して泣いている間が一番真実なのです。ここからスタートすべきです。キリスト者の信仰はエホバの証人のように、私の行い、私の義をもて、私を神に見せようとすることではありません。

10神の正しさ
キリスト者の信仰は、まず第一に、神の正しさを告白することです。あなたが証人として歩んできた、過ぎ去りし日々の中で、神に対するこんな恨み、あんな恨みなど、解けない問題があったとしても、結局、今ここまで来て考えてみると、すべて神が正しかったのです。私が自ら罪の道を歩んでいました。私が悪かったのです。自分の過去を正当化しようと、また、弁明しようと、私がいらない意地を張ったり、いらない精力を使い過ぎました。今はそのことを素直に認めるのです。また、私が現在、教会生活に満足が得られないとしても、あるいは病に落ちても、健康であっても、死んでも生きても、神は正しいお方であると信じることです。神のなさることのすべてが正しいと言って、続けて認めていくことが信仰の道であり、悔い改めというのは、神の正しさの前に私が罪人であることをはっきり認めることです。

11.罪の告白
イエス様が十字架につけられている時、隣の一人の強盗は言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ二三・三九)と主を罵りました。でも、もう一人の強盗は彼をたしなめ、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(四〇~四一節)と言いました。どれほど貴重な心でしょうか。私が受けているこの十字架の死が、私にとって当然だという告白です。
私たちは神の前で時々、恨みを言いますが、これは他でもなく私の正しさを主張させるからなのです。私の罪に対しては、絶対に言い訳をしてはいけません。知らなかったとか、一生懸命だったのだからとか、勝手に自分の基準を設けてはいけません。また、私の罪を社会や環境のせいにしてはいけません。両親や周囲の人々のせいでもありません。ただ私の罪があるだけです。これを肯定すべきです。これを認めて主の前に告白すべきです。

12.神の義が十字架に
第二に、キリスト者の信仰は、神の義を受け取ることです。人の義は当てになりません。ローマ書一章一七節には、「福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです」とあります。宗教改革者マルチン・ルターは、このみことばを解説する時、神の義の怒りが十字架上に一遍にドカン!と落ちてしまったと語りました。全人類に向かう神の義が啓示された時、イエスは「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶようになったと語っています。神の義がキリストの十字架上に現れた!その事実を信じ受け取ることが信仰なのです。私の下るべき神の怒りは、キリストの十字架上に落ちたのです。
それ故、キリスト者は十字架のみを仰ぎ見れば感謝し、感謝が溢れるのです。十字架を通 して、神が今ここで具体的に私を愛しておられることを知るのです。神の愛の証しとして、十字架以上のものはないのです。このすさまじい神の愛を悟る時、私たちの内側には驚くべき変化が起きます。自分では考えることもできなかった力がわいてきます。そして、私の身の回りの小さな問題は解決される、つまり、問題とはならなくなるのです。

13.真の信仰とは
第三に、キリスト者の信仰は、神との正しい関係です。ルターの語った信仰の定義がこれでした。彼の定義の中では特に「具体的な生活の中における神との正しい関係だ」と言っています。教会で礼拝を捧げる私たちの姿勢や、また祈る姿勢のみを意味するのではなく、また、伝道しているかどうかという問題を取り上げているのでもなく、現実生活の中で具体的に神との正しい関係を結んで生きる姿勢を信仰だと言っています。正しい関係は義の関係であり、平和の関係です。帰って来た放蕩息子迎え入れる父と子の関係です。父は帰って来た息子を、放蕩者として迎え入れたのではなく、完全な息子として迎え入れました。全く過去を問いませんでした。また、「今、お前は何をしているのか」ということも問いませんでした。(祈っているのか?聖書を熱心に勉強しているか?伝道しているか?これからは私に従順すると約束するのか?・・・問うていません。)ただ帰って来たので、「私の息子が帰って来た。料理をしなさい。指輪をはめさせなさい。服を着させなさい」と言って迎え入れたのです。ここには少しも放蕩という意味がありません。完全な父との関係です。これが神とあなたの関係です。あなたには神の子の身分が与えられたのです。あなたはどうしますか。「私は父に逆らって大きな過ちを犯してきました。もう子供と呼ばれる資格はないので牛小屋で暮らします」と言うこともできるでしょう。しかし、父はそれを望んでおられないのです。いや、そんなことは絶対に容認できないのです。父の心が引き裂かれることなのです。

14.真の義人とは
父は罪人であるあなたを十字架の上で赦し、あなたを義人として迎え入れたのです。今も、義人として会ってくださるのです。あなたが義人であるということを、あなた自身が事実として信じなければいけません。信じますか。では、どのような義人なのか、あなたはもう、ご存じですか。ルターはこの問題に対して本当に苦しみました。恐らく、二千年の歴史の中で、この問題に対して、一番深い関心を持った人がルターです。ルターの神学のあだ名が、「十字架の神学」でした。このくらい集中しました。ここで彼は苦しみました。今日、私たちが義とされたのが事実であるとするならば、義とされた後に犯す罪はどうなるのかが問題でした。義とされた後も、私たちは相変わらず、罪人であるからです。そこで、悩んだルターは、次のように結論を得たのです。「義人でありながら、同時に罪人であり、罪人でありながら、同時に義人である」と語りました。続きの義人であり、続きの罪人です。これがキリスト者の正しい自己認識です。すなわち、私が私を見れば相変わらず罪人です。でも、私が十字架を仰ぎ見る時には、続けて義人なのです。神が私のために施してくださった愛を知るならば、今、私が神の子であることに疑いの余地はありません。それを知る人が既にキリスト者です。キリスト者はただ、神の義を受け取って、その義によって自分自身を見、また、隣人を見るのです。

15.キリストと結ばれて生きる
さて、私たちの内にエホバの証人の信仰に代わる本物の進行の規準ができれば、あとは、どのように成長してゆくのかという問題です。イエス様は「わたしはぶどうの木で、あながたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ一五・五)。基本的に、キリスト者は皆、成長するのです。自分の力によってではなく、キリストの恵みによってです。問題は、キリスト者として新生したのか(キリストの命に結合されたのか)どうかが重要なのであって、新生したキリスト者は皆、成長するのです。なぜですか。それが主の御旨であり、それこそ主のなさるみわざであるからです。主は永遠の昔から、既に目的をもってあなたを選び、救ってくださいました(エペソ一・四~五)。あなたは神の作品であり(エペソ二・一〇)、多くの実を結ぶようにと主によって選ばれた者なのです(ヨハネ一五・一六)。人間的に考えれば、まず私が神を信じ、神が私の信仰を認めて、それで救いに預かったように見えますが、聖書の教えはそうではないのです。以前にも述べましたが、私が神のもとに行く前に、神が私のもとに来てくださいました。私が神を捜し求める前に、神が私を読んでくださいました。私の意志がある前に、神の御旨が先にあり、私の行いがある以前に、神のみわざがまず、主導的に行われていました。いつも恵みが先なのです。
ですから信仰の中に生きる人は、神のために私がどうであるべきか?神のために私が何をすべきか?と言って苦しむのではなく、神が私を通 してどんなことをなさるのか?神は今、私の中でどんなみわざを行っておられるのか?を考えるべきです。このように考えれば、愚かな私を今日も神が使っていらっしゃるのだと感謝するようになります。神中心にすべてを見、神中心の信仰で成長する私になるのです。

16.変わらない神の愛
私が少し良い善いをしたから神が私を愛し、また罪を犯したからといって懲らしめられるという顔色をうかがうような信者になってはいけません。ちょうと失敗したからといって逃げようとしたり、ちょっと善いことを行ったと言って自慢しようとしてはいけないのです。あなたの行いによって神の愛が変わるのではないことをまず知るべきです。こうであっても、ああであっても、神はあなたを愛されます。
あるお母さんが、一人で苦労しながら四人の子供を育てていました。ある日の夜、旅人がその家で宿を借りることになりました。その旅人は会話を交わす中で、子供に対する愛の順番をこっそりと、その母親に聞いてみました。
「四人の子供たちのうち、誰を一番、愛していますか。」
母親は言いました。
「はい、勿論、長男でしょう。長男は私の最初の子ですので、一番愛を注ぐようになります」と答えました。ところが少し後に、別 のことを言い始めました。
「いいえ、違います。末っ子を一番愛しています。末っ子はお父さんの顔も知らず、可哀想な子です。それで、末っ子は叱り付けることもできず、ただ大事にするだけです。」答えは終わったかと思うと、
「お客さん、やっぱり違います。私は二番目の子を愛します。その子は一人しかいない娘です。どれ程愛らしいか分かりません。」そう言った後で再び、「違います。実は三番目の子を一番愛しています。これが本当です。なぜなら、この子は小児麻痺にかかりました。それでいつも転んだりして弱いのです。この子を一番愛しています」と言ったそうです。  実は、これが親の心です。弱い子をより愛するようになるのです。親の愛は、勉強がよくできるから愛するのではありません。弱い子、可哀想な子、出来の悪い子をもっと愛するようになるのです。我が子を愛するのにどんな理由や条件が必要でしょうか。家出をしたからといって、その子を忘れることができますか。出来が悪いからといって戸籍から外してしまう親がいるでしょうか。愛はそんなたぐいのものではありません。

17.人間愛にまさる神の愛
神は私たちを初めから愛する者として選び、愛する者として育ててくださり、導いてくださるのです。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ四九・一五~一六)。
「『たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。』とあなたをあわれむ主は仰せられる」(イザヤ五四・一〇)。
「『怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ 愛をもって、あなたをあわれむ』とあなたを贖う主は仰せられる」(イザヤ五四・八)。

18.絶えることのない神の愛
神の偉大な点がここにあります。神の愛は決して途中で放棄しないのです。いや、放棄できないのです。なぜでしょうか。あなたは考えてみたことがありますか。どうしてですか。第一に、御子イエスが私のために身代わりとなって死なれたのです。神が代わりに死なれるという莫大な投資をしたので、絶対に譲れないのです。絶対に引き下がれないのです。あなたを諦めることはできないということです。ローマ書一一章二九節には、「神の賜物と召命とは変わることがありません」とありますが、これは、神の御旨は悔いることなく変わりがないということです。つまり、神は一旦、愛すると決めれば、あくまで愛するのであって、途中でやめないのです。  ルターの有名な言葉の中に、「神の愛は相手を探し回らず、相手を創造する」という言葉があります。神は愛すべき人を探しているのではなく、愛によって愛すべき者へと造り変えていくのです。

19.神の救いの力
子供を持つ親にとっては、理解しやすい言葉だと思います。子供が親の言うことを聞かずに逆らっても、その子を言い聞かせ、叩いてでも愛し、育てていきます。愛する資格があるからではなく、初めから愛する者として育ててゆくのです。
同じように、神の愛の御旨は悔いることがなく、最後まで愛するということです。このことは、パウロ自身も経験によって確信していました。彼は神に敵対していた時に救われたし、またその後も多くの失敗をしましたが、神は彼を助けてくださいました。始まりがそうであって過程もまたそうだったので、今から後も、自分がどんな失敗をするとしても、「神は私を守ってくださる」という確信がありました。今は不従順になっているイスラエル人に対しても、あわれみによって救われるということを徹底的に信じています(ローマ一一・三一)。神は、あわれみによって、不従順になっている者を従順する者へと造り変えてくださるのです。従順するから救うのではなく、従順する者に造り変えていかれるのです。謙遜であるから救うのではなく、謙遜にさせて救うのです。ですから、私たちは主の御前に自慢できるものが何もありません。こんな罪人が救われたので、すべてが恵みであり、祝福です。ローマ書一一章三二節には、「なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです」とありますが、このみことばは、とても神秘的であり、少し理解しにくいみことばだと言えます。しかし、経験した人は、理解できるのです。私が不従順であったので、神のあわれみを受けました。私が不従順な者であったので、ただ恵みによって救われたことを知りました。感謝する以外、何もありません。罪が大きければ大きいほど、神のあわれみも大きく、恵みも大きくなります。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」というみことばが既に、そのことを語っています(ローマ五・二〇)。それほどキリストの十字架は、私たちを救うのに十分以上に救う力があるのです。神が私たちを救うために、それほどまでに大きな、莫大な投資がつぎ込まれたということです。ですから、あなたの愛を途中で放棄することは考えられないのです。

20.救いの計画の確かさ
第二に、神の計画は、人間の罪や行為によって妨害されないのです。結果 的にはいつも神の正しさ、神の御旨を実現させてくださるということです。戦争は苦しいことですが、その恐ろしい戦争を通 してでさえ、神の深い御旨を成り立たせておられるのです。病もまた苦しいことですが、その苦しみを通 して私たちに大きな恵みを与えることもできるのです。裏切られることも本当に心底苦しくなることですが、これを通 して神は思いもしなかった道へと導いてくださることも、私たちはよく知っています。時には失敗も必要であり、苦しいことも必要であり、上になったり、下になったりすることも、すべてが必要なのです。私が孤独になったことには、神の特別 な計画がありました。私が事業に失敗した時にも、神の深い御旨があったのです。結果 的には、これらすべてのことが、私にキリストの姿を受け取らせようとする主の御旨なのです(ローマ八・二九~三〇、ピリピ一・二九他)。
アウグスチヌスは、「神は私一人だけを愛するのごとく、すべての人を愛する」と言いました。ひょっとしたら、私一人のために戦争があるのかも知れません。私一人のために驚く程の事件が必要だったのかも知れません。それほど神は、私たち一人一人を大切にして、みわざを行なっておられるのです。

21.苦しみから生まれる宝物
すべてのことが、私一人を愛して成り立たせる主のみわざであると信じれば、患難にも打ち勝つことができます。また、私の弱点、私の欠点が、私を飛躍させることにもなるのです。もしミルトンが失明しなければ、それほど良い作品を書けなかったかも知れません。ベートーベンは耳が不自由でした。これは、音楽家としては致命的な悪条件でした。しかし、耳が不自由になった後に、名作を残しました。有名なチャイコフスキーは、口で言えないほど不幸を背負い、自殺未遂まで体験した人でした。しかし彼は、あの有名な「悲愴」を残してくれました。  これらすべてが断腸の苦しみを通して与えられたものです。平安な環境では名作ができにくいのです。信仰の世界もよく似ています。エホバの証人に入信していなかったなら、今よりもっと幸せになっていたと考えますか。あなたは証人に入信していなければ、一生涯キリストに出会うことがなかったのかも知れません。また、今の苦しみがなければ、もっと幸せになれると考えますか。今の苦しみがなければ、神の名作が生まれないのかも知れません。あなたは主の御旨の中に生かされているのです。あなたがどんな立場に置かれていても、あなたは主に愛されています。主があなたを成長させ、あなたを用いてくださるのです。そして今も、用いてくださっているのです。